玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(4)

2024年01月25日 | ラテン・アメリカ文学

 たとえば第6章には、主人公ホセ・セミーの曾祖母メーラばあさんが、キューバ分離独立運動での武勇伝を語る場面で、次のような一節に出くわすことになる。

「その口には、時間の配置も、食堂でトランプ遊びをしている者たちの沈黙も入ることがなかったが、すぐに例のごとき亡霊的な対話が彼らのことまで亡霊に変えてしまい、タロットの図表盤に近々やってくる自らの不幸の嘆きを読みとったり、黄泉川の小舟の上で自らが鞭打たれる音を聞くことになる日の近さを解読したりしている豪華絢爛たる封建領主のような姿をまとわせるのだった。」

このような比喩するものが比喩されるものと密着するのではなく、比喩されるものから自由に遊離していく直喩表現に出会ったときに、私はレサマ=リマが『マルドロールの歌』の影響下で書いているのに違いないという確信を抱いたのだった。イジドール・デュカスの奇態な直喩がある種感覚的な精度を持っていて、イメージとしては分かりやすい特徴(それを評価することができないにしても、誰もが「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」というものを視覚的に捉えることはできる)を持っているのとはやや違って、視覚的なイメージだけでは追い切れないところがある。
 比喩するものと比喩されるものとの距離が、より観念的な精度によって確保されているという風に読めるところには、明らかにデュカスの直喩表現とは違った部分がある。それとここでは〝時間〟といったものが重要な要素となっていて、それは空間的な情景に対する感覚的なイメージ喚起力では追い切れないものだという事実である。もう一か所、時間的なものが直喩の対象となっている一節を読んでみよう。第8章、ホセ・セミーが叔母の住む田舎に寝台車で出かける時の不眠の一夜を描いた部分である。

「夜じゅう一番気になったのは時間が実体化したことだった。時間は距離を覆う灰色の、途切れめのない一本の線に変容することによって、目に見えるものとなったのだった。目を閉じても灰色の線が追いかけてきて、それはまるで水平線に姿を変えたカモメみたいに、真夜中の中を横切っていきながら甲高い鳴き声を立てて彼を勢いづけるのだった。すると、その線が、揺れ動いたり再びあらわれたりしながら、鳴き声をたてているみたいに感じられるのだった。」

 実体化した時間を、「真夜中を横切って甲高い声で鳴く水平線となったカモメ」などというものの視覚的イメージとして捉えることはほとんど不可能である。こうした部分については、レサマ=リマの直喩表現がデュカスのそれを進化させているのだと理解するのが正しい見方であろう。
 セミーが叔母の田舎で砂糖農園を訪問し、その農園主の暮らし方が紹介される場面では、より穏当な直喩表現が読まれるだろう。

「これはまったくエデンの園のようなところで、そこではカモメのように眠り、小ぶりなサメのように食らい、涅槃に暮らす齧歯類のように退屈して過ごした。」

 どうということのない直喩と思われるかもしれないが、ここでカモメとサメ、齧歯類という動物たちが登場することに注目したい。動物を使った直喩は先に引用した「ミシンと雨傘の出会い」の部分に出てくる齧歯目や鼠、もう一つの引用に出てくるマッコウクジラの直喩に見られるように、『マルドロールの歌』の最大の特徴かもしれないからだ。

 

 

 


ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(3)

2024年01月23日 | ラテン・アメリカ文学

 イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』は、最終第6歌に出てくる「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように(美しい)」という一節によって有名であり、それがシュルレアリスムの先駆的な表現とみなされたのだったが、この部分の全体を読めば、それが奇態な直喩の連続の中にあって、最後のとどめを刺す役割を果たしていることが理解される。こうである。

「彼は美しい、猛禽類の爪の伸縮性のように。あるいはまた、後頸部の柔らかい部分の傷口における、筋肉の動きの不確かさのように。あるいはむしろ、捕獲された鼠によって絶えず仕掛け直されるので、この齧歯目の動物を自動的に際限なく捕らえることができ、藁の下に隠されていても機能できる、あの永久鼠捕り器のように。そしてとりわけ、解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように!」

 ここに見られる直喩の連投は、マルドロールの犠牲となる14歳と4か月の少年メルヴィンヌの美しさを形容しているのだが、人間の美しさとは全くかけ離れた、それどころか美しさ一般とは何の共通項もない比喩が執拗に積み重ねられ、比喩するものは比喩されるものからどんどん離れていく。そして「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」というイメージが、少年美の概念を揺さぶりながら、comme(のように)という統辞によって着地に至るのである。
  直喩の連投は、この一節に極まっているが、奇態な直喩は『マルドロールの歌』の第1歌から第6歌までの至るところに仕掛けられている。たとえば、次のような第4歌の直喩を読んでみよう。

「しかしただちに夢のことに移るとしよう、こらえ性のない連中が、この種の話が読みたくてじりじりするあまり、妊娠した雌をめぐってたがいに喧嘩する巨頭マッコウクジラの群のように吠えはじめるといけないからな。」

 この直喩は情景に対する比喩として使われているのではなく、マルドロールがこれから変身の夢を語ろうとしているのに、いつまでもじらされて待ちきれない読者の苛立ちに対する比喩として使われている。一般的に直喩は人間の五感に与えられる情報を形容するために、それに直接関係しなくても、似たような情報を持ったものを持ち出してくることによって成立するが、ここではそうした一般的な慎みの範疇は越えられている。あらゆるものが直喩の対象となり、ありとあらゆるイメージが直喩のために駆り出されてくる。『マルドロールの歌』の基調はそうした直喩の上に成り立っている。いや、直喩だけでなく隠喩もまた直喩と共同して『マルドロールの歌』の独特の世界を形成していくのだが、隠喩についてはもう少し後で分析することにしよう。
 では、『パラディーソ』におけるレサマ=リマの直喩の使い方を見て行くことにしよう。

 


ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(2)

2024年01月22日 | ラテン・アメリカ文学

 このような溢れんばかりの直喩と隠喩によって構成された、濃密でスピード感に満ちた文章世界を、私は既に経験している。それはラテンアメリカ文学においてではなく、南米ウルグアイの首都モンテビデオで生まれ、13歳で父母の故郷であるパリに渡った青年イジドール・デュカスが、22歳から書き始めた散文詩『マルドロールの歌』の世界である。
 まず、デュカスの『マルドロールの歌』における特徴的な直喩表現についてみていこう。直喩の特異性はこの作品の冒頭からいかんなく発揮されている。第1歌(1)から引用する。

「踵を返せ、前進するな、母親の顔をおごそかに凝視するのをやめ、崇敬の念をこめて顔をそむける息子の両眼のように。あるいはむしろ、瞑想にふける寒がりの鶴たちが形作る、見渡す限りのV字角のように。それは冬のあいだ、沈黙を横切り、帆をいっぱいに広げて、地平線のある一点に向かって力強く飛翔していくのだが、そこから突然、異様な強風が卷き起こる。嵐の先触れだ。最長老の、一羽だけで群れの前衛をなしている鶴は、それを見ると分別ある人物のように頭を振り、その結果くちばしも振ってかちかちと音を立て、嬉しくなさそうな様子を示すのだが(私にしても、この鶴の立場だったら嬉しくないところだ)、他方、羽根がすっかり脱け落ちた、三世代の鶴と時代を共にしてきたその老いた首のほうも、いらだたしげに波打って動き、いよいよ接近してくる雷雨の到来を予告する。経験を宿した眼で四方八方を何度か冷静に見回してから、慎重に、この先頭の鶴は(というのも、知力に劣る他の鶴たちに尾羽根を見せる特権をもっているのはこの鶴なのだから)、憂いがちな哨兵ならではの用心深い叫び声をあげると、共通の敵を撃退すべく、この幾何学的な図形(それはおそらく三角形と思われるが、これらの奇妙な渡り鳥が空間に形作っている第三辺は目に見えない〕の先端を、熟練の船長よろしく、面舵、取舵と、自由自在に方向転換しながら進んでいく。そして雀の羽と同じくらいにしか見えない翼を操って、この鶴は、なにしろ愚かではないのだから、こうして賢明な、より確実なもうひとつの道をとるのである。」

 ここに見られるのは、奇態な直喩と直喩の野放図な展開である。直接的な直喩は「瞑想にふける寒がりの鶴たちが形作る、見渡す限りのV字角のように」の部分に明示されているが、この部分が比喩している比喩内容は、これから『マルドロールの歌』を読もうとする臆病な読者が、この作品から撤退していく有様である。しかし、鶴のV字形編隊の直喩は、まるで鶴の隊列そのものを描写していくかのような文章に引き継がれていく。
 前回引用したレサマ=リマの一節と同じように、どこからどこまでが比喩で、どこからどこまでが描写なのか分からなくなるという点において、この文章は一致している。言ってみれば、比喩表現において比喩するものが比喩されるものの束縛を離れて、自由にさまよい出るのである。これはほとんど小説における文章というよりも、詩における詩文の持つ特徴であって、詩人にしか可能ではないし、このような文章を自在に駆使したのは、19世紀のデュカスと、20世紀キューバのレサマ=リマだけかもしれない。
 そうした意味で、レサマ=リマの『パラディーソ』は20世紀ラテンアメリカ文学において、極めて特異な作品であると同時に、ブームの時代を代表するいくつかの作品に充分比肩し得る優れた作品であったと私は思う。『マルドロールの歌』は多くの詩人や作家に影響を与えたが、レトリックの面で正統的な後継作品を生んではいない。『マルドロールの歌』に近い作品がほとんど存在しないのだ。しかし、20世紀キューバにそうした作品が例外的に存在したということを私は言っておきたい。
 以下、私はそのことの証拠をいくつか挙げていこうと思う。


ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(1)

2024年01月19日 | ラテン・アメリカ文学

「ラテンアメリカ文学不滅の金字塔」というキャッチコピーに乗せられて、キューバの作家、ホセ・レサマ=リマの『パラディーソ』を購入し、読んでみることにした。レサマ=リマがいわゆる「ブームの時代」より前の世代の作家であることも知らずに読んだのだが、読み進むにつれて、これまで読んできたラテンアメリカ小説の、どの作品とも似たところのない作品だということを了解した。
 私にとってのラテンアメリカ小説の代表作を挙げるとすれば、チリの作家、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』であり、コロンビアのガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』であり、メキシコのカルロス・フエンテスのゴシック長篇『テラ・ノストラ』であり、ペルーのマリオ・バルガス=リョサの歴史小説『世界最終戦争』であり、キューバのアレホ・カルペンティエールの『光の世紀』であり、といったところになるだろう。
 どの作品も長篇であり、得難い読書体験を与えてくれるユニークな作品であるが、『パラディーソ』の独自性には及ばない。『パラディーソ』には『夜のみだらな鳥』のような幻想文学的な要素は少ないし、『テラ・ノストラ』や『世界最終戦争』のような歴史小説的な要素もない。架空の村の年代記である『百年の孤独』のような、一族の歴史を語って南米の普遍性に迫るような小説とも明らかに違う。同じキューバの後輩作家、カルペンティエールの『光の世紀』のような端正な語り口などどこにもない。
 ではどこに『パラディーソ』のユニークさがあるかと言えば、それはレサマ=リマが根っからの詩人であること、生涯に残した小説作品がこれ一作しかないことに拠っているように思う。この作品はほとんど小説とは思えないような文章で書かれており、散文詩的な作品とさえいえるのであって、ラテンアメリカ文学を代表する多くの傑作に、このような作品はないと言ってもよい。読者はこの小説の第2章で、早くも次のような文章に突き当たるのである。

「ルーバがアルコールに浸した紙束を激情をこめて振るうので、アルコ?ル精気の微粒子は震える小鼻に打ちつけてかすかな刺激をあたえた。彼女のひとつひとつの動きに従って鏡の縁の動植物の配置が変化するように見え、まるでタペストリーに描かれた楽園の光景を激しく揺さぶる雹まじりの嵐のようだった。その腕は船客を桟橋に運ぶランチのように鏡の水面を横断していき、握りしめた紙の棍棒は、明暗法によるマホガニーの反映の間で草を食んでいるカモシカの尾にぶつかった。その勢いでルーバは腰をたわませて腕をアーチ状に掲げたまま後退したので、危険なほどベンチの端に接近するとともに、彫り物細工の枝葉の繁みの間から覗くような機動的な視角を得ることになったが、カモシカの尻尾を放したのでカモシカは岩の間を跳ねたり蹄でなでるようにスイレンに触れたりしながら姿を消した。彼女は体勢を持ち直してふたたび一歩前に進み、再度ナポリの朝の踊りのようなアーチを出現させ、ポケット版のヘレスポント海峡をあらためて横断しようとして、アルコールの浸透によって預言者のマントと化した紙束で海峡を覆いつぶしたが、それから額縁の岩からも手を放したので小川に突発的な大波が起きて、カモシカはもう二度と姿をあらわさなくなった。」

 この一節は使用人のルーバとトランキロが屋敷で二人きりとなり、一緒に掃除をする場面であり、ルーバ(女)がトランキロ(男)にすり寄って来るので、トランキロがシャンデリアの上の方へと逃げていく喜劇的な場面に過ぎないのだが、どこまでが描写でどこまでが直喩なのか、あるいはどこまでが隠喩でどこまでが描写なのか判然としないために、そこで何が起きているのか読者に理解する余裕が与えられないという性質を持っている。
 この一節を読んで、まだA5判9ポ2段組600頁の大冊の5%しか進行していないのに、私は「この小説は読み通すことができる」と確信するに至ったのだった。何が書かれているかよりも、どう書かれているかの方に比重がかかり、そこに文章を読んだ時の悦楽を見出すことができると判断したからである。
 著者が断続的に30年以上の歳月を費やして完成させ、そして訳者の旦敬介がこれも断続的に20年かけて翻訳した『パラディーソ』を超高速で読んでいくことができた。旦はこの小説にはゆっくりとした時間が流れていると言っているが、濃密でスピード感あふれる表現に溢れているのも事実であって、読者がそれにつられてじっくりとではなく、早いスピードで読んでいくのも流儀として認めてもらってもいいだろう。

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(2022、国書刊行会)旦敬介訳

 


「北方文学」第88号発刊

2023年12月21日 | 北方文学

「北方文学」第88号を発行しましたので、紹介させていただきます。先号より地方小出版流通センター扱いとなり、大手取次を通して全国の主要書店に少部数ではありますが配本されています。同時に紀伊國屋ブックウエブや楽天ブックスなどのネット書店でも検索して購入できるようになっています。今年、新潮社刊の『文藝年鑑』の「同人誌」の項で、真っ先に「北方文学」が取り上げられていますので、少しは注目されるかもしれません。

 巻頭は魚家明子の詩2篇。「夏の幻想」と「ノックする」です。最近の魚家の作品は生き生きしていて言葉に力があります。言葉の肌触りというか、手触りというか、それがしっかりしていて、読み流すことのできない作品になっていると思います。
 二人目は館路子の「霊地たる山に居て風と別れる」。いつもより短めの長詩で、死者の霊との交感、あるいは死者の霊との交感への願望を歌った作品です。修験者の白装束が出てきますが、7月に同人仲間で八海山にロープウェイで登った時の体験が生きています。
 続いて、鈴木良一の〝これでも詩〟という「断片的なものの詩学」第2弾「ロシアから即興の風が吹いてくる5」です。鈴木が住む新潟市沼垂地区の歴史のこと、ロシア人、アレクセイ・クルグロフの即興演奏のこと、ノイズムのロシア公演のこと、ロシアのウクライナ侵攻のことなどの断片が犇めいています。
 徳間佳信の「諏訪行」が続きます。友人と諏訪湖を訪れた時の短歌7首です。

 批評はまず、霜田文子の「「内なる差別」を見つめて――津島佑子『狩りの時代』を読みながら――」です。津島佑子の『狩りの時代』を中心に、障害者に対する差別の問題を、ナチスの優生思想に基づく障害者虐殺の歴史と、霜田自身の体験を背景に論じています。2016年の植松聖による、やまゆり園での大量殺人のことも浮かび上がってきます。杉田俊介の「「どんな重度の障害者の生でも意味がある」と言ってしまうと、「『意味/無意味』『善い生/悪い生』という差別的な二分法が温存されてしまう」という言葉がすべてを語っています。「どんな人間の生にも意味などはない」という考え方が正解ではないでしょうか。それにしても重いテーマですね。
 次は海津澄子が2022年度のノーベル賞作家アニー・エルノーを論じた「身につまされるということ、語られた物語を受け取ること」。エルノーの作品への共感を語りつつ、日本の文芸ジャーナリズムによる作者の体験へのこだわりに対する批判もなされている。重要なことは作品に共感し、それを受け止めること以外にはないのでしょう。
 鎌田陵人の「完全に姿を消す方法――レディオヘッド試論――」は、ロック評論です。レイディオヘッドのトム・ヨークがジョニー・グリーンウッドと一緒に組んだ新バンド、Smileの新曲Bending Hecticに触発されて書かれた、本格的なレイディオヘッド論になっています。「完全に姿を消す方法」というのは、レイディオヘッドの最高傑作といわれるHow to Disappear Completelyのこと。2曲を対比してレイディオヘッドの今後を予想しています。
 しばらく書かないと言っていた榎本宗俊が、「「西行」異論」を寄せています。過去に書いたものということです。西行の歌を小林秀雄のように近代的自我の側面から読むのではなく、道歌として読む方向を探っています。
 続いて徳間佳信の「「希望」の語り方――張惠?「街頭の小景」から――」。中国現代小説に間テクスト性の論点から切り込んだ評論です。参照されるのはチェーホフと魯迅の作品です。中国の絶望的な現実を描きながらも、希望を失わない張惠?の作品に高い評価を与えています。張惠?「街頭の小景」の翻訳も掲載しています。
 研究では、坂巻裕三の「荷風と二人の淳 Ⅰ」が永井荷風研究の第4弾になります。二人の淳とは作家・石川淳と批評家・江藤淳のこと。今回は石川淳の永井荷風についての二つの文章について触れています。一つは荷風生前に書かれ荷風を称讃する「明珠暗投」、もう一つは荷風の死直後に書かれ、荷風の文学を全否定する「敗荷落日」。この落差の拠って来るところを推理しています。
 書評が一本、柴野毅実の「青木由弥子『伊東静雄――戦時下の抒情』を読む」です。単なる書評ではなく、柴野の伊東静雄体験から始め、青木の女性らしい独自の視点と新たな評価軸を紹介し、橋川文三の『日本浪曼派批判序説』を読んでの伊東静雄と戦争についての論点を確認するものとなっています。
 福原国郎の「三五兵衛駕籠訴――越後国村上領百姓濫訴の事――」が続きます。いつものように古文書から読み解く郷土史研究ですが、越後国村上領現燕市の百姓たちが、村の天領化を求めて幕府に命がけの直訴を行う過程を活写しています。
 少し文学から離れますが、研究として重慶外国語外事学院教授の高鵬飛氏が「古墳に埋葬された竹簡と家族への手紙??『雲夢睡虎地秦簡』をめぐり??」を寄稿しています。湖北省孝感市雲夢で1975年に発掘された、古墳で見つかった清の時代の竹簡についての紹介です。権力者ではなく、戦争に駆り出された一般庶民が家族にあてて書いた手紙を紹介しながら、高氏は歴史は一般庶民がつくるものとし、権力者に翻弄される庶民の姿に、今日にも通じるものを読み取っていきます。
 小説は2本。まずは板坂剛の「偏帰行」。全共闘世代のカリスマ的存在として活躍した兄と、いささか普通でない弟の物語。兄は渋谷騒動で警察官を死亡させるなどの過激な活動を続けるが、次第に反革命勢力の根絶のための内ゲバにのめり込んでいく。弟もその片棒を担ぐことになるが、その過程で当時の左翼セクトに対する批判的な見方が、作者によって示されていると読むべきでしょう。兄と50年ぶりに再会するラストのシーンが、ちょっとびくっとするくらい衝撃的です。
 続いて柳沢さうびの「書肆?水と夜光貝の函(1)」。時代は戦後、舞台は?崎市海水浴場に立つ「客舎?水樓」。新制高校も舞台の一つ。いささかエキセントリックな若者たちの青春群像を描かせると、柳沢の筆は冴えわたります。高校生離れした教養の持ち主・澗川理彦(たにがわあやひこ)とこちらも本の虫のような浄水文(きよみずあや)との、文学をめぐっての交流。それが理彦の謎めいた乳母・さくが絡んでどう発展していくのか大きく期待が膨らみます。3回連載の第1回目。

 

以下目次を掲げます。

魚家明子*夏の幻想
魚家明子*ノックする
館路子*霊地たる山に居て風と別れる
鈴木良一*断片的なものの詩学――2 「ロシアから即興の風が吹いてくる5
徳間佳信*諏訪行
霜田文子*「内なる差別」を見つめて――津島佑子『狩りの時代』を読みながら――
海津澄子*身につまされるということ、語られた物語を受け取ること
鎌田陵人*完全に姿を消す方法――レディオヘッド試論――
榎本宗俊*「西行」異論
徳間佳信*「希望」の語り方――張惠?「街頭の小景」から――
坂巻裕三*荷風と二人の淳 Ⅰ 
柴野毅実*青木由弥子『伊東静雄――戦時下の抒情』を読む
福原国郎*三五兵衛駕籠訴――越後国村上領百姓濫訴の事――
高 鵬飛*古墳に埋葬された竹簡と家族への手紙――『雲夢睡虎地秦簡』をめぐり――
板坂 剛*偏帰行
柳沢さうび*書肆?水と夜光貝の函(1)


玄文社の本は地方小出版流通センターを通して、全国の書店から注文できます。

 

 

 

 


北方文学が文藝年鑑に紹介される

2023年08月11日 | 北方文学

日本文藝家協会編集・新潮社発行の『文藝年鑑』に「北方文学」の霜田と柴野の評論が紹介されました。

霜田のは85号掲載のブルーノ・シュルツを論じた「ポ・リン/ここにとどまれ」と、86号の「「描かれた《ビルケナウ》」の向こう――ゲルハルト・リヒター展を観て――」。

柴野のは東京の同人誌「群系」48号掲載の「アルフレート・クビーンの『裏面』をめぐって」と「北方文学」83号に掲載された漱石『明暗』論「夏目漱石『明暗』とヘンリー・ジェイムズ」。

『文藝年鑑』は全国の同人雑誌一覧を掲載するなど、同人誌紹介に力を注いでいますが、内容について紹介されるのは初めてです。

著者の越田秀男さんはずっと「図書新聞」の「同人雑誌評」を担当されている方で、「北方文学」が発行されるたびに紹介していただいてきました。

この度の『文藝年鑑』での紹介は光栄の至りです。以下は越田さんの文章の引用になります。最初の一行から、なぜ霜田と柴野の評論が紹介されたかが理解されます。

 

 

 二〇二二年はロシアのウクライナ侵攻、熱波、旧統一教会問題、円安・物価高騰、 二〇二三年を迎えて寒波。この事態を我が同人誌村の文人達はどのように感受し言葉に表したか。
 
 ウクライナでは人々の多くが国外へ避?する中、生きる場所はここしかないと残る人達も。霜田文子さんの取り上げたブルーノ・シュルツ、短編群のうち「父の最後の逃亡」はその心悄と重なる(「ポ・リン/ここにとどまれ」北方文学85号)―― 〈父〉は幾度も死にながら死なず、完全に死ぬとザリガニに変身、〈母〉に科理されるも、脚一本残して逃亡。シュルツは終生ドロホビチで暮らし、ゲシュタポに射殺された。
 また霜田さんは86号で、六月東京で開かれたゲルハルト・ リヒター展を取り上げた。注目は「ビルケナウ」アウシュヴイッツ=ビルケナウ強制収容所で囚人が隠し撮りしたとされる写真をもとに描いた油彩画四点。四枚の写真を拡人しキャンバスに、それをなんと絵具ですっかり塗り込めてしまった! 霜田さんはその意図を解いていく。

 柴野毅実さんはオーストリアの挿絵画家アルフレー卜・クビーン、彼の唯一の小説「裏面――ある幻想的な物語」(一九〇八)を取り上げ、世界大戦によるヨ?ロッパの崩壊を予見したもの、と評した(アルフレート・クビーンの『裏面』をめぐって」群系48号)―〈私〉は旧友〈パテラ〉が莫大な資産を投入して造った夢の国に招待され、金が無くても生活出来るところ(共産主義の寓喩) が気に入る。そこでパテラに会おうと試みるが、まるでカフカの『城』のごとくに邪魔また邪魔(官僚組織の寓喩)。そして行き着くと悍ましい怪奇の世界が。最後に戦いが始まり、対立するパテラとアメリカ人は巨大化し……。 ここで柴野さんは小説の組み立て方で、G・ガルシア=マルヶス の『百年の孤独』との共通点に気付く。――人工的に設営された閉鎖的共同体体であることや発生から滅亡の過程など。『裏面』は『百年の孤独』の六十年も前の作品。
 柴野さんは夏目漱石『明暗』についても、登場人物を対立させる方法において、ヘンリー・ ジェイムズの作品、特に『金色の盃』との共通点を指摘しており(北方文学83号)、小説を構造面で捉える仕方は特筆に値する。


「北方文学」87号紹介

2023年07月17日 | 北方文学

「北方文学」第87号を発行しましたので、紹介させていただきます。今号より地方小出版流通センター扱いとなり、大手取次を通して全国の主要書店に少部数ではありますが配本されています。同時に紀伊國屋ブックウエブや楽天ブックスなどのネット書店でも検索して購入できるようになりました。どれほど売れるかは分かりませんが、最近発行のたびに「図書新聞」などで紹介され、「季刊文科」でも大きく取り上げられるようになってきましたので、少しでも全国の読者に届くことを願っています。

 巻頭は鈴木良一の〝これでも詩〟という「断片的なものの詩学」です。「新潟県戦後50年詩史」を10年にわたって書き継いできた鈴木が、虚脱状態を乗り越えて新たな境地を見せています。「1987年からの私の私的な行動を跡付けるチラシ=チラ詩」ということで、エッセイのようでもあり、戦後詩史の補填でもあり、また新たな自身の詩作への挑戦でもありといった、破天荒な形式と内容の作品となっています。
 二人目は館路子の「カンブリア紀の残滓に契合する、今」。いつもの長詩ですが、今回は死に瀕した妹さんへの思いを綴った内容で、いつもより現実との通路がはっきりした作品です。胎児期に肺の中に生成する器官があり、それは七歳までに消えるはずなのに、千人に一人の割合で残留して、体に悪影響を与えるのだそうです。カンブリア紀の動物に由来するものだそうで、それ故に「カンブリア紀の残滓」というタイトルになっています。
 続いて大橋土百の俳句「風のなか」。いつものように一年間の思索ノートからの俳句選です。作風は様々ですが、諧謔に満ちた句もあり、シリアスな句、時代と切り結ぶ句もあって、読みごたえがあります。

 批評はまず、霜田文子の「「きみ(du)」という天使――多和田葉子『パウル・ツェランと中国の天使』を読む――」です。多和田葉子がドイツ語で書いた小説を、ツェラン研究の関口裕昭が翻訳したもので、霜田は多和田の作品をカフカやベンヤミンに引き寄せて読んでいきます。〝天使〟とはツェランが詩で書いた「歪められた天使」であり、ベンヤミンが買い求めたクレーの「新しい天使」であり、「歴史の概念について」で語っている「歴史の天使」でもあるという。霜田の批評は、多和田の小説についての論であると同時に、ツェラン論であり、ベンヤミン論であり、カフカ論でもあります。
 次は柴野毅実の「『テラ・ノストラ』のゴシック的解読――カルロス・フエンテスの大長編を読む(中)――」です。今号で終わる予定だったのですが、諸般の事情で終結は次号に持ち越しとなりました。今号のテーマは『テラ・ノストラ』における「間テクスト性とテクストの快楽」であり、マチューリンの創造したメルモス像の系譜に関わる文学史的探究でもあります。メルモス像の系譜についてはあまり書かれていないと思われますので、重要な探究になっていると思います。特にボードレールの『悪の華』に関わる部分に注目。

「萃点に向かって――GEZAN with Million Wish Collective『あのち』――」は、このところサブカルチャーを論じることの多い鎌田陵人によるもの。日本のロックバンド(あるいはパンクロックバンド)GEZANの新譜「あのち」についての批評です。ロックについての批評を書けるのは鎌田の特徴で、今回の論はGEZANだけでなく、コロナ後のロックシーンについての広範な議論を含んでいます。ロックの頂点はもちろん1960~1970年代で、1990年代にオルタナティブロックでもう一つの頂点を迎え、コロナ後の現在新たな頂点を迎えつつあるというのが鎌田の議論であります。検証してみる価値があります。
 榎本宗俊の「良寛の療養」が続きます。我々の迷妄はあれこれと「思慮」することに原因があり、「思慮」することをやめて「あるがまま」に生きることが重要、という議論に尽きています。

 研究では、坂巻裕三の永井荷風研究「麻布市兵衛丁「偏奇館」界隈、空間と時間(Ⅱ)
――『断腸亭日乗』東京大空襲の記述が完成するまで――」が力作です。『断腸亭日乗』の白眉ともいうべき、昭和20年3月10日の項、つまりは東京大空襲の部分が、いかにして成立したかを、荷風が毎日持ち歩いていた手帖の手書き草稿と、それを浄書した『罹災日録』、そして『断腸亭日乗』の記述とを比較する中で、明らかにしています。また、坂巻の発見による、当時二十歳そこそこで皇居で女官をしていた田中良久子の日記にある東京大空襲の記録と、荷風の『断腸亭日乗』の記述との比較が目玉になっています。
 続く福原国郎の「苦学」は、苦学のように地味な学校史に関わる研究余禄といったところ。大正期旧制小千谷中学に入学した岩夫少年の、自炊しながらの下宿生活、修学旅行時のお金の苦労などが紹介されている。現在とは比較にならない苦労が当時の中学生にはあったことが窺われる。

 小説は2本。まず柳沢さうびの「夜のつづき」。この作品は先号の「瑠璃と琥珀」(「季刊文科」の同人雑誌評で大きく取り上げられました)、先々号の「えいえんのひる」との連作になっていて、完結編です。登場人物の枠組みはそのままに、今回は北欧女性と日本人画家とのハーフの女性の視点で書かれています。謎はある程度解明されていくのですが、最後に「死ぬまでの秘密」として残される肖像画に託された秘密が、大きな余韻を残します。それにしても文章が完璧です。
 最後は魚家明子の「雨とドア」、60頁の大作です。対人関係に違和感を持つ少女の成長過程を描いているという意味では、魚家なりのビルドゥングス・ロマンと言えるでしょう。タイトルの〝雨〟も〝ドア〟も引きこもりをイメージさせます。雨の日は家に籠るのだし、ドアは家の内部空間を開くというよりは、閉じ込める機能を持っています。少女の閉鎖的な感性を魚家は瑞々しい筆致で描いています。

以下目次を掲げます。
鈴木良一*断片的なものの詩学
館路子*カンブリア紀の残滓に契合する、今
大橋土百*風のなか
霜田文子*「きみ(du)」という天使――多和田葉子『パウル・ツェランと中国の天使』を読む――
柴野毅実*『テラ・ノストラ』のゴシック的解読――カルロス・フエンテスの大長編を読む(中)――
鎌田陵人*萃点に向かって――GEZAN with Million Wish Collective『あのち』
榎本宗俊*良寛の療養
福原国郎*苦学
坂巻裕三*麻布市兵衛丁「偏奇館」界隈、空間と時間(Ⅱ)――『断腸亭日乗』東京大空襲の記述が完成するまで――
柳沢さうび*夜のつづき
魚家明子*雨とドア


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井口時男氏講演会

2023年06月07日 | 玄文社

南魚沼市出身の文芸評論家井口時男氏の講演会が、

7月1日南魚沼市浦佐の池田記念美術館で開催されます。

東京の同人雑誌「群系」と新潟の同人雑誌「北方文学」、

柏崎市の文学と美術のライブラリー「游文舎」の共催です。

チラシをご覧ください。

 

 


諏訪哲史『偏愛蔵書室』(5)

2023年01月20日 | 読書ノート

 諏訪はあとがきで、次のように語っている。

「本書では、新刊販促の意味も持つ通常の「書評」のように、おおまかな「あらすじ」を概観するなど、読者への「商品」案内の利便にはいっさい頓着していない。まるで無作為にぱっと本を開くかのような唐突さで、いきなり「文章」をフォーカスし、引用している。読書にとってはほんらい、全体は不要というか、あくまでも参考にすぎず、ひとつの極まった文章さえあれば、それだけで文学的トリップは可能だ。」

 確かに「あらすじ」など、ほとんどどこにも紹介されていない。このような書き方は、私には馴染みのもので、私自身このブログで小説を批評するときに、あらすじを書くことを極力避けてきたからだ。「全体は不要」というよりも、諏訪はやはり物語への評価を低くしているからであって、小説全体というものは把握されていなければならないと、私は思うが。
 あらすじを組み立てることはそれほど批評的な行為で時はない。ある意味でそれは祖述としての意味しか持たないし、作者の思惑に忠実に沿った行為であって、むしろ批評的なのは〝引用〟という行為なのである。諏訪は「まるで無作為にぱっと本を開くかのような唐突さで」と書いているが、膨大なテクストの海の中から、他の大部分を度外視して、わずか一滴の水を掬い上げる行為が、用意周到で、戦略的な批評行為でないはずがない。
 そしてさらに、あらすじ紹介は必ずしも読者をその作品に誘い込む手段としてはレベルの低いものであって、必ずしも読者はそんな誘導に引っ掛かりはしないのである。しかし、吟味されて選択された引用文は、読者を誘惑する手段として第一級のものだ。読者は批評によって選択された、その作品の中で飛び切り重要な部分にじかに触れることができるのであり、引用文と批評者のコメントによって、倒錯的な〝読む〟という行為に誘い込まれずにはいないからだ。
『偏愛蔵書室』には何本か漫画について書かれた書評があるが、漫画を論ずるときに以上のような経緯は露骨に示される。私もかつて偏愛した林静一の『赤色エレジー』からの引用は鮮烈を極めている。『赤色エレジー』を表面的に読めば、昭和の時代の若い男女の同棲生活を描いたものだ。だからよく、南こうせつの「神田川」を引き合いに出して語られることもあるこの作品だが、諏訪はそのことに真っ向から否定的である。
 林の『赤色エレジー』は、青春時代へのノスタルジーによって描かれたものなどでは断じてないし、この漫画を唄にしたあがた森魚の「赤色エレジー」などは、林の原作に泥を塗る冒?的なものでしかない。そのことは本書22頁・23頁に引用された林の絵を見れば一目瞭然である。


 この時代ならば「ねじ式」のつげ義春だけが可能にした、実験的描法に近い頁が、諏訪によって引用されていることを見なければならない。誰もこんな風には漫画を描かなかった、そのことの重要性を諏訪は引用によって、批評的に提起しているのである。引用とはこのように批評の極意であり得るのだ。
 さて、3月まで『アサッテの人』を我慢して読まずにいることができるだろうか。
(この項おわり)


諏訪哲史『偏愛蔵書室』(4)

2023年01月19日 | 読書ノート

 ナボコフの項は本書の巻末に置かれていて、特別の意味を与えられている。だからナボコフの項の最後は『偏愛蔵書室』全体を締めくくる、次のような一節で終わっている。

「なべての人の愛は「偏愛」である。それは純真であればあるほどむしろ背き、屈折し、狂気へ振れ、局所へ収斂される。人は愛ゆえ逸し、愛ゆえ違う。慎ましく花弁を閉じる倒錯の花々。それこそが、僕の狭い蔵書室から無限を夢みて開く、これら偏愛すべき本たちである。」

 ここでは倒錯が本を愛し、本を読むことと結び付けられている。ひとに隠れ、秘かな悦びを求めて〝読む〟こと、これほどに倒錯的な行為があるだろうか。「慎ましく花弁を閉じる倒錯の花々」を、人知れぬ隠微な悦びをもって、ひとつひとつ開いていく行為を倒錯と呼ばないわけにはいかない。花々が倒錯しているのではない。花々を開いていく行為が倒錯そのものなのである。そして、すべては〝読む〟ことによってしか始まらない。
 諏訪は本書のあとがきで、読むことへの執着を次のように語っている。

「不謹慎を承知でいうなら、本当は、僕は、ただ書きつづけるという生き方より自分で買った本をひたすら「読み続ける」人生をこそ送りたい。もとより、作家になっていなければそうするつもりだった。」

 書くことよりも読むことに重点を置くこのような姿勢もまた、小説家よりも批評家的なあり方だと言えるだろう。小説はなにも読まずに書くことができるが(読んだ方がいいに決まっているが、私はかつてほとんど小説を読まない〝小説書き〟に出会ったことがある)、批評は作品を読まずに書くことが決してできないからである。批評が作品との出会いによってしか発動されないことは、言うまでもないことだろう。
 諏訪が次のように書くとき、彼は読むことの重要性をあくまでも強調しているのである。その一節は石川淳の項末尾に置かれている。

「遠くセルバンテスの世から小説とは世界を綜合し書くことではなく、分解し読むことだった。拾得の錯乱する箒(石川淳の「普賢」参照)こそは文学に病んだ現代人の好個の筆、僕らが世界を読むための筆だ。さても事の本質は読むことなのであった。」(カッコ内引用者)

 書くことの前に読むことがあるというのではなく、書くことの本質の中に読むことがあるという主張は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』によって、諏訪が?んだ真実だったであろう。『ドン・キホーテ』の主人公ドン・キホーテは、あまりに多くの騎士道物語を読んだために気がふれてしまい、自分が遍歴の騎士になったつもりになって、愚行を重ねるのである。
 主人公の〝読み〟だけでなく、作者セルバンテスの世界に対する〝読み〟もまた、主人公の存在を通して、書くことの中に胚胎しているのであった。『ドン・キホーテ』では、読むことはいささか道化に似ているが、批評とは道化のようでありつつ、読むことの倒錯を実行するものであるとも言えるのではないか。
(つづく)