毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

評伝マイスター・エックハルト

2006年02月10日 15時51分56秒 | 読書
ゲルハルト・ヴェーア「評伝マイスター・エックハルト」

 翻訳がもうちょっとどうかなってたら、エックハルトの入門書として面白かったかもしれない。
 昔エックハルトの説教集を読んで、一遍上人の考えとかなり近いんじゃないか、と感心したことがあった。生まれは一遍上人の方がちょっと早いが、まあ同時期の中世、片や鎌倉、片やドイツ。どちらも求めたいものを厳密に求めようとして、それが対象として求められるものではないことを痛感したのではないか、と思う。法や神や仏、など言葉は違うにしても。
 エックハルトの言う一者と一遍の言う不二はまさに通じ合う。
 「神はまったくの一であり、どのような様態も特異性もないのであるから、神とは父でもなければ子でもなく、聖霊でもないのである。」(ここにこれと対応する一遍上人の言葉を入れられたらいいのだが、引っ越しのためその本はまだ段ボールの中………)。
 このようなことを中世に言ってしまったエックハルトは、やはり異端審問の標的となる(全然関係ないがぼくは「まさかのときにスペインの異端審問」というモンティ・パイソンのギャグが大好きである)。
 栄達きわまりない前半生に比べ、年を取ってからのエックハルトの姿は悲しい。
 さて、この本の特徴は、最後の3章にある。エックハルトの生涯(分からない部分も多いが)や説教の解説を書いてある本は多いが、その思想が今日どのような影響をもたらしたのか、あるいは現代の作家や思想家の中にどのようなエコーを響かせているのか考察した本は少ない。ナチス、マルティン・ブーバー、エーリッヒ・フロム、カール・グスタフ・ユングなどなど。しかし、限られた紙数のせいか、どれもが舌足らずな印象をぬぐえない。
 つまり、この本の立ち位置が分からないのだ。初心者に読ませるには、説明が足りないし、エックハルト好きな人間に読ませるには食い足りない内容。翻訳ともども、ちょっと不満。

 「神秘思想家とは今ここで信じる者である。キリスト教の神秘を今ここで覚りそれによって生きる者である。」
 空海の即身成仏にもつながる概念である。
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カルティエ・ブレッソンのパリ

2006年02月10日 12時31分28秒 | 読書

「カレティエ=ブレッソンのパリ」  
 決定的瞬間。 
 まさに、写真を撮ろうとする人間にとってもっとも大切なことかもしれない。人はその瞬間を求め、重い機材を担いで山に登ったり、海に潜ったり、ロケットに乗ったり、六本木で何時間も張り込んだりするのである。
 アンリ・カルティエ・ブレッソンはこの世のどんなものでも決定的瞬間があると考える。特別なものではない。どこにでも、何にでもある。しかし、その決定的瞬間なのだ。この本は彼の愛するパリの市井での決定的瞬間を収めた写真集である。
 と説明するまでもないこの有名な写真集。見たことなくても水たまりの上を人が影を落として飛んでいる写真など、写真そのものをご存じの方も多いと思う。
 一枚一枚めくるのが楽しい131枚のパリの旅だ。
 未見の方はマグナムのページ(日本語)で見られます(買えます)。カルティエ・ブレッソンの主要な作品が多く見られるので、お勧めです。ぜひどうぞ。
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サルトルの世紀

2006年02月10日 07時23分56秒 | 読書
 ベルナール・アンリ・レヴィ(BHL)がサルトルについて書く。これにあまり触手が伸びなかったのは、昔の恋人について他人に悪口を言われることが(その悪口は正しいかもしれないし、自分でもそう思うにしても)、面白くないという気分に似ている。
 そう、ぼくはサルトルが大好きだったのだ。中学生のとき夢中になって、明けても暮れてもサルトル。サルトルはぼくのヒーローだったのだ(もう一人のヒーローがウッディ・アレンだとは、なんだか眼鏡の小男好きみたいだが)。
 しかし、ここで描かれているサルトルの姿は驚くほど賞賛されている。
 サルトルだけではない。カストール(ボーヴォワール)のこと。そして二人のこと。
 「いったいどうして、こうしたこと一切を理解するのに人々はこれほど苦労するのか?
 二十世紀が知った、もっとも奇妙なラヴ・ストーリィの一つかもしれないが、同時にもっとも麗しいラヴ・ストーリィの一つでもあるものを、どうして人々はかくも執拗に戯画化し、滑稽化し、矮小化することに血道をあげるのか?」
 実際サルトルは間違わなかったか?
 いや、やはり個々の事象について彼は間違いを犯しただろう。
 それについて厳しい批判を繰り返していたBHLが、なぜここにきてこれまでのサルトル礼賛を繰り広げるのか。
 われわれが考えているサルトルは「実存主義はヒューマニズム(ユマニスム)である」という講演に見られるように、ユマニストとしてのサルトルであるが、BHLは「嘔吐」や「存在と無」などの読解から反ユマニストとしてのサルトルを評価する。BHLによれば、ユマニスムは現実の人間を、よりよい存在にしようとする考え方で、その帰着がときに強制収容所であったり、思想の弾圧、大量虐殺につながるという(これこそ彼の言う「人間の顔をした野蛮」だ)。したがって、そうした読解から見られる反ユマニストのサルトルはよい存在なのだ。ここが今回BHLがサルトルを大きく評価する点である。
 しかしその一方、共同体思想を持つ悪しきサルトルが存在した、とも言う。その悪しきサルトルと良きサルトルの相反が、ソ連賛美やマオ派の若者への支持という矛盾した行動をとらせることになった、と言う。
 アパルトマンをOASに爆破されたりしながらも、常に人々の先頭に立ち、人々に愛されたサルトルが、構造主義の時代、批判すらされることなく忘れ去られたような観があったが、ここにきてまた新たな評価が生まれる機運が起きている。
 この本がそのきっかけの一つとなったことは確かで、その意味でも大きな役割をもった本と言っていいかもしれない。
 また、ときとして彼の「ほら、どうだ、ぼくの文ってすごいだろ?」というところが鼻につかなくもないが、確かにそのダイナミックで生き生きとした文章は、邦訳900ページの本を一気に読ませるリズムを持っている。サルトルをこれから読んでみようかと思う向きにもお勧めだ。

 P.S.ぼくがここで言っているユマニスムは、渡辺一夫が言うユマニスムとは異なっていると思う。渡辺一夫が言うユマニスムは狂信の時代に、人が生きる上できわめて大切な概念だと思う。
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