それまでわが国では「幻の指揮者」と言われていたルーマニアの巨匠セルジュ・チェリビダッケ(1912~1996)が初来日し読売日本交響楽団の指揮台に立ったのは1977年10月のことだった。彼はこの時、読響の4回の公演を指揮したと思うが私は最終日10月29日第135回定期公演に足を運んだ。(会場:東京文化会館)当日のプログラムはベルク:ヴァイオリン協奏曲(Vn:ロニー・ロゴフ)とブラームス:交響曲第4番ホ短調作品98であった。ヴァイオリン独奏のロニー・ロゴフは1945年イスラエル生まれのヴァイオリニストで指揮者チェリビダッケとは特に親交が深いとのことでベルクの協奏曲を抒情性豊かに聴かせてくれた。またブラームスの第4番では枯淡の味わいを堪能でき印象深いものだった。
またチェリビダッケはレコード録音を極端に嫌う指揮者だった。この点はカラヤンと正反対である。したがって当時はごく一部の正規録音盤を除き彼の演奏はFMでオン・エされるコンサート・ライヴや海賊盤でしか聴けなかった。その意味でもこの時の読響客演はクラシック音楽ファンにとって一大センセーションを起こしたと言っていいだろう。その翌年(1978年)の3月にも彼は再来日し読響の指揮台に立つことになる。この時も私は彼の演奏に接しているが演奏曲目の一つレスピーギの交響詩「ローマの松」のフィナーレ「アッピア街道の松」-クライマックスでの彼の個性的な指揮ぶりとそのサウンドに圧倒されたのを鮮明に覚えている。写真は1977年10月チェリビダッケ初来日時、読響135回定期公演プログラム。演奏会修了後、彼は文化会館楽屋口で集まったファン一人一人にサインを応じていた。
またチェリビダッケはレコード録音を極端に嫌う指揮者だった。この点はカラヤンと正反対である。したがって当時はごく一部の正規録音盤を除き彼の演奏はFMでオン・エされるコンサート・ライヴや海賊盤でしか聴けなかった。その意味でもこの時の読響客演はクラシック音楽ファンにとって一大センセーションを起こしたと言っていいだろう。その翌年(1978年)の3月にも彼は再来日し読響の指揮台に立つことになる。この時も私は彼の演奏に接しているが演奏曲目の一つレスピーギの交響詩「ローマの松」のフィナーレ「アッピア街道の松」-クライマックスでの彼の個性的な指揮ぶりとそのサウンドに圧倒されたのを鮮明に覚えている。写真は1977年10月チェリビダッケ初来日時、読響135回定期公演プログラム。演奏会修了後、彼は文化会館楽屋口で集まったファン一人一人にサインを応じていた。
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