坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

ミス・ジャッジ

2010年06月28日 | 坊主の家計簿
 え~。。。夜もパソコン環境になったのだが、むっちゃ疲れている。。。今日、何時間動き回っとるねん。しかも、フルマックスで。
 終了が23時30分。筋肉痛が心配だし、気分的にも銭湯だったので銭湯へ。
 「とりあえずタバコやのぉ。。。」と、銭湯ロビーでタバコ。ロビーのテレビはサッカーのワールドカップだった。あ、日本、なんか、ホンマに強なってんのぉ。。。まあ、1億数千万人の人口があって、かつ、Jリーグが子どもの頃に出来ていわゆる「サッカーブーム」なんぞの頃にサッカーをやりだした大量のガキがエエ指導者の元でサッカーをやりだしたら、まあ、こんな感じになるのか。人口なら日本は世界有数であって、サッカー人口が増えりゃ、っちゅうか、スポーツ万能のヤツらが野球だけでなくサッカーにも流れていきゃ、まあ、こんなもんなのかも知れん。今回は「初アウェイ」での決勝(実質のワールドカップ)に進出なんだが、まあ、これからこれが当たり前になって行くのかも知れん。子どもの数は減っても「うちの子には何を習わせようかしら」であり、「目指せ年収数億円」であり、子どもが有名選手になって年収数億円にもなりゃ、意味なく『大観音像』なんぞを立ててみたりしたくなるのかも知れん。。。

 ん?
 そやそや、銭湯ロビーでワールドカップを観てたら、ドイツ対イングランドの試合だった。決してカール・ゴッチ対ビル・ロビンソンの試合ではない。スープレックス対決ではない、サッカーの話である。で、「おいおい、ゴールしとるやんけ」である。しかし、審判は無視してそのままゴールキーパーが「前線、頑張らんかい!」である。
 非常に不思議なのだが、ゴールキーパーは気づかなかったのだろうか?「あれ?今のん入ってたやん」と。「でも、まあ、審判がエエ言うてるねんから、エエねんやろ」と、そのまま試合を続けるのであろうか?
 何やら、サッカーには『ルールにないルール』っちゅうのがあるらしく(公共広告機構かなんかのCMで知った)、負傷者が出たらボールをいったん外に出すらしい。要するに試合をいったん止めるらしい。サッカーには休憩時間があって、休憩時間中にビデオなんぞを見て「あ、今のんゴールに入ってたんや。ほな、一点だけ『ルールにないルール』で元に戻そ。」っちゅう事があればイングランドの試合の展開がまた変わったのではないのか?プロレスならカール・ゴッチのジャーマン・スープレックスでビル・ロビンソンが投げられたら、「ほな、次は俺の見せ場な」とビル・ロビンソンの人間風車が決まるぞ。それが『お互い様』を第一のモットーにするプロレスの『ルールにないルール』であって、そういう慈愛に満ちた、人間関係の大切さを教えてくれるプロレスに比べて何故サッカーごときが全世界的な人気があるのかが私には全く理解不能であり、「私はサッカーファンである」という人物と交流する時は「こいつはセメントで来やがるな。よっしゃ俺もセメントで行こ」と、非常に殺伐とした世界が出来てしまうではないか。。。

 ん?
 いや~、100円ローソンの酎ハイ恐るべしである。なんせアルコール度数が8%もある。なので、500mlで同じ容量の4%の発泡酒2本分である。まあ、ざっと生中2杯である。体が疲れているので廻る廻る。
 で、ドイツ対イングランドの『疑惑のゴール』っちゅうか、『ミス・ジャッジ』である。
 この『ミス・ジャッジ』は難しい。とりあえず『ミスコン批判』もあり、その中で闘いつつの『ミス・ジャッジ』を選ばなければならない。ネットでは不謹慎なので書かないが私はかなり不謹慎な発言が大好きであり、よく「ミス・大谷派は○○さん違うか?」なんぞと『ミス』の意味もよく理解せずに既婚者だろうが離婚経験者だろうが関係なく、高校の時に「卒業アルバムの見せ合いっこ」なんぞの延長路線の「お前、もう厄年やぞ」なんだが、全く変わる事なくそういう事をひたすらやり続けていたりするのだが、『ミス・ジャッジ』となると難しい。やはり『なるみ』しかいてないか。。。ハイヒールのリンゴもかなりなんだが、やはり『ミス・ジャッジ』という事になると、やはりリンゴは外見的に劣る。シルクは芸でなるみに劣るし、やはりなるみか。。。

 ん?
 『ミス・ジャッジ』である。
 恐らく、今現時点でもイングランドの人達の中には「あの時の審判のミス・ジャッジがなければ試合に勝っていたはずだ」等と言っていると思われる。で、そうかも知れないし、そうでなかったかも知れない。
 ちなみに試合結果は4対1である。イングランドの1点が加味されても負けである。
 しかし、試合のルールや、1点を加味されても負けであるにも関わらず、それを引き受ける事が出来ない存在を『煩悩具足の凡夫』と呼んだりするのではないだろうか?


【念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、また少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってこないのは、どのように考えたらよいのでしょうかとお尋ねしたところ、次のように仰せになりました。
 この親鸞もなぜだろうかと思っていたのですが、唯円房よ、あなたも同じ心持ちだったのですね。よくよく考えてみますと、おどりあがるほど大喜びするはずのことが喜べないから、ますます往生は間違いないと思うのです。
 喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは、煩悩のしわざなのです。そうしたわたしどもであることを、阿弥陀仏ははじめから知っておられて、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫であると仰せになっているのですから、本願はこのようなわたしどものために、大いなる慈悲の心でおこされたのだなあと気づかされ、ますますたのもしく思われるのです。
 また、浄土にはやく往生したいという心がおこらず、少しでも病気にかかると、死ぬのではないだろうかと心細く思われるのも、煩悩のしわざです。
 果てしなく遠い昔からこれまで生れ変り死に変りし続けてきた、苦悩に満ちたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ生れたことのない安らかなさとりの世界に心ひかれないのは、まことに煩悩が盛んだからなのです。
 どれほど名残惜しいと思っても、この世の縁が尽き、どうすることもできないで命を終えるとき、浄土に往生させていただくのです。
 はやく往生したいという心のないわたしどものようなものを、阿弥陀仏はことのほかあわれに思ってくださるのです。
 このようなわけであるからこそ、大いなる慈悲の心でおこされた本願はますますたのもしく、往生は間違いないと思います。
 おどりあがるような喜びの心が湧きおこり、また少しでもはやく浄土に往生したいというのでしたら、煩悩がないのだろうかと、きっと疑わしく思われることでしょう。
 このように聖人は仰せになりました。】(歎異抄第九章 ただし本願寺出版社・浄土真宗聖典・歎異抄現代語版より)


 を、身近な人の死の場面に置き換えたらどうなのだろうか?最愛の人の死の場面に置き換えたらどうなのだろうか?
 あるいは、自分自身の死の現場に置き換えたらどうなのだろうか?

 「お坊さん、私、死にたくないねん」
 「お坊さん、私、あの人が死んだ事が悲しくて仕方がないねん」

 決して『聖者』でなく、煩悩具足の我が身の事実だからこそ、『悲嘆』『苦』の人達と対等に出会って行けるのではないのではないか?