旧大連自然博物館

2007-03-07 07:09:10 |  大連(中華人民共和国)





 霧に煙る廃洋館・・・ 実を言うと大連で一番心を奪われた建物はここでした。 ロシア人街の突き当たりにあるのですが、厚く垂れこめた霧の中から突然その姿を現した時には思わず息を呑んでしまいました。 煉瓦造・北欧ルネサンス様式の建物は、私の訪問時点ですでに7年くらい空家になっていたかと思われますが、静かな佇まいは時を忘れさせ、自分が今、いつの時代にいるのか分からなくなったような気がしました。

 分かる限りでこの建物に付いて述べると、帝政ロシア時代の1900年頃に東清鉄道事務所として建てられ、1902年にダーリニー市役所に。 1904年に開戦した日露戦争(1904~05)により大連の覇権が日本に移ると、1907年に南満州鉄道株式会社(満鉄)の本社となりました。 但し、ロシア軍が大連を引き払う時にこの建物に火を放ったらしく、屋根が落ちた無残な姿の写真が残っているので、内部は修復されオリジナルは外観(外壁)だけかもしれません。

 わずか1年で満鉄がここを引き払った後は、大連ヤマトホテルとして使用されました。 明治の文豪・夏目漱石が、1909年に満州と朝鮮を旅行した際に泊まったヤマトホテルとはここのようです。 このくだりは『満韓ところどころ』に記述があるそうです。 いつまでホテルとして使用されたのか分からないのですが、その後は満蒙資源館、大連自然博物館と変遷し、98年に博物館が移転するとそのまま空家・廃墟状態が続いているようです。

 帝政ロシア、日本、中国と、主を変えながら時代の波に揉まれてきたこの建物が、今後どうなってしまうのか非常に気になります。 これだけの歴史がある建物ですけど、それは中国にとっては即ち負の歴史でもあるわけですから・・・  中華人民共和国遼寧省大連市  05年11月上旬


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6 コメント

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Unknown (ミカエル)
2007-03-08 14:57:53
es 様
先ず、世界地図を開き大連の場所を確認。
成田から北京へ飛び、陸路で向ったのでは?と想像、趣味も国際的になってスケールの大きさに唸っています。
戦争で敗走するとき、「建物を焼く」行為は日本だけでなく世界共通だったのが分かりました。
帝政ロシア→日本→中国と使用者の国籍が変わると
原設計に復元するには費用もさることながら工期も信じられない位膨らむでしょう。
ロシア民族はレンガ好き、函館の旧ロシア領事館、ハリストス正教会を見れば分かります。
国外取材、本当にご苦労様でした。
隠れ話しも聞かせて頂ければ嬉しいのですが。
         ミカエル
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二泊三日の工場見学会。 (es)
2007-03-08 21:42:41
大連には取引先の工場見学に付いて行っただけなんです。
航空チケット、交通費、ホテル・食事代などは全て会社持ちという信じられない条件では、行くしかないですよね。

大連には成田から直通便で3時間半位です。
一応仕事での訪問のため自由時間が無くて、早朝と夜間にホテルを抜け出して近場を見て回りました。
大連は霧で有名らしく、ここを見たときもご覧のような状況だったのですが、
かえってそれが建物の神秘性を引き出してくれたのかもしれないですね。
とにかく一目惚れに近い状態でした(笑)。

大連のほかに旅順にも足を伸ばしました。
旅順には軍港があるので外国人の立ち入り制限があるのですが、203高地などの戦跡を見てきましたよ。
他にもバスの中からでしたが、旅順駅や旅順監獄(安重根が入れられていました)、
そしてあの川島芳子も出入りしていたという旧粛親王府も
ちょっとだけ見ることが出来ました。

とにかくあっという間で終わってしまったので、もう一度ゆっくりと見に行きたいというのが本音ですね。
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恵まれた取材 (ミカエル)
2007-03-09 07:14:24
es 様
ご無理を言って、隠れ話しを聞かせて頂き有難うございました。
地方に住んでいますと大連行き直行便があるのも知らず恥かしい気持ちです。
中学生の頃、学校行事として「明治天皇と日露戦争」の映画を観ました。
アラカンが天皇役、史実に基づいた映像といわれ、
203高地の犠牲者の多さに驚いたのを覚えています。  ミカエル
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構いませんよ。 (es)
2007-03-11 11:23:51
ミカエルさん。
ぜんぜん無理な話ではないですよ。
こうして誰かに聞いてもらえると色々と思い出す事もあるので、楽しかった出来事が甦ってきますね。

恥ずかしながら飛行機に乗るのも海外に行くのも初めてだったので、おのぼりさんでした。
飛行機の座席って狭いんですねぇ。
真中の席だったので出歩けず、ずっと引きこもっていましたよ。

日露戦争の戦跡をいくつか見たのですが、こういうところを訪れると身が引き締まります。
203高地には乃木将軍の次男の戦死の碑がありました。
乃木は2人の息子をこの戦争で失ったんですね。
東京・赤坂には彼が殉死した邸宅が残っていて、毎年9月の公開日には、今でも多くの見学者が訪れると聞きます。
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乃木将軍 (ミカエル)
2007-03-11 17:05:45
es 様
将軍がこの戦で二人も息子を亡くされているとは知りませんでした。
涙をどのように隠し、軍務を執っていたのか計り知れません。
函館の乃木町に乃木神社があり真向かいが自衛隊駐屯地、巧く配置したと思います。 ミカエル
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乃木神社 (es)
2007-03-11 18:43:55
函館にもあるとは知りませんでした。地図で見たら函館の競馬場の近くでもあるんですね。

乃木将軍に付いてはちょっと興味が出てきて、赤坂の旧乃木邸も見に行った事があるのですが、
内部は毎年9月12・13日にしか公開していないようでした。
彼は夫人と共に明治天皇に殉死した事は有名ですが、どんな人だったかもっと知りたいんです。
今年の公開日も平日なのでしばらく見れそうもないのが悔しいですね。
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