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ヴェルディ「ドン・カルロ」 新国立劇場

2006年09月09日 12時34分06秒 | 音楽
 ヴェルディの最高傑作と言われながら、「椿姫」や「アイーダ」のようなポピュラリティはいまいちの曲。内容が重い上に、時代背景、舞台も多くの日本人にはあまり馴染みのない昔のスペイン。それをオペラとして見るわけでなおさらストーリーがわかりにくいのも欠点かもしれない(5幕版なら別なのかもしれないけれど)。
 だいたい最初に出てくる字幕のカルロス5世でつまづく人も多いだろう。カルロス5世って誰よ? ナポレオンの頃のカルロス4世より後の人? え? じゃあ、最近の話? フランドルって、え? オランダって17世紀には独立してたじゃん?
 カルロス5世は日本語訳としては不適当。訳すならスペイン王としてカルロス1世だろう。でなければ神聖ローマ帝国皇帝としてカール5世。イタリア語じゃどちらもカルロスかもしれないけれど、これじゃ直訳しただけだ(仏文のぼくなどはカール5世と聞くとマドレーヌを紅茶に浸してフランソワ1世との確執を思い浮かべたりする)。このオペラに出てくるフェリーぺ2世の頃、スペインは日の沈まぬ国として栄えていたわけである。
 史実としてはドン・カルロは狂人であった。燃える男シラーの原作、イタリア独立運動のシンボル ヴェルディの作曲によって、ドン・カルロの狂いは「恋と自由」への狂いへと変貌する。ヨーロッパ近代は狂うことへの積極的な意味を見出した時代でもあった。狂うことの一部に個の主張が存在する。個を主張するあまり、他とかけ離れ、他の持たない欲望を持ち、他の持つ欲望を持たない。教会や王といった権力とうまくやっていけないドン・カルロこそ近代的狂気の表れであり、権力と対立してまで自己を主張する近代的人間の一つのモデルなのだ。
 中世における狂気に近代的な意味づけを与えた興味深いオペラと言えるだろう。

 さて、実際の演奏は、まず出だしのホルンがシーズン最初の失態をやらかす。この管の不安定さは最初だけでなく全体的についてまわった上に、抑えがあまりきいておらず、歌と重なる部分など少々うるさいとも思った。これは指揮の問題か、オケの問題か………。
 演出はこれでもか、これでもかと十字架で迫り来る。それも十字架をぶら下げたりするわけではない。大きな立方形(本当は立方形ではないのだけれど、説明しやすいので、それを思い浮かべて下さい)を4つ右上、左上、右下、左下に配置。その隙間が十字架になるのだ。これが前面だけでなく、左右、後ろも同じように形づくられるので、いたるところに十字架の象徴を見ることができる。そして、床にはその隙間から漏れる光の十字架。まさにこのオペラがスペインというカトリック国を舞台にその中で「自由」を叫ぶ人間と圧迫する教会との相克を柱の一つにしていることをうかがわせる演出だ。もっとも全四幕これなので、次第に重苦しく飽きてくる。悪い演出ではないのだけれど………。
 歌手は全般的に好調。多くのブラヴァーを浴びていた大村さんだが、ぼくにはちょっと。張りのある高音はアピールするのに十分だったが、中声部が乏しく、メリハリがきくというよりも、高音だけじゃんと少し空虚な気もしたのだ。あとは久しぶりにかなり充実した歌手揃いだったと思う。どの人もよかった。
 ラグビーに続いて、オペラも開幕。これから忙しくなりそう。

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