坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

中村薫先生

2013年07月04日 | 坊主の家計簿
なんか、中村薫先生の法話を思い出していた。ググったら出て来たけど、東日本大震災直後の御遠忌で、夜に高倉会館で話されたのを聞いたから、当然、少し違うんだろうけど。

役に立つ、役に立たない。
役立つ人間「しか」救われないなら、そんな教えは私には役立たない。

あの時の法話の中で、中村先生は娘さんを自死で亡くされた悲しみを話ながら、鬱病の事についても話されていた。「コップに入った水を飲む事だけでも大変なんですよ」と。

中村先生自身も「まずは有縁を度すべきなり」の有縁は「私の事であった」云々かんぬん。

自分で自分を救う。自分の価値観で自分を救おうとしたら、当然出て来る都合の物差し。理想とする自分にとって「役立つ」「役立たず」。

阿弥陀如来との関係。「えらばず、きらわず、みすてず」との関係は、当然、「私一人」の救いだが、すべての人たちが救われる教えであるが故に、初めて「私一人」が救われる。どんな「私」にもなって行ける。そんな世界に「役立つ」「役立たず」は、ない。「役立たず」が救われない教えに意味はない。

亡き娘を縁として

2013年07月04日 | 坊主の家計簿
【『歎異抄』の中に、
 
まず有縁(うえん)を度(ど)すべきなり
(「歎異抄」第五章)
 
と、こう出てきたんですよ。「有縁を度すべし」というのは、すべての人が救われていくように仏は願っている、とこう思っていたんです。「有縁を度すべし」と言って、私と縁のある人がみんな救われていくんですよ、とこう思っていたんです。仏と同時に中村薫と接する人すべて含めて。だけど、それよりも大事なことは「汝一人」ということ。「私一人」ということだったんです。私一人が救われるかどうか、という。つまりみんな救ってくださるそうだよ、というのは、話に終わっちゃっているんです。仏さんの教えってありがたいね、みんな救ってくださるんだよ。ナムアミダブツ申せば、と。それは頭の話であって、それは五臓六腑が承知しなかった。じゃ、私はどうしたらいいのか。私が救われなければ、私の隣の人はどうして救われるのか。まず人を救って、それから私、というかも知れないけれども、それは大事なことかも知れないけれども、そんなこと言っておられなかった。私が救われなければ、どうして隣の人が救われるのか。嘘じゃないかと思いました。私が、どうでもあなたを救いますよ、なんていうのは、そんな救いなんて嘘じゃないかな、と思われてきたんです。「救われる」ということは、先ほど言いましたように、上にあがることじゃなくして、身の事実を引き受けて大地に足をつけて私が歩んでいく。それしか道がないんではないか、と。そんなことを思うんです。ですから私が救われるということが大事なことだ、と。「有縁を度すべし」というのは。ということは、私が道を求めていくことしか綾と出会うことができないんだ、と。だから今救われてあるかどうか、と言われても、救われているよ、と言えば救われているし、救われていない、と言えば救われていないし、ふらふらしている。しかし必ず救われるべき道を今求めているんだ、と。これが綾との出会う道なんだ、という、そういうふうに私は。そして同時に連れ合いとも語り合い、子どもたちとも語り合っていくその世界が、一人が二人、二人が三人と増えていく。それが御同朋・御同行という親鸞聖人の教えでなかろうか、と。ですから歩みですね。】

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-402.htmより

中村薫先生「出会い そして別離(わかれ)のいのち」

2013年07月04日 | 坊主の家計簿
【高先生に「娘が亡くなってしまった」と電話をしましたところ、先生のおっしゃったことをよくは覚えていないのですが、「泣いて、泣いて、泣いてください。泣いて、泣いて、泣いて、お嬢さんのぶんまで生きてください」という言葉だけ私の脳裏に焼きついています。】

http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/nakamura.htm


高史明、さすがというか、何というか。