坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

オネガイダカラ スグキテオクレヨ

2014年01月01日 | 坊主の家計簿
 

 今年の年賀状は池山先生の言葉。

  一心正念直来
  オネガイダカラ スグキテオクレヨ

 浄土往生。
 浄土往生といっても、んなもんは「私」が私に成れる世界。その為の行が念仏。愚者の自覚。


【私の専修学院での学びは、凡夫という言葉を中心に始まりました。しかし学院は生活学習の場ですから、そこで繰り広げられる私の意識生活は、その凡夫の身を裏切る自尊心との格闘でもありました。それは今日も、今も、続いています。そうした事実と思いのぶつかる日々の生活の中で、それでもここに身を置いていることの支えとしている言葉があります。それは信國先生が大病を患われた晩年のころだったのではないかと思いますが、授業で法然上人の『一枚起請文』(真宗聖典九六二頁)を取り上げられて
 「ここに『一文不知の愚どんの身になして』とあるでしょう。この『なして』という日本語は、意思をあらわす言葉です。意思して、愚鈍の身になるのです。」
 と、強い口調でおっしゃいました。「意思して、なる」。いつのまにか、如来回向とか、本願他力という教学用語を自分勝手にとりこんで、仏法を自動起床装置であるかのように錯覚する腑抜けた信仰理解にまどろんでいる私どもに、「目覚めよ」と命じる一言でした。
 凡夫とは、意思して凡夫にならなければ、自分が凡夫の身を生きていることに気付けないものです。その凡夫への意思を私どもに喚び起こす強い力が、如来の本願です。】(狐野秀存『共に是れ凡夫ならくのみ』より)


 賢者。インテリでも良いし、インテリ志向でも良い。「世間ウケする自分になりたい!」という事。だから、自分を他人を裁き続ける。苦の再生産を続ける。
 その事は世間では当然の事。だから「世間は虚仮であり、ただ仏のみ真」という言葉。

 といっても、狐野先生も書かれているが、自尊心との格闘。だから竹中先生は「念仏は自我との格闘技」であると。
 もう、絶対に、100%、必ず、そうなる。自尊心を立てる。絶対に立てる。何をやっていても必ず立てる。

 だから唯円は歎異抄を書いた。書かざるを得なかった。同じ仲間が落ちぶれて行く、インテリ化して行く姿、賢者になる道、自他を裁く事を是とする事に「ん?親鸞聖人ってそんな事、言ってたっけ?」と。「ちと、ガキやな。勉強せえ」と。

 他宗は知らんが、真宗門徒の勉強って、愚者に還る為のものではないのか?自分に出会うといってもいい。賢者になろうとしている姿を仏語によって指摘される。この場合の「仏語」は本願念仏に生きて居られる方々の言葉。

 学校の勉強なら成績がある。優劣があり、知識の多い少ないがある。「そんな事も知らないの?」的な。
 (笑)「知らないの?」って、なして、どうでもイイ事を知らなければならないのか?なぜ、どうでもイイ事を知らない事を恥と感じる必要があるのか?

 まあ、どうでもイイ事だから人を裁けるのだろうけど。本当に大切な真宗仏教の教えに「教えを知らなければ浄土往生出来ない」ってあったっけ?蓮如でも信心だろ?本願のいわれだろ?

 仏教学。まあ、裏便利。側面から真宗を見る事が出来るし、便利なもんだ。説明するには言葉は多い方がいいから、便利便利。でも、そんな事を知らなくても念仏は申せるし、浄土往生は出来る。
 真宗学も同じようなもんか。それが自分から浮いた「学」になれば。つか、なんだってそうか。

 当然、上っ面の言葉だけでは判断出来ない。だって、照れ屋なら学問用語を並べるだけの人も居てるし。また、そういう状況もあるし。

 そういや、この前に結構年下の大学院か博士課程か忘れたけど、まあ、ホープが居た。結構酔っぱらっていたので「頼むで!」と。「ちゃんと勉強教えてや」と。だって、私より圧倒的にそいつの方が真宗教学を学んでいるし。真宗聖典も読んでいる。信心に価値がないなら、そら教学を沢山知ってて教えてくれる人の方が「便利」やもん。別に生き方までは、今のそいつに訪ねたいとは思わんが。

 ん?何の話や。そやそや、浄土往生や。

 何の為の真宗学なのか。んなもん、自己をあきらかにする。漢字なら、明らか、だろうし、証らか、か。

 クリスマス記念に今年も福音書の言葉を貼った。


【「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」】(マタイ6章25~34)


 20代前半の時にこの言葉を「あなたが『今』生きているという事を、あなたは何故『今』感じる事ができないのか?」と受け取った。
 今となっては上記聖書の言葉に不満もある。「いやいや、それだけやおまへんがな。そう言い切られへん所で、みんな情けなく同じでんがな」と。
 ただ、求道の歴史。

 それは別に、いわゆる宗教書だけではない。感動する言葉は、歌詞にもある。歌詞という言葉。

 教師修練の時に、聞いている私は「はあ?」だったけど、蕎麦屋で何かの言葉に出会われた感動を法話で喋っていた先生も居られた。その時は「何や、このおっさん」でしかなかったけど、今は少なくとも、「蕎麦屋で出会った人からも大切な教えを聞く事が出来る」という事を教えてくれたから、先生と。

 ん?何の話や。まあ、ええわ。

 求道なんて人それぞれでしかない。課題も人それぞれでしかない。
 そのなかで、それぞれの方法で道を歩いて行けば良いだけの話だし、実際に歩いている。

 私は「もっと気合いを入れんかい!」という方に共感しやすいタイプ(個性)なので、そういう言葉に引かれやすい。だから強い言葉に魅かれたりする。当然、そんなもんはその時の気分でしかないけど。

 でも、場に座る。本尊の前に座る。念仏申す。そして、本願念仏の歴史に参加する。その中で色々な言葉との出会いもあるし、人間との出会いもある。それだけでいい、というか、それ以上、まあ、求めざるを得ない人は求めていれば良いだけの話。
 先の狐野先生の言葉も、狐野先生の出会い方。狐野先生の出会い方が正解であるわけもない。三願転入は親鸞の出会い方。なして、生身の今生きている人間が、その「マニュアル」に合わせなければならない。