坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

黒衣同盟

2010年04月19日 | 坊主の家計簿
 『黒衣同盟』で検索してたら「おお!これは、あの幻の掲示板ではないか!!!」っちゅう、昔作ってた掲示板を発見。
 え~と、削除しようにも、当時のパスワードを憶えていません。。。
 んが、タイトルは気に入っている。なんせ

【『黒衣同盟』~「腹黒さを隠そうと、一生懸命着飾る私達」~】

 っちゅうタイトルである。う~ん。。。素晴らしい。。。と、自画自賛。

 っちゅう事で、【『黒衣同盟』~「腹黒さを隠そうと、一生懸命着飾る私達」~】っちゅうテーマで一文を書きたいのだが、え~。。。パパは今日、朝から深夜まで働いていたのでヘロヘロです。結構、肉体系もあったので、体もエラい。

 なので、非常に安易に黒衣同盟のリンク。

 http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/odake11.html

 ついでに今月号の寺の通信に引用した西元先生の文章

【あるとき報恩講さまに呼ばれて、広島県下のあるお寺に行かれてびっくりされるのです。お斎の御馳走が出たのでお椀を開けたら、お汁が入っておらず、お金が入っているのです。御飯茶碗にもお金が入っている。そしてそこのお寺さまの坊守の奥さまに、「これはどういうことでございますか」と尋ねられると、悲しい顔をされまして、
「先生、御存じやございませんか。ここは地区といわれている所でございます。本願寺のお坊さま方には、お斎を出しても召し上がっていただけません。でできたものは召し上がっていただけません。だから代わりにお金を包ませていただいています」
と悲しい声で話されたということです。これは明治の末のこと。今とは違います。今はそんなことはありません。明治の末のことですが、足利先生は愕然とされたわけです。
 老若男女、貴賤貧富、一切を救わずにおかんという弥陀の本願、その本願をいただく浄土真宗においてかくのごとき差別があるのか。しかもお寺さまにはお寺の格があります。足利先生はほんとうに悲しまれたのです。それでたまらなくなって、みんなが止めるのを振り切って、先生は還俗されます。そして同朋舎という印刷屋を始めた。その同朋舎のお金で布教活動をされたのです。
 全国の結成大会のときにもいろいろと世話をやかれたのです。】(西元宗助『念仏に生かされて』より)

 明日仕事は休み(朝から晩まで忙しいが。。。)なので、もう一文

【青年のころ私は禅宗教団のなかで黒衣運動をおこそうと思いたったことがある。しかしまた考え直して、「いま始めると、市川は自分が黒衣しか着られないために、ネタミから始めたのだ、といわれるのでは効果がない。紫衣を着る資格をとってから・・・」ということになった。そして後年、紫衣の資格をとった。しかし色衣廃止の運動には着手しなかった。紫衣を着たわけではない。ただ成功の見通しがなかったからである。檀信徒がこれを支持するとも思われなかったのである。私じしん往年の情熱をうしなっていたともいえるであろう。】(市川白弦『一休』103~104頁より)

 ちなみに私も『僧侶』の資格だけ取って『僧侶の仕事』をしてなかった時代に、え~。。。つまり、専修学院を1997年に卒業して(1996年度入学でんな)直後に、当時坊主バーに集まっていた同年齢、っちゅうか、私が最年長だったのだが、『行動する若手念仏者の会』っちゅうのの最初の名前が『黒衣同盟』だった。
 んが、今は出来ない。単純な話、色衣を着なければならない仕事がある。私が預かっている寺での事ならば、ある程度私のワガママも通るが、依頼された仕事では不可能である。そして、依頼された『僧侶』としての仕事を断れる程、経済的に豊かではない。
 これがもっと若く、独身であり、子どもも居なければ突っぱねる事が出来ただろう。というか、かなり突っぱねて、突っ張って来たし。
 しかし、それが不可能になって来た。信仰よりも我が身の生活である。凡夫のおそれである。
 けど、これが他宗ならば私みたいな求道心のないヤツは「顔を洗って出直して来い」だろう。

 今年の報恩講の案内の冒頭文は

     一心正念直来
     オネガイダカラ スグキテオクレヨ
     (池山栄吉先生)

 である。

【如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したもう。世に出興する所以は、道教を光闡して、群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。】

 である。

【行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽】

 である。

 という事で、今日の自己肯定。

【法然は「すべての人は善人だ」と語り、親鸞は「すべての人間は悪人だ」と語りました。二つの言葉を比べれば、結論は正反対ですが、言おうとしていることは同じです。「すべての人間は・・・だ」、つまり二人とも現世の宗教的平等を主張しているのです。】(平雅行『親鸞とその時代』より)

 なんか、『腹黒さを隠そうと、一生懸命着飾る私達』っちゅう所で、同じであって、んな所で他人を裁かれへん。
 んが、着飾る事を当然とし、差別を当然とし、身分制を当然とし、つまり煩悩を肯定するのであらば、「それは煩悩でっせ」と言わんとアカン。

【「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。】

 でっせ。

【西元宗助先生は、御講演の中で、ある悲惨な少年事件に触れられて「このようなことが起こるとは、一人の沙門(しゃもん)として重大な責任があります。まことに申し訳ございません」とおっしゃって絶句なさった。】(http://homepage3.nifty.com/Tannisho/i-mode/ikiru_tannisyo/Atogaki.htmlより)

 煩悩具足としてのわれら。

 そして私は、明日仕事がないとはいえ、朝からムッチャバタバタと働かんとアカンのだが、もう、4時38分。。。

 ということで、歯磨きしながらネットしてたら(ただいま歯ブラシくわえ中)、

【相手の立場に立つと言っているが「その下に立つ」というのが、わかったという英語のアンダスタンドと云うことである(本田哲郎)】(http://koyama.exblog.jp/14193391/より)

 という言葉に出会って、今日の自己肯定は完膚なく終了。