民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

押し付けられた憲法から選び取った憲法へ

2015-08-01 20:22:29 | 政治

 歩いて信州大学に行けるという地の利を生かして、30日に「安保法制の撤回を求める信州大学人の会」主催による第一回シンポジウム 「新安保法制の何が問題か」に参加しました。夕方6時からということで、信州大学の教職員・学生はもちろん一般市民もかなりいたように思われました。

 3人の先生方の報告がありました。1成澤孝人(憲法学)「新安保法制の違憲性と日本国憲法の規範性」 2大串潤児(日本現代史)「「戦後」の転換点の意味―現代史研究からの提起」 3辻竜平(数理・計量社会学)「圧倒的多数は民意か~世論調査からの考察~」
憲法学からは、今回の法案が憲法違反であり議論の余地がない。正式な憲法改正の手続きを経て改正となるならば、それがどうであれ受け入れざるを得ないものだが、現状は入り口から間違っており認められないという趣旨でした。論理を詰めていくという法律の話で、正直難しい話でしたが1つ感心したことがありました。第90回帝国議会での吉田茂の発言です。「戦争放棄に関する本条の規定は、直接には自衛権を否定はしておりませぬが、第9条2項においていっさいの軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります。従来近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたのであります。」ここまではっきり言い切る吉田茂はすごいです。 

近代史からの問題提起肯くところが多かったです。まずは前提として、今回の事態は、「いのち」と「尊厳」の問題であって、「安全」と「(自己)責任」の問題ではないということ。そして、現代の戦争は、多くの格差に依拠し格差を生み出すものであるということは、なるほどそうなのです。誰が戦争に行くか、誰が誰を殺すか など。そして、戦後私たちが獲得したものは、「自分のことは自分で決める」という思想だったのに、存立危機事態か否かは時の政権担当者が総合的に決めるといい、判断の検証のための資料は秘密保護法によって私たちの目には触れなくなってしまった。白紙委任状を渡してあるようなものです。このままいけば、先の戦争の戦争責任の曖昧さをまたも繰り返すことになります。 

最後のアンケートから民意を読み解くという社会学の手法は、結果がわかっていれば数値はどうにでも解釈できるような気がして、言ってることはそうなのです、集団的自衛権に賛成して自民党に投票したのではなくアベノミクスを支持したのだとは、アンケートしなくてもいえそうなことなので、学問の手法としてどうなのかという疑問ももちました。 

フロアーからの意見で、自分は何もしないでおいて困った時だけ助けてほしいというのはいかがなものかというものが出ました。集団安全保障が本当に助けを必要とする人々を救えるのかということで反論できそうですが。歴史的事実をふまえないといけないように思いました。次回は、安全保障環境が厳しくなったというだけで具体的な変化を政府はいわないが、そのあたりをシンポジウムで明らかにしたいということでした。最後に、どの場面での発言だったか、こうやって教員・学生・市民が憲法について学んでいることは、戦後70年ただお任せで憲法に関わってこなかったものを今学び直し、新たに市民の手で憲法を選び直すという行為で、それはこの国で最初に憲法を制定しようとしたときに、各地で憲法草案ができたことに通ずる大事なことだという意見がありました。全くそうです。日本各地でのこうした運動の後には、押し付けられたといわれる憲法が、国民が選び取った憲法に変わります。変わったという事を認識しなければなりません。安倍のおかげで、民主主義の何たるかを学ばせてもらっているのです。