坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

民族VS国家

2010年04月13日 | 坊主の家計簿
 昨夜、ようやく「よっしゃ、今日は酒飲みつつネット遊びじゃ」っちゅう感じになれたので、ネットを開こうとしたら、何のトラブルか知らんが、ネットが開かん。。。なので、iPhoneでネットチェックして不貞腐れて寝る。
 なので、実に「3日も!!!」酒を飲まなかった。これは奇跡的出来事である。私が記憶している範囲では大谷派の教師修練っちゅう、「本山に一週間籠る」っちゅう時以来ではないだろうか?っちゅう事は10数年振りの快挙、1996年以来の快挙である。
 「これは祝杯をあげねばならぬ」
 と、飲みに行こうとしたんだが、まあ、ママと娘が居てるので断念して、部屋で一人飲んでいるわけなんだが、え~。。。

 最近、お疲れモードでして、どうもイカン。数日前も自転車で45分ぐらいの距離の所にある役所に行ったら、自転車をこいでいるだけで「もう、辞めよかな」と。まあ、ダラダラ走っても1時間ちょいぐらいの距離だったのだが、「天気もエエしサイクリング♪」と走り出したのはエエのだが、「ああ、電車にしとけば良かった」と。今の年齢でこんな事では娘が大きくなった時に一緒に讃岐うどんサイクリングが出来ないではないか。まあ、車で行きゃ、エエのだろうが。

 そういや、先日昼飯食ってたらクイズ番組で『拾う』という漢字の読み方をやってた。クイズの正解は『ひろう』だったのだが、私は今まで41年間の人生の中でこの『拾う』という漢字を『ひろう』と読んだ事がない。『ひらう』である。ちなみにこのパソコンだって『ひらう』と打ち込めば『拾う』と出て来るのだが、どうやらこれは標準的な読み方ではないらしい。『デジタル大辞泉』っちゅうやつでも『ひろう』等と書いてある。
 っちゅう事は、もし漢字の読み方テストで『ひらう』と書けば間違いにされてしまったりするのだろうか?
 これは最早独立しかない。言葉は大切である。『ひらう』と『ひろう』では意味が違う。細やかなその土地で育まれて来た言葉の文化を『標準』なんぞで殺されてはたまったものではない。やはり独立である。。。

 っちゅう事で、井上ひさしが死んだらしい。井上ひさしは極右である。なんせ東北独立の吉里吉里人である。週刊金曜日の創立メンバーだった、等で誤摩化されてはいけない。週刊金曜日には同じく極右の本多勝一も居る。こういう極右が左翼の中に潜り込んでいる。。。
 ん?
 井上ひさしって、吉里吉里人しか読んだ事がないのだが、『左翼的』なんぞと見られるのは『対国家』だからだろう。そりゃ、方言札なんぞをやられたらたまったもんではない。河内のおっさんから「アホ」「ボケ」「カス」「殺すぞ」なんぞの言葉を取り上げたら喋る言葉が無くなるのではないのか?
 もしくは泉州人に対して「だんじりは野蛮な祭りだから禁止しないといけない」なんぞとヌカしたら大変である。
 もしくは真宗門徒から念仏を取り上げれば大変な事になる。。。のか?(笑)

 大阪で生まれ育ったから、東北で生まれ育ったから、といって、その土地の言葉を話さなければならない筋合いもない。大阪で『拾う』を「ひろう」というヤツが居ても構わん。「ちょっと、そこのもんひろって」と言われても別に態度が生意気や偉そうでなければ構わない。「ひろって、ちゃうわ!ひらって、じゃ!」等と言い方が生意気や偉そうでなければそのままひらってやるであろう。その時に「標準語では『ひろって』と言うのよ」なんぞと言われた日には「アホ!ボケ!カス!殺すぞ!」である。

 言葉を奪い、名前を奪われたらたまったものではない。

【うちの息子は『チョン・ファンニョン』っていいよるんですよ。『チョン・ファンニョン』。あの、今、ちょっと『チョン・ファンニョン』、言い難いでしょ。で、何度も聞かれるからね、息子がもう面倒臭がってね、『てい・あきとし』なんですよ。日本語で読むとね。で、「日本語読みでいいです。『てい・あきとし』でいいです」って言ったら、さすが沖縄ですね。「そんなヤマトの名前捨てろ!」って云ったんですよ。「そんなヤマト口の名前捨てろ。『チョン』という立派な朝鮮語読みがあるのに。僕は練習する。」】(2009年6月3日・ユ・ヨンジャ氏の公開講座より)

 私は民族派なんだろう。それが『右翼』というジャンルに分けられるのならば右翼なのかも知れんが、んなもん、知った事ではない。民族派だかなんだか知らんが、民族を愛する気持ちは朝鮮民族にも、アイヌ民族にも、琉球民族にも、東北の方々にも、そして我々関西阪神帝国にもある。
 民族を大事にするとは、結局『個』を大事にする事ではないのか?
 日本文化、当然、統一された『日本文化』なんぞはありゃしない。それぞれの土地で養われた文化であり、言葉である。その土地で生まれ育った方々が大切にして来られた『生活』である。人生そのものである。ならば、その文化に従わない人々の『個』を認める事が、自らの文化を大切にする事ではないのか?何かひとつの『正解』の文化だけが正しくて、他の文化が間違っている、つまり、ある標準の文化と違った文化、標準に従わない文化が、自分の生活文化だった時に、自分の文化、自分(たち)だけの文化を、それに従わない人達に強制する事は、結局、自分達の文化を圧迫し、殺そうとする人達の論理と同じではないのか?
 ならば、民族派だからこそ、朝鮮民族の文化、琉球、アイヌ、その他多くの地域の生活文化を尊重し、認めるしか道はないのではないのか?
 
 ちなみに私は『国王不礼』『神祇不拝』の真宗門徒という民族なんだが、当然、天皇に対して礼はしないし、強制されたら断固反対する民族派だが、天皇を侮らないし、一人の人間として他の人達と同じく尊敬している。また、ぞれぞれの土地の『天津神』『国津神』に対して信仰は持たないが、信仰している方々が居ているので、土足で踏みにじったり、あるいは、その神社の祭りの邪魔はしない。信仰が別なので、当然、協力もしないし、強制されたり、あるいは特定の宗教団体が共同体である国家と結びついたりしたら断固反対するが。

 先日、実家に帰って再確認したのだが、うちの実家は自覚的でないにしろ真宗門徒である。つまり私は『真宗門徒の家庭に生まれ育った真宗門徒』である。
 娘も真宗門徒の家庭に生まれたし、育っているのだが、今後どうなるのかは不明である。不明ではあるが、娘がキリスト教の信仰を持つのならば『キリスト教VS真宗仏教』の宗教論争をしたいし、娘が創価学会に入ったのならば『題目VS念仏』の宗教論争をしたい。
 「どっちが勝っている」のではなく、違うのだ。違うのであれば、終わる事のない、つまり「正解」のない論争を娘と続けて行きたい。まあ、せっかく『親子』っちゅう人間関係の御縁を頂いたわけやし。