なんか、中村薫先生の法話を思い出していた。ググったら出て来たけど、東日本大震災直後の御遠忌で、夜に高倉会館で話されたのを聞いたから、当然、少し違うんだろうけど。
役に立つ、役に立たない。
役立つ人間「しか」救われないなら、そんな教えは私には役立たない。
あの時の法話の中で、中村先生は娘さんを自死で亡くされた悲しみを話ながら、鬱病の事についても話されていた。「コップに入った水を飲む事だけでも大変なんですよ」と。
中村先生自身も「まずは有縁を度すべきなり」の有縁は「私の事であった」云々かんぬん。
自分で自分を救う。自分の価値観で自分を救おうとしたら、当然出て来る都合の物差し。理想とする自分にとって「役立つ」「役立たず」。
阿弥陀如来との関係。「えらばず、きらわず、みすてず」との関係は、当然、「私一人」の救いだが、すべての人たちが救われる教えであるが故に、初めて「私一人」が救われる。どんな「私」にもなって行ける。そんな世界に「役立つ」「役立たず」は、ない。「役立たず」が救われない教えに意味はない。
役に立つ、役に立たない。
役立つ人間「しか」救われないなら、そんな教えは私には役立たない。
あの時の法話の中で、中村先生は娘さんを自死で亡くされた悲しみを話ながら、鬱病の事についても話されていた。「コップに入った水を飲む事だけでも大変なんですよ」と。
中村先生自身も「まずは有縁を度すべきなり」の有縁は「私の事であった」云々かんぬん。
自分で自分を救う。自分の価値観で自分を救おうとしたら、当然出て来る都合の物差し。理想とする自分にとって「役立つ」「役立たず」。
阿弥陀如来との関係。「えらばず、きらわず、みすてず」との関係は、当然、「私一人」の救いだが、すべての人たちが救われる教えであるが故に、初めて「私一人」が救われる。どんな「私」にもなって行ける。そんな世界に「役立つ」「役立たず」は、ない。「役立たず」が救われない教えに意味はない。