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中世神話

2007年02月21日 10時59分49秒 | 読書
 「中世神話」               山本ひろ子著 岩波新書


 新書をなめてはいけない。
 そのヴォリュームや他の本に時折見られる「~入門」などの表題に騙されてこの本を手に取ると期待を裏切られることになるだろう。この本は中世神話の入門書ではない。どちらかと言うと専門書の抜粋といった趣である。日本の中世神話に興味があって、どんなものかちょっくら見てみようなどという用途には向いていない。寝そべって読もうなどと考えてもいけない。
 しかしその内容のスリリングなこと!
 日本の神話と言うと、一般的には「古事記」「日本書紀」などの古代神話を思い浮かべる人が多い。しかし、連綿とつながる歴史の中にわれわれの現代があり、古代神話もその歴史の中で様々な形に変化し、受容する形態も異なってきたのだ。その変化と受容の先に、われわれの神話理解があると言ってもいいだろう。その意味で中世神話は、長い年月をかけて熟成されてきたわれわれの歴史であり、財産といってもいい。明治になって、これらはすべて奥に押しやられてしまう。明治王政復古は、古代への復古であった。しかも、偽りの古代。続いている歴史をあえて分断し、明治生まれの偽古代宮中行事(宮中行事の多くは歴史の中ですたれ、明治に新たに生まれたものも多いのだ)を伝統とし、天皇、そして天皇の祖神である天照大神崇拝の国家神道を国民に強制した。
 この著書は、そうして捨てられた中世神話に光を当てたものである。捨てられてしまったから、昭和生まれのわれわれにはあまり馴染みがない。ここがまず第一の難関なのだが、そこをクリアしてしまえば、豊穣なイメージの世界が拡がっている。
 1186年東大寺の僧が伊勢神宮を参拝する。その際の表白文には内宮の天照大神についてはふれられているが、外宮の豊受大神については一言もない。
 「外宮の豊受大神とは、ほとんどなじみのない神であったろう」
 内宮と外宮は同じ土俵に乗るようなものではなく、外宮はあくまで内宮天照大神の御饌都(食事調進)の神であった。
 それがどのようなイメージの操作によって両部曼荼羅に見られるように、内宮:外宮=胎蔵界大地如来:金剛界大日如来=日天子:月天子と、両宮一対の存在になったか。神話に登場しない豊受大神が、天照大神と同格の存在になるために利用したのは、皮肉にも神話そのものだった。内宮が皇祖神天照大神を祀るのに対し、外宮豊受大神とはほかならぬ開闢の最初の神である天御中主神であると主張する。
 その過程が事細かく述べられ、同格となっていくその推移が興味深い。序章、第1章まで読めば、中世神話の魅力にひきこまれるだろう。
 そして続いての章で、水のイメージ、イザナギ・イザナミが国生みのときに天浮橋から海原をかき回すのに用いた矛のイメージ、こうしたものが様々なものと結び、つながり、変容していく様を目の当たりにする。国生みの呪具であった矛が、やがて宇宙そのものへ意味を変えていくのだ。
 矛を巡る旅は再び伊勢へ戻り、天照大神は伊勢に遷宮する。その際、太田命から渡されたものは、38万年生きていてもなおあずかり知らない「逆矛」であった。こうして矛を媒介に、伊勢は宇宙とつながる。壮大な中世神話のほんの一面をかいま見ることができる。 この感じは著者のあとがきの一文にも見られる。

「中世神話は、創世の場面に、国生み神話の呪具=天の瓊矛を登場させた。まだ神も万物も誕生していないカオスの時空に、忽然と出現した天の瓊矛。その幻像は、映画『2001年宇宙の旅』で漆黒の宇宙に浮かび、旋回する石板=モノリスと、幾度重なったことだろう(偶然だが『大荒神頌』の最後も、「星の子(スターチャイルド)」へのオマージュで結ばれている)」

 この本は中世神話の入門書ではない。しかし、この本を読み終わると、中世神話への窓が一つ開くことになるだろう。その窓からこの先、どんなドラマを見ることができるだろう、この窓の向こうにはどんな旅が待っていることだろう、ぼくはワクワクしてこの本を閉じた。
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