坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

あたかも牢獄を逃れるごとく 人はみな自己の前を逃れんとす

2013年11月14日 | 坊主の家計簿
【あたかも牢獄を逃れるごとく 人はみな自己の前を逃れんとすれども
 世に一つの大いなる奇跡あり 我は感ず 『いのちみな生きらるべし』と】(リルケ)

という言葉。
後半の「いのちみな生きらるべし」という言葉にばかり気が行ってた。
この言葉を教えて頂いて感動した事もあったからかも知れないけど、

【あたかも牢獄を逃れるごとく 人はみな自己の前を逃れんとす】

というのも生身の人間の宗教感覚ではないのか?

自己保身。そらそうだ。では、何故、自己保身しなければならないのか?何故、自己保身してしまうのか?そこで働く感覚の底にあるのは何なのか?

マナ。執着しまくりのマナ。でも、マナが執著し続けてくれるから、何とか生きる事が出来るのではないのか?

当然、んなもんは仮かも知れない。仮にしか過ぎなくとも、その事で保ててる部分はないのか?

ある先生。その先生は戦時中に大砲を撃っていたらしい。大砲を撃っているという事は、当然、その先に誰かが恐らく死んでいる。

毎日食べているのは、生き物を殺した死骸である。食べる以前に、心地良い生活を保つ為に屍の上に生活している。アウシュビッツより残虐な生活をしている。

そんな事をイチイチ考えて居たら精神が持たない。だから、そういう事を知ったとしても「仕方がない」云々も含めて忘れようとする。或いは避ける。

なんか、そういう所にある宗教心。繋がりたい、という宗教心。事実から逃れたい、という宗教心。

無人殺人兵器を作る。出来るだけ「殺す相手の表情を見たくない」というような、だから冷徹に成らざるを得ないような宗教心。そこにあるのは、「出会いたい」「わかりあいたい」「みんなと一緒に生きたい!」

「好きの反対は嫌いじゃないよ、無関心」(マザーテレサらしい)

でも、そうか?それだけか?無関心な事もあるけど、あえて「無関心」と、感覚を遮断してしまわなければならないような事もあるだろ。そんな弱さもあるだろ。

恩徳讃。
何に対しての「身を粉に」「骨を砕く」。仏道精進なら、それは、真宗での仏道精進なのか、それとも、通仏教での仏道精進なのか、娑婆の論理での精進なのか。

まあ、いいや。寝よ。

【あたかも牢獄を逃れるごとく 人はみな自己の前を逃れんとす】

という煩悩具足の凡夫の上に

【世に一つの大いなる奇跡あり 我は感ず 『いのちみな生きらるべし』と】

ねるねる。