玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

高橋和久『エトリックの羊飼い、或いは、羊飼いのレトリック』(2)

2015年04月10日 | ゴシック論
 高橋和久のレトリックとは何か? デリダやラカン、ド・マンやサイードなどを引用しながら、それらの引用を自らの論理展開のために援用しているのか、それともそうしたいわゆるポストモダンの論理を否定しようとしているのか、よく分からないように書くというレトリックである。
 読んでいる方は煙に巻かれたような気分になる。それが衒学的なポーズにすぎないのか、どうなのかさえよく分からない。しかし『悪の誘惑』再版あとがきの次のような文章を読むと、高橋がポストモダン批評を参照せざるを得なかった事情もよく理解できる。初版刊行後30年間の動きについて述べた部分である。
「実際、この翻訳に悪戦苦闘したときには手に入らなかった注釈つきのテクストが、この間にペンギン・ブックスを含むいくつかの出版社から数種類も出版され、それと呼応するように、この作品をめぐる批評も盛んになった。そして、そうした批評の意匠が主としてポスト構造主義やデコンストラクション(デリダの主要概念)に彩られていたという事実は……」
 フランス本国始め、日本においてもそうだったが、英文学研究においてもポストモダニズムが猖獗を極めていたことが理解されるし、高橋はそのことに対してたぶん皮肉な視線を向けているのである。きっとそうなのだ。至るところにポストモダニズム的言説へのはぐらかしがある。だからこそ最後まで読ませる本にはなっているのだろう。
 そこで、ではホッグのレトリックはどうなのだろう。高橋の興味は『悪の誘惑』における、編者の語りと罪人の語りとの間の二律背反に向けられていて、それがどういったところから生まれてくるのかを執拗に追求するというのが高橋の姿勢に他ならない。
 つまり高橋の探求は、ホッグの伝記的事実を通してその二律背反をレトリックとして解明しようという方向に向かう。ホッグの成功と慢心、自作をさえ標的とするパロディ作家としての姿、合理主義と超自然的要素への関心の背理などが明らかにされていく。
 しかし、高橋の解明が成功したとは思えない。『悪の誘惑』における編者と罪人の言説の価値が両義的なように、ホッグの生き方もまた両義的であるとしか言いようがない。
 高橋が本書のあとがきで「テクスチュアリティの迷宮を体現しているかに見える『罪人の告白』(『悪の誘惑』のこと)において、「編者の話」は「手記と告白」に対してメタの位置を確保できなかった」と言うとき、それはゴシック小説において、超自然的要素を屈服させることはそれを信じていようが信じていまいが可能なことではないということを意味しているのに過ぎない。
 こうしてゴシック小説に対しては、ポストモダニズム的思考が有効であるわけではないということを、本書は明かしたてることになったのであった。
(この項おわり)
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