坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

バブル青田と『たちあがれ日本』

2010年04月08日 | 坊主の家計簿
 所用があったので珍しく実家に帰る。御近所風景が変わってて、パパ、道に迷いそうになる。
 丁度、昼時だったので、実家でメシを食う。んが、なぜか近所の寿司屋の寿司桶。まあ、子どもの頃によく遊んだ兄ちゃんの所やし、別にエエ、っちゅうたらエエのだが、これは『お持てなしの心』としては失格である。うちの御近所名物は『焼きそば』であり、『星月』という店の焼きそばは、恐らく日本一である。わざわざ遠方から食べに来る人が居てるくらいの名店がすぐ近くにありながら、なぜ大して美味くもない寿司を食べなければいけないのか。んが、まあ、他にオカンの手料理もあったのでエエ、っちゅうたらエエのだが。単純にオカンの鮭オニギリで良かったんだが。今度帰る時は注文しとこ。
 
 で、もって、所用も済んだし、メシも食った。帰ろうとすると「正信偈を詠んでいけ」と。渋ったのだが、勤行開始。過去に実家で正信偈を勤行した5人の先輩をちょい思い出しつつ、勤行、勤行。
 
 勤行も済んで帰ろうとすると、滅多に帰って来ない息子に期待するのは辞めたのか、ママと娘だけでも来い、と。そういや、昨年末はママと娘だけだったし。ママ曰く「一番孫の顔を見たい時期やろ!」と。まあ、確かに、初孫の顔を見るオカンの表情はなんとも云えん感じやし。しかも、滅多に来ない孫の為にベビー布団まで購入してやがったし。やはり初孫はかわゆいのだろう。

 せっかくなので、梅干しをゲットして帰宅。京都に行くはずだったのだが、結構エエ時間になってもうたし、ダルいので帰宅。

 帰宅してテレビを見てたら、『 ifの歴史書~もしものヒストリー~』っちゅう番組をやってた。

 もしも織田信長が本能寺で殺されていなければ、モンゴルに渡ってチンギスハーンになっていただろう。
 もしも坂本龍馬が近江屋で殺されていなければ、モンゴルに渡ってチンギスハーンになっていただろう。
 もしもバブルが崩壊しなかったら、青田典子はモンゴルに渡ってチンギスハーンになっていただろう。

 という様な話だったと思う。疲れて寝ながら見てたので、若干放送内容と違うかも知れんが。。。

 番組を見ながら思ったのだが、もしも青島幸男が死んでなければ与謝野馨となって新党『たちあがれ日本』を平沼氏と作っていたのではないかと。。。いや、顔、似てまんな。青島幸男がもっと老けてたらあんな顔になっていたのではないかと。

 しっかし、『たちあがれ日本』には、なんぜ安倍晋三氏が参加しないのだろうか?与謝野氏、平沼氏を繋ぐ、っちゅうか、与謝野氏、平沼氏が安倍氏を立てて新党をやった方が、票は取れるのではないのか?&保守勢力→憲法改正、っちゅうか、『たちあがれ日本』だけでなく、『たちあがれ美しい国日本』の方がエエのではないのか?

 実家の仏壇(お内仏)の前には『いのち』っちゅう大谷派の青少年団体が出している勤行本(っちゅうか、青少年向けの聖典)が置いてあった。実家にお参りしてた坊さんが置いて行ってあったものである。
 歴史に「もしも」はないのだが、もしも実家に来てた坊さんが『いのち』っちゅう本を置いて行くような人でなければ、女性解放バリバリの市民運動バリバリの人でなければ私は坊さんにならずにモンゴルに渡ってチンギスハーンになっていただろう。。。
 また、安倍晋三氏もあの時にあういう形で総理大臣を辞めなければモンゴルに渡ってチンギスハーンになっていただろう。。。
 だが、歴史は動かす事が出来ない。事実としての歴史があったからこそ、今の私が存在しているわけなんだし。
 「ああ、ホンマはモンゴルに渡ってチンギスハーンになりたかったのに」なんぞといっても、何も始まらないし、御先祖に対して失礼ではないのか。本当にチンギスハーンに成りたかったら、今からモンゴルに渡ればいいだけの話である。っちゅうか、今から渡ってもチンギスハーンには成れないが。。。
 んが、この『ありのまま』を引き受ける事が出来ない煩悩があるが故に念仏申す事が出来たりする。事実を事実として引き受ける事が出来れば、念仏なんぞ不要である。なので、『もしも』って、非常に人間的、生身の人間的らしいではないか。

 もしも仏教の歴史の中に無量寿経がなければ、「もしも」と言ってしまうような、事実を事実として引き受ける事が出来ない私は仏教に対して『関心』はあったかも知れんが、んが、自分が僧侶になろうと思わずに、モンゴルに渡ってジンギスカン屋をやっていたかも知れない。。。

 『もしも』が『過去から未来へ』、じゃなく、『今の私』を中心にすると

 もしも織田信長が本能寺で殺されていなければ、今の私は存在せず
 もしも坂本龍馬が近江屋で殺されていなければ、今の私は存在せず
 もしも青田典子に「ジーザス」という一発ギャグがなければ、今の私は存在していない。

 すると、青田典子の一発ギャグは私にとって掛け替えのない事実になる。
 だが、『事実を引き受ける』という事と、無批判になるという事は別である。そこには未来がない。

 日本は戦争で多くの人達を殺したという事実があるが故に、憲法9条という未来に向けた目標がある。

 
 ♪夢は夢じゃないから
  ゼッタイに ゼッタイに ゼッタイに
  夢なら叶う
  そう信じてイケばいい
  あきらめないのが条件
  (バブル青田『ジーザス』より)