コース満足度★★★★ 6月4日
JR品川駅→問答川岸碑・土蔵相模跡→利田神社→法禅寺→一心寺(寿老人)→聖跡公園(本陣跡)→品川神社(大黒天)→清光院→本光寺→海徳寺→荏原神社(恵比寿)→寄木神社→天妙国寺→品川寺(毘沙門天)→海雲寺→京急青物横丁駅
海運と漁業の拠点として発展した品川は、その財力を反映してか思った以上に豪奢なお寺が多い。
東海道の宿場町、遊里としても栄えたというそんな町を歩いてみる。
最初に訪れたのは利田神社だが、この神社の名前を読める人はまずいない。
地元の人に聞いても、えっというような返事が返ってきて戸惑ったったが、やっとのことで神社にたどり着く。
ここに東京で現存する唯一の鯨碑が置かれている。
寛政10年(1798)5月、暴風雨で品川沖に迷い込んだ鯨は体長16.5m、高さ2mの大鯨で、11代将軍家斉が浜御殿にて上覧するほどの騒ぎになったらしい。
ちなみにこの神社は「かがたじんじゃ」と読む。
法禅寺(浄土宗)の門の前の左側には「品川小学校発祥之地」の碑がある。
これまで訪れた多くの寺で小学校の発祥之地を示す碑を見てきたし、「寺子屋」の言葉が示す通り、昔は寺が学問を教える場所であった事は良く知られている。
一心寺は安政二年(1854)に時の大老職であった井伊直弼公が、東海道第一の品川宿にて鎮護日本、開国条約、宿場町の繁栄安泰を願い建立したのだという。
明治天皇が休憩したことから「聖蹟」の名が残る聖跡公園は、品川宿の本陣(大名の宿泊所)が置かれていた所で、此処に寄ってから品川神社を目指す。
ちょうど神社のお祭りをやっていて、子供の頃の懐かしい雰囲気に浸りながら本殿に続く参道の階段を上る。
社殿裏には板垣退助夫妻の墓があり、脇には「板垣死すとも自由は死せず」の有名な言葉を刻んだ大きな石碑が置かれている。
沢庵和尚で有名な東海寺に寄り、その立派な石庭を見た後、17あるという塔頭の一寺である清光院を訪れる。
幕府、諸大名との関係が深い寺であり、中でも徳川家の譜代大名で幕末まで続いた豊前中津10万石奥平家の大きな墓碑には驚かされる。
3代将軍家光と共に訪れた芝増上寺の意伝和尚と本光寺の住職日啓は、沢庵和尚立会いのもとに念仏無間を行ったという。
この「品川問答」で有名な本光寺の墓所には立派な三重塔が聳えているが、墓所にこういう塔があるのは非常に珍しい。
軍艦千歳殉難者之碑がある海徳寺に立ち寄り、遭難した人々の供養を祈る。
渡英のため品川湾に停泊していた軍艦千歳に渡る通船が突風により転覆、千歳の乗組員など83名が亡くなったという。
一説には和銅2年(709)の開創と伝えられる古い神社、南品川の鎮守とされる荏原神社へと向かう。
脇を流れる目黒川だが、昭和3年(1928)に河川改修が行われる前はこの神社の北側を通っていた。
東海七福神の一つ、恵比寿さんがこの神社の境内に置かれている。
寄木神社は境内も社殿も小さな神社だが歴史は古く、日本武尊の東征の際に弟橘姫の乗船の一部が海岸に流れ着いて、村人がそれを祀ったのに始まると伝えられている。
本殿奥を覗くと、二枚扉の内側に名工伊豆長八が描いた「鏝絵・天鈿女命功績図」が見える。
一見の価値がある見事なもので、右側に描かれた猿田彦命の図も印象的。
天妙国寺には、歌舞伎や講談などで知られた人の墓が置かれている。
歌舞伎「与話情浮名横櫛」の斬られ与三郎とお富、桃中軒雲衛門、伊藤一刀済、お祭り佐七などなど。
品川寺の正しい読みは「ほんせんじ」、お寺の読みは総て音読みなのでこれを覚えておくと便利。
慶応3年(1251)のパリ万博に出品後、行方不明になったが、昭和初年にジュネーブの博物館にある事が判明、60年ぶりに返還されたという「洋行帰りの鐘」があり、六体の観音像が浮き彫りにされた名鐘と言われている。
最後に訪れた海雲寺には、台所の神である千躰荒神王を祀る荒神堂が本堂の左側にある。
天井には纏が描かれ、周囲には奉納額が隙間なく飾られているのがとても印象的。
JR品川駅→問答川岸碑・土蔵相模跡→利田神社→法禅寺→一心寺(寿老人)→聖跡公園(本陣跡)→品川神社(大黒天)→清光院→本光寺→海徳寺→荏原神社(恵比寿)→寄木神社→天妙国寺→品川寺(毘沙門天)→海雲寺→京急青物横丁駅
海運と漁業の拠点として発展した品川は、その財力を反映してか思った以上に豪奢なお寺が多い。
東海道の宿場町、遊里としても栄えたというそんな町を歩いてみる。
最初に訪れたのは利田神社だが、この神社の名前を読める人はまずいない。
地元の人に聞いても、えっというような返事が返ってきて戸惑ったったが、やっとのことで神社にたどり着く。
ここに東京で現存する唯一の鯨碑が置かれている。
寛政10年(1798)5月、暴風雨で品川沖に迷い込んだ鯨は体長16.5m、高さ2mの大鯨で、11代将軍家斉が浜御殿にて上覧するほどの騒ぎになったらしい。
ちなみにこの神社は「かがたじんじゃ」と読む。
法禅寺(浄土宗)の門の前の左側には「品川小学校発祥之地」の碑がある。
これまで訪れた多くの寺で小学校の発祥之地を示す碑を見てきたし、「寺子屋」の言葉が示す通り、昔は寺が学問を教える場所であった事は良く知られている。
一心寺は安政二年(1854)に時の大老職であった井伊直弼公が、東海道第一の品川宿にて鎮護日本、開国条約、宿場町の繁栄安泰を願い建立したのだという。
明治天皇が休憩したことから「聖蹟」の名が残る聖跡公園は、品川宿の本陣(大名の宿泊所)が置かれていた所で、此処に寄ってから品川神社を目指す。
ちょうど神社のお祭りをやっていて、子供の頃の懐かしい雰囲気に浸りながら本殿に続く参道の階段を上る。
社殿裏には板垣退助夫妻の墓があり、脇には「板垣死すとも自由は死せず」の有名な言葉を刻んだ大きな石碑が置かれている。
沢庵和尚で有名な東海寺に寄り、その立派な石庭を見た後、17あるという塔頭の一寺である清光院を訪れる。
幕府、諸大名との関係が深い寺であり、中でも徳川家の譜代大名で幕末まで続いた豊前中津10万石奥平家の大きな墓碑には驚かされる。
3代将軍家光と共に訪れた芝増上寺の意伝和尚と本光寺の住職日啓は、沢庵和尚立会いのもとに念仏無間を行ったという。
この「品川問答」で有名な本光寺の墓所には立派な三重塔が聳えているが、墓所にこういう塔があるのは非常に珍しい。
軍艦千歳殉難者之碑がある海徳寺に立ち寄り、遭難した人々の供養を祈る。
渡英のため品川湾に停泊していた軍艦千歳に渡る通船が突風により転覆、千歳の乗組員など83名が亡くなったという。
一説には和銅2年(709)の開創と伝えられる古い神社、南品川の鎮守とされる荏原神社へと向かう。
脇を流れる目黒川だが、昭和3年(1928)に河川改修が行われる前はこの神社の北側を通っていた。
東海七福神の一つ、恵比寿さんがこの神社の境内に置かれている。
寄木神社は境内も社殿も小さな神社だが歴史は古く、日本武尊の東征の際に弟橘姫の乗船の一部が海岸に流れ着いて、村人がそれを祀ったのに始まると伝えられている。
本殿奥を覗くと、二枚扉の内側に名工伊豆長八が描いた「鏝絵・天鈿女命功績図」が見える。
一見の価値がある見事なもので、右側に描かれた猿田彦命の図も印象的。
天妙国寺には、歌舞伎や講談などで知られた人の墓が置かれている。
歌舞伎「与話情浮名横櫛」の斬られ与三郎とお富、桃中軒雲衛門、伊藤一刀済、お祭り佐七などなど。
品川寺の正しい読みは「ほんせんじ」、お寺の読みは総て音読みなのでこれを覚えておくと便利。
慶応3年(1251)のパリ万博に出品後、行方不明になったが、昭和初年にジュネーブの博物館にある事が判明、60年ぶりに返還されたという「洋行帰りの鐘」があり、六体の観音像が浮き彫りにされた名鐘と言われている。
最後に訪れた海雲寺には、台所の神である千躰荒神王を祀る荒神堂が本堂の左側にある。
天井には纏が描かれ、周囲には奉納額が隙間なく飾られているのがとても印象的。