坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

イエスの法事

2009年12月25日 | 坊主の家計簿
 クリスマスだったらしい。あ、厳密には『イヴ』か。夜に定食屋でメシ喰ってたら常連さんらしき人に大将が「さすがにクリスマスやの。女の子が全然来えへんわ」と。っちゅうか、激安&無茶ウマ定食屋なのでカウンターだけの席はいつも混み合っているのだが、今日はヒマヒマ。っちゅうか、学生街だし、そろそろ冬休みで帰った人が多いのかも知れんが。。。御近所の銭湯も学生らしき人が居なかったし。

 クリスマス。イエスの誕生日と呼ばれている日。

【されこうべと呼ばれているところに着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け会った。民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救いなさい」。兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。 イエスの上には、「ユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕が真ん中から裂けた。 そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。
  百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。
  この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。】(ルカ23の33~48)

【今朝、安楽は牢から御所に連行され、後鳥羽上皇の前に座らされた。安楽は臆することもなく偈文(教えの詩句)を朗唱した。それは「念仏する者に怒りを抱き、怨みをつのらせるような、真実を見ることができない者は、長く苦海に沈み救われることがない」という文。
 安楽は六条河原へ引き出され、群衆が見守る中、静かに念仏を称えて、首を斬られた。】(戸次公正『流罪800年』より)

【念仏者が繰り返し法難を受ける時は、逆に、真宗が民衆の中に興隆している時にかぎってのことなのです。なぜなら、
 一、阿弥陀如来の摂取不捨(えらばず・きらわず・見すてず)の本願を、その本願こそ真実とえらび取った念仏者は、その阿弥陀如来の本願によってひらかれた国、浄土を我が本国、故郷として、ここにあって自覚し、自証しながら、四海の内みな兄弟として出会いながら、ねんごろな交わりを開くことをよろこびとするからです。
 しかし現実は、民族問題にしても、民族内問題にしても、とくに日本民族は天皇を中心とする差別的な血統信仰を根づよく伝統してきていますから、その阿弥陀如来を中心とする平等思想を容易に受けいれることができません。そのため念仏者は迫害排除されてきた歴史があります。こういう中で、あえて「念仏のみぞまこと」と言いきれば首が飛びます。それが法難の歴史であり真宗興隆の歴史です。
 二、安楽房は後鳥羽上皇に直接、念仏者を迫害し念仏を誹謗されるのに対して、回心懺悔されることをすすめ、六条河原で断首されています。
 しかし、その後鳥羽上皇は安楽房のいのちがけの念仏のすすめにより、のちに隠岐に流されて後、念仏者となり、無常講式を作り、念仏者を讃嘆しています。それが蓮如上人の白骨のお文にもなっています。
 門徒は、絶対の権力をもつ天皇も阿弥陀仏の本願真実、浄土真実に背ききることはできず、必ずその本願真実、浄土真実に信順するほかないことを充分にうけとめていたといえます。
 この伝統こそ、法難を逆縁として真宗が興隆することを証明しています。
 三、流罪の教団、流罪の聖人を口にすることは、ながい間禁句でした。それを禁句でなくタブーでなく、逆に流罪の教団だからこそ真宗を興隆するパワーを宿していることを是非公にして下さい。】(竹中智秀『青草第195号』より)

【吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によつて、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
 は、かくして生れた。
 人の世に熱あれ、人間に光りあれ。】(宣言より)

 私は必ず『我に罪あり』とは言えない。常に『我に義あり』の立場である。罪悪深重煩悩具足の凡夫である事を忘れてしまって、『善人』の立場から人を切り裁いている。
 『罪悪深重煩悩具足の凡夫』の自覚なく、つまり悪人の自覚のない糾弾は排除の論理でしかない。

 今日はクリスマス。イエスの法事。