坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

来年は末法1469年?

2009年12月30日 | 坊主の家計簿
 なんじゃかんじゃとバタバタしてるので、前回「足らんやんけ。。。」の年賀状の最終分もようやく終了。

 んで、もって思ったのだが、一応、来年は『寅年』であるらしい。よって、熱心な阪神ファンと、干支を気にする人たちは『寅年』で年賀状制作なんだろうが、一応、私は『佛成道暦』っちゅうのにしたわけなんだが、え~と、「末法でも良かったかな?」っと。

【しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、己が分を思量せよ。
 三時教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘うるに、周の第五の主、穆王五十一年壬申に当れり。その壬申より我が元仁元年甲申に至るまで、二千一百八十三歳なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説に依るに、已にもって末法に入りて六百八十三歳なり。】(真宗聖典359~360より)

 っちゅう事なので、え~と、西暦1224年で683年やから、1224-683=541年から末法と親鸞聖人は考えてはったんかな?
 ん?調べてみると親鸞聖人が上記文の続きから引用している『末法燈明記』では1052年が末法元年とされている『らしい』が、親鸞聖人はそれを採用しなかったのか?
 ん?????
 なんでや?なんでやろ?ちょっと勉強せなあかんな。

 まあ、末法に関しては「後がない」っちゅう事で教えて頂いた事をよく憶えている。

【明日有りと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかわ】(伝・親鸞聖人)

 なんだろう。
 あるいは、

【勧修寺の道徳、明応二年正月一日に御前へまいりたるに、蓮如上人、おおせられそうろう。「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。自力の念仏というは、念仏おおくもうして仏にまいらせ、このもうしたる功徳にて、仏のたすけたまわんずるようにおもうて、となうるなり。他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあずかるなり。そののち念仏もうすは、御たすけありたるありがたさありがたさと、おもうこころをよろこびて、南無阿弥陀仏に自力をくわえざるこころなり。されば、他力とは、他の力というこころなり。この一念、臨終までとおりて往生するなり」と、おおせそうろうなり。】(蓮如上人御一代記聞書の1)

 なんだろう。