愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ) | |
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☆中沢新一の贈与論は、
☆「交換―贈与―純粋贈与」というシステム。
☆そして、本書では、これは
☆「父―子―聖霊」という三位一体のシステムに
☆メタファではなく、考え方の原理として重なっているのだとする。
☆しかし、近代以降の資本主義は
☆「交換―贈与」の関係になっており、
☆それは「父―子」の関係になっているから
☆この経済状況を打破しないと、キリスト教は
☆自らを異端に貶めることになる。
☆三位一体を経済にまで浸透させたのは、中沢新一によると
☆カトリックである。
☆しかし、カトリックの純粋贈与の部分は、教会に独占され
☆三位一体が人間化あるいは物象化されたために
☆13世紀には托鉢修道会ドミニコ会が現れ
☆純粋贈与の部分に神の息吹を取り戻そうとした。
☆この再生理論を構築し、それがルソー、ヘーゲルや
☆アダム・スミス、カント、マルクス、モースにまで影響を与えたのが
☆トマス・アキナスである。
☆ところがルネサンス前夜、宗教改革前夜、この修道院の動きも停滞する。
☆そこで生まれたのが、ドイツ語訳の聖書で、「純粋贈与」の部分を
☆市民に公開したプロテスタントが生まれた。
☆マックス・ウェーバーは、ここに資本主義の源流を見るが、
☆「純粋贈与」が「資本」に物象化されるや
☆プロテスタンティズムの資本主義は、異端と化する。
☆資本主義は、トマス・アキナスやプロテスタントの「純粋贈与」
☆カントの「物それ自体」、ルソーの「自然状態」の息吹を取り戻すことによって、
☆新しい資本主義を実現できる。
☆ところで、それはいかに可能か?
☆松岡正剛の千夜千冊の「マルセル・モース 贈与論」によれば、
☆SNSなども、「純粋贈与」の兆しだという。
☆もっとも、松岡正剛自身は、まだ「純粋贈与」という考え方を持ち出してはいないが。
☆また「千夜千冊」の「内田樹・中沢新一・平川克美 大津波と原発」は
☆太陽光も原発も、実はエントロピーを引き算できないから
☆原発vs太陽光発電という枠組みにならないことも指摘。
☆これは、原発や太陽光は、「純粋贈与」であるはずの自然が
☆「純粋略奪」に転化する着想を予告する。
☆また、松岡正剛は、中沢新一が、一神教より仏教のような多神教的な発想が
☆「贈与論」としての新しい資本主義が想定できると言っていることを紹介している。
☆しかしながら、このことについては、カトリック宇和島教会の司祭田中正史神父の
☆聖書の「ぶどう園の労働」の解釈によって、必ずしもそうではないことが了解できる。
☆「父と子と聖霊」というキリスト教的な発想は、
☆経済において、
☆「交換―贈与―純粋贈与」という発想に重なっている。
☆しかし、現実は
☆「交換―権力―純粋略奪」というシステムになっていった。
☆トマス・アキナスの三位一体的経済の再生理論をまつまでもなく、
☆聖ドミニコの異端を改宗させるロゴスは、その実践版だった。
☆しかし、歴史は中世は、ドミニコ会の活動を反転させる。
☆そこで、宗教改革。
☆プロテスタンティズムなのであるが、
☆純粋略奪を切り落としたために、
☆「交換―贈与」つまり
☆「父と子」という異端経済が成立してしまった。
☆そして「交換―権力」という格差社会が20世紀をすっかり覆ってしまった。
☆「交換―権力―純粋略奪」の復権である。
☆新しい資本主義は、
☆「交換―贈与―純粋贈与」の実現である。
☆発想はもともとあったが、実現したことはかつてない。
☆しかし、ルソーの自然状態やカントの物それ自体の夢想の中に
☆記憶として刻印されつづけた。
☆その記憶を実現へ。
☆SNSはそのカギとなるだろうか。
☆社会起業にそのヒントはあるだろうか。
☆まずは「交換―贈与―純粋贈与」という経済システムのイメージを
☆対話するところからかもしれない。