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高橋克彦「炎立つ」

2006年09月01日 09時26分05秒 | 読書
 高橋克彦の小説には、対照的ないい男たちと悪い男たちが出てくることが多い。そしてそのいい男たちの描き方がくさくてついて行けないこもと多々ある。「時宗」などはその典型で、さすがに途中で読むのをやめてしまったくらいだ。
 この「炎立つ」にもその傾向はあり、ちょっとひくところもあったのだが、一応全5巻読了。
 舞台は東北。そこに住む人々を朝廷は蝦夷と呼び、蔑視していた時代。前9年の役に始まり、奥州藤原氏の滅亡までを描く。時代は武士階級が勃興しつつある転換期。
 田村麻呂の東征から約200年後。
 朝貢の義務を負うものの独立国のような体をなした奥州(奥六郡)だが、公家政治の行き詰まりと武家の勃興という新しい勢力争いに無縁でいることはできなかった。
 阿倍氏の奥州は鎌倉幕府に先立つ武家政権と言ってもいいだろう。奥州に武家政権が誕生したのは、この小説に何度も出てくる言葉「蝦夷」がキーポイントだ。
 朝廷から見れば、「蝦夷」は人ではない。だから武家政治だろうがなんだろうがかまわないのだ。人でない「蝦夷」をまとめあげて朝廷にきちんと年貢を支払わせればそれ以上の興味は朝廷にない、とこの小説はとく。朝廷からすれば、猿山のボスに猿山を管理させるような感じだろう。自らが猿山でサルたちを支配しようとは思わないし、ボス猿がどのような支配をしようとも別に関係ないのだ。
 後三年の役についても、この小説には語られていないが、朝廷は私闘として恩賞を拒否している。つまり、「蝦夷」同士の内輪もめとして捉えているのだ。
 この地方は東北である。しかし、この地方に住む人々は自分たちが方角としての東北に住んでいるとは思わない。東北とは、朝廷から見た位置のこと。朝廷という人から見た蝦夷の住んでいる方角、それが東北である。
 その場所を東北と呼んだ瞬間、朝廷を基準として認めることになる。
 その朝廷に対してどのような態度をとるのか。
 この小説はティピカルな3つの例を呈示する。
 武家として力を持ったものの、公家政治に取り込まれて骨抜きにされた平氏。朝廷から離れた場所に幕府を開いて、極力朝廷の影響力を排しようとした源氏。
 そして、自らの蝦夷としてのアイデンティティに殉じた藤原泰衡。この小説では蝦夷の矜持が至る所で語られている。朝廷側の歴史ではなく、そこに住む者の歴史として語られるべきもの。
 「ぼくは蝦夷だ」
 ぼくの中にはいつもその思いがある。
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