玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

Orikuchi Shinobu The Book of the Dead(3)

2017年03月30日 | ゴシック論

『死者の書』の分かりづらさのひとつは、登場人物の配置をよく把握出来ないところから来ている。人物同士の姻戚関係もよく分からないし、同一の人物が正式の氏名で登場したり、役職名で表されたり、あるいはあだ名で呼ばれたりすることもある。それをきちんと把握するにはそれなりの知識が必要となる。
 それは日本の古典文学に共通した分かりづらさであり、ジェフリーさんは英語圏の読者が迷うことのないように、同一の人物は同一の名前で表現することにしたという。とても親切なやり方と思う。
 しかし、そんな知識を苦労せず与えてくれる本がある。ジェフリーさんが紹介している近藤よう子の漫画版『死者の書』がそれである。近藤よう子の漫画には適宜系図なども図示されていて、登場人物のつながりを一目で理解することが出来る。
 私はジェフリーさんに教えられて、近藤よう子の『死者の書』を買って読み、折口の『死者の書』の細部まで理解する糸口を得ることが出来た。原作を読んで理解出来ない人には、是非近藤よう子の漫画作品を参考書として読むことをお薦めする。
 ところで、ジェフリーさんは序文の中で、かなり大胆な評価を折口に与えている。折口がポスト構造主義の基本的な考え方を先取りしているというのである。ジェフリーさんは次のように書いている。

Orikuchi anticipated some of the fundamental precepts of poststructuralist theory, especially the notion that authority and meaning in literary works are unstable.

「文学作品におけるauthority や意味が不安定なものであるという観念において特に……」ということだ。authority を日本語に訳すなら〝権威〟ということになるが、よく意味が通らない。むしろ、文学表現の盤石性のようなことを意味しているのだろうか。
 その根拠としてジェフリーさんは "I" =〝わたくし〟というものの多義性について触れている。語る主体が単一で統合された声であると思われるシチュエーションにあっても、語る〝わたくし〟はより複雑なものであるという。そのことをジェフリーさんは次のように言う。

The "I" was necessarily plural, a reflection of both the possessed shaman and the possessing god.

 つまり、語る主体は取り憑かれた巫女と、取り憑く神の両方の反映であることにおいて、複数であらざるを得ないというのである。ここには近代小説における確固とした語る主体としての〝わたくし〟というものは存在しない。そしてさらに、語りの場には聞き手も参入して、創造の役割の一端を担うのである。
 こうした語りのあり方を、折口が古代の語りを再現する試みと見るか、それとももっと新しいポストモダンな語りと見るかは評価の分かれるところだろうが、ジェフリーさんは明らかに折口の語りの中にポストモダニズムを読み取っているのである。
 しかし、ポストモダニズムというものが、いわゆる〝近代の超克〟と見なされる得るものであるならば、両者は同じことを意味することになる。あるいはポスト構造主義が語る主体の解体ということを俎上に上げているのだとすれば、それもまた古代の未分化な主体と、ポストモダニズムの言う疑問に付された確固たる主体との同一性を意味することになるであろう。
 私にとってこの問題は、より言語論的なアプロ-チを必要としていると思われる。「取り憑かれた巫女と取り憑く神の両方の反映」ということは、言語論的に言えば〝私の言葉の不在〟を意味している。巫女は神に取り憑かれた状態で言葉を発するのであり、そこには取り憑く神の言葉も含まれるのであるから、巫女自身の〝私の言葉〟というものは存在しないのである。
 ポスト構造主義者の一人、ジャック・デリダは「あらゆる言語は他者の言語である」と言っているが、それは言語というものがある共同体においてのみ流通するものである以上、言語はいつでも他者の言語でしかあり得ないということを意味している。
 だから、ポストモダンな意味においても、語る主体の言葉は〝取り憑かれた私の言葉と取り憑く他者の言葉〟の両義性を持つ。"I" =〝わたくし〟というものの存立の不可能性をポスト構造主義は言うのである。
 またジェフリーさんはロラン・バルトの言葉を借りて、次のように言う。

Shisya no sho is what Roland Bartes would have called a "writerly" novel in that it is suggestive and complex enough that one could read it on multiple levels and interpret it in numerous ways.

"writerly"というのはロラン・バルトの『S/Z─バルザック「サラジーヌ」の構造分析』に出てくるscriptible という言葉を翻訳するために、英語の訳者が作った造語だそうである。日本語で言えば、「書きうる」(「読みうる」に対しての)ということになるだろうか。しかしこの言葉は、「読者が積極的に参加して意味を作り上げていくこと」を意味しているようで、ジェフリーさんは折口の語りのあり方に、writerly なものを見ているわけである。
さらにジェフリーさんは『死者の書』における"the occasional use of stream-of-consciousness"ということも言っている。いわゆる「意識の流れ」という小説技法のことである。
 確かに滋賀津彦の墓の下での独白部分に、それに似たものはあるかも知れない。しかし、それではあらゆる独白が「意識の流れ」ということになってしまうので、この言い方に私は賛成出来ない。意識が発生するその瞬間々々において、意識を言語化していく、ジェイムズ・ジョイス的な意味での「意識の流れ」が『死者の書』にあるとは思わない。

近藤よう子『死者の書』上下(2015・16、KADOKAWA/エンターブレイン)