坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

「南無阿弥陀佛」というレッテル

2020年06月13日 | 坊主の家計簿
頭が割れそうな程度にイライラする事があり、酒とタバコで何とかしています。当然、酒もタバコも向精神薬という、合法ドラッグです。故に、一応は人様からゴタゴタ言われる筋合いはないのですが、最近は「健康国家ナチス」





あ、違う、「健康国家日本」なので、「酒呑み=アルコール依存症」「喫煙者=ニコチン依存症」という風潮が強まりつつあります。

病気としての認定は、個を社会の中で認証する為には必要な作業なのかも知れません。例えば、単なる対人関係が不得意な「あいつ鬱陶しいのぉ…」だった人がアスペルガーというレッテルを貼る事によって社会認知されます。排除の対象では無くなります。でも、それは同時に「治療しなければならない病人」としてです。

障害者解放運動で「青い芝」というのがありました。この人たちが見事なまでにアナーキーでパンクで、大好きだったりします。でも、青い芝の人たちは、合宿生活の中で大仏空という天台僧と共に歎異抄を学んでいました。青い芝には親鸞の精神が生きています。

私が「青い芝」系の人に初めて出会ったのは、30歳頃に働いていた共同作業所のパン屋を通じてです。そのパン屋自体も大阪の市民運動家たちが作ったものですし、代表だった脳性麻痺の人も含めて、物凄く刺激を得たのですが、所属している関連団体の集会で「青い芝」の影響をモロに得た人に出会いました。
私は支援者として参加していたのですが、あくまでも障害者の集まりです。その中で「あんたら、車椅子を押して貰ってる事を卑下したらアカンで。当たり前の事や」などと。その人は壇上で発言しました。それは車椅子を押して「支援者」として参加している私にとっては「偉そうな顔するなよ」と同時に、「アンタはアンタやろ!」と、当時はまだ求道熱心だった私の心に直撃しました。
その後に発せられた言葉、「障害を隠す必要はない」は、「アンタを隠す必要はない」と聞こえました。

レッテルを貼る事によって、理解不能な他者を排除せずに社会の仲間入り(認知)するという作業は、現状では必要な事なのかも知れません。でも、そのレッテルが「南無阿弥陀佛」というレッテルだった場合はどうなのでしょうか?アルコール依存症というレッテルでは無く南無阿弥陀佛というレッテル。ニコチン依存症というレッテルでは無く南無阿弥陀佛というレッテル。

仮にアンジャッシュ渡部だったっけ?に「セックス依存症」というレッテルが貼られて「ああ、アイツも辛かったんやろな」では無く、南無阿弥陀佛というレッテル。病気でなく、個性として、業としての認知。

数日前に「犬猫などのペットは往生出来るのか?」という記事を読みました。それは、往生する主体が他者にあるのか?それとも自分にあるのか?という設問だと私は思います。私は往生する主体は自分にあると思っているので、犬猫だろうが、往生します。私が往生する時に、排除すべき対象はありません。

故に、今日、頭が割れそうな程度にイライラした原因の言葉を発した人も同じです。私には理解不可能な事、当たり前ですね、他人ですから、でも、その人の人生の中で考えて発した言葉だっただけ。立場が違うから私は頭が割れそうにイライラしただけの話。どちらが正しいもクソもない。違うだけの話。共に「南無阿弥陀佛」というレッテルを貼られたもの同士の話。

イメージ

2020年06月10日 | 坊主の家計簿
優れたルポだと言っても、いや、だからこそ、ルポで人のイメージを決め付けるというのは如何なものなのだろうか?

私は小池百合子都知事について書かれた「女帝」というルポ本は読んでいない。本が読めない状態だから当たり前だ。でも、仮に読んだとしても、「あくまでも一つのルポにしか過ぎない」という気持ちは捨てたくない。

最近、チト私が無礼をしてしまったが故に疎遠になってしまったが、ある事件?の親族が友人に居た。新聞雑誌報道も散々されたし、また、数冊のルポ本も書かれた。でも、その友人は「そんな人ではない!」と言っていた。そして、別のルポ本が出版された時に「是非読んで下さい」と贈って貰った。
私は、その人に直接会った事はなく、ただ、新聞やルポで書かれたイメージと、友人から聞いたイメージとで、勝手に「多分、こんな人だろう」というイメージを持っているが、実際に会ってみたいと解らないし、また、直接会ったとしても、先入観もあるだろうし、また、所詮は私が作り出したイメージでしかない。

これは、誰に対してでも同じ事。そして、「あ、この人は私が思っていたイメージとは違ってこんな人だったんだ」という驚きの連続は、友人関係や家族でもあるはず。だって他人だし。「違う!本当のあなたはこんな人だ!」と私がイメージする事を相手に押し付ける事は暴力にしか過ぎない。

私は大阪府民だし、東京都民であったとしても政治思想が違うが故に小池百合子氏には投票しないが、でも、ルポなどで作られたイメージから現実の小池百合子氏を判断する事は、言葉は悪いが、かなり頭が悪い。恐らく「女帝」は非常に優れたルポ本なんだろう。だから、そのイメージに囚われる。
その囚われたイメージから「女帝を読んで投票する人の気持ちがわからない」ではなく、都知事として何を実現出来たのか?今から何をやろうとしているのか?で判断すべきではないのか?

私も含めて、恐らく誰しもが噂話を含めたイメージで誰かを決め付ける。だって、楽だし。「あいつはああいうヤツなんだ」と、何処かで決め付けている。でも、所詮はイメージ。仮のもの。仮のものは絶対ではなく、仮のものを絶対視する事は、単なるバカ。

そう、バカでしかない。バカなんだ。だから、他人だけでなく自分ですらイメージで凝り固める。そして、バカな頭で価値判断する。
「これは害虫だから殺して良し」
「こいつは悪人だから排除して良し」
などなど。
イメージで凝り固めたもので価値判断して、楽になろうとする。思考から逃げる。現実逃避してイメージを優先する。そして、どんどんとイメージが再生産されて行き、ますます現実よりもイメージが大切になって行く。

南無不可思議光如来。解らんのだ。自分も解らないし、他人も解らない。でも、決め付けてしまっているという私が課題になる。

苦悩の優劣

2020年06月09日 | 坊主の家計簿
「この方は両手両足を失っても希望は失わずに念佛の道を歩まれた」的な言葉の裏にある差別性が気になる。誰が他人の苦悩を理解出来るのだろうか?

私が大谷専修学院に入った時に、寺の後継ぎ息子が多くいた。そして、その中の多くは寺を継ぐ事をイヤがっていた。これを読まれる僧侶の方には同じような体験をした方も多いかも知れない。でも、世間的に見れば、「就職にも食い扶持にも困らなくて何を悩んでいるのだろうか?」にもなる。当然、寺の大小もあるが、ある方は「あなたたちは大きな寺に産まれた悩みは理解出来ないでしょうね」と言っておられたそうだ。
悩みなんて、相対的なものでなく、もっと個人的なものだと思う。仮に男前でアスペルガーでもなく、お金持ちの家に産まれたとしても、悩みはあるのかも知れないし、「あの人の悩みは私より」云々は、自分にも他人にも失礼だと思う。誰にも比較出来ない悩みが、恐らく誰にでもあるのだろうし、その悩みから病んでしまう事もある。それは誰にも理解出来ないし、また、それぞれが間違いなく貴い悩みだと思う。

でも、「あの方は両手両足を失って」云々と。いわゆる身体障害者と呼ばれる立場になる事で、また、精神的に病んだりする事で「あの人は不幸だ」などと決め付けられてしまう。当然、それは善意であり、優しさから来る言葉だったりするし、また、それらの状態の人たちが生き易いような環境整備は必要だが、でも、不幸と決め付ける事は違うのではないか?

うちのオカンは言わなかったが、大阪ではホームレス状態の人に対して「努力せえへんかったらあんな風になるで」という教育が行われている家庭もあるらしい。
ホームレス=不幸ではない。慰るような優しい言葉がホームレス状態の人にとっては「何を見下しとんねん」とは色々な人から良く聞いた言葉。「なんであんな視線で見られなアカンねん」と、そんな言葉も良く聞いた。蔑むような視線も、憐むような視線も、共に「鬱陶しい」と。

うちから自転車で10分程度の所にある釜ヶ崎は、別名「愛憐地区」とも呼ぶが、地元の人たちは、ほぼみんな「カマ」と呼ぶ。釜ヶ崎のカマであり、愛憐という一時期付けられていた行政用語はきらう人が多い。というか、会った事がない。愛憐される筋合いなんてない、人として生きる、である。

私は、うつ病疑惑で寝込んでいる時に突然離婚を突きつけられて、最愛の子どもを含む家族も、仕事も、住所を一気に失ってしまった。それから約2年が経過して、ようやく通院しようとする気持ちになれた。故に、世間では私の愚痴は受け入れてられ易いのかも知れない。「そりゃ大変やったの」と、受け入れられ易いのかも知れない。でも、そうではない苦悩も同等だと思う。

18歳の時だったかな?確か当時15歳ぐらいだった、物凄い美少女がいた。ただ、顔が少し日本人離れした白人っぽい顔立ちで「みんなから変な顔と呼ばれる」と、不登校になる程度には悩んでいた。当然それは、白人っぽい美少女だったが故でのイジメだったとは思うが、それでも彼女が悩んでいた事は、自分の顔だった。アイドルにもなれそうな顔が彼女のコンプレックスだった。

苦悩に優劣なんかない。世間受けする苦悩はあるかも知れないが、そんな事はどうでも良い。自分が抱えている苦悩だけが、自分にとっては真であり、粗末にする必要性なんか一切ない。「あの人たちの苦悩に比べたらあんなの苦悩なんて」という、人権無視して意見に従う必要なんて一切ない。

梅干し

2020年06月08日 | 坊主の家計簿
今年は梅干しを作ろうと密かな決意。ただ、スーパーで見ると梅が高い。調べると最大の産直である和歌山県が暖冬で歴史的な不作らしい。

梅干し、厳密には干さないから梅漬けを作るのは初めて。故に色々と調べていたら、梅酒用は青梅、梅干し用は完熟梅と時期が違うらしい。

梅干しは、実家オカンが毎年作っていた。うちのベランダには屋根があったけど、2階にあった私の部屋とベランダの入口スペース、風通しも陽当たりも良いスペースに梅が干されていた。とは、いえ、シワクチャになるまで干すのではなく、オカンの梅干しは果肉たっぷりで「塩分控えめ?はぁ?」という塩辛くて、汁にたっぷり浸かったジューシーな梅干しだった。
実家を出てからも時折、梅干しを送って貰ったり、土産に持って帰っていた。最後は東北で再婚してからだった。

オカンは軽度認知症になっていた。私は年老いてからの子どもだし、結構な年齢だったりする。だから、「仕方がない」というのも失礼な話だが、仕方がない。

最後の梅干しは、固かった。「あれ?漬け方が甘いのかな?」と思って塩を大量に追加してみたけど、今回、梅干しの作り方を学んで解った。完熟梅でなく、梅酒用の青梅で漬けたみたい。固い梅は塩漬けしたり、干したりして柔らかくなるのでなく、元々完熟した柔らかい梅らしい。

オカンはまだ生きているし、今年も変わらず梅干しを漬けているのかも知れない。最早私よりも孫にしか興味がないみたいだし、私はまだ東北に居る事になっている。故に孫とは時折話しているのだと思う。離婚云々の話になれば、オカンも電話し難いだろうし、それが良いと思うし、元相方にもお願いした。
とはいえ「仕事で大阪に帰って来た」と言って、顔を出して梅干しがあれば土産に貰って来ようかと思う。また固ければ、刻んでバラ寿司に混ぜたり、山芋短冊と和えたりと色々と料理に使えそうだし。

とはいえ、今年はマザコン上等でオカンの梅干しを目指して人生初の梅干し作りにチャレンジしてみようと思う。

約束

2020年06月08日 | 坊主の家計簿
久々の散髪帰りに税務署に行くと「新型コロナの影響で今は予約制なんですよ」との事。仕方がないから予約を入れて帰宅する。

「あ、病院に行こう」と思った。今日は比較的調子も良かったし、税務署で削がれた気分が病院に向かったかも知れない。
精神科に電話するのは初めてだし、他の病院と比較出来ないけど、相手の人は物凄くゆっくりと、ひと言ひと言を丁寧に話していた。なんか、それだけでもまた少し楽になれた。
でも、今日突然なんて無理、というか、午後は休診だったし、早くて来週との事。来週の調子なんて解らないし、一度電話を切ったけど、ひと言ひと言をゆっくりと話す対応が気に入ったのか、もう一度電話して予約を入れてみた。まあ、歩いてでも行ける距離だし、なんせ精神科なので寝不足だろうが何だろうか「まあいいか」と。

少し前に、息子から「明日FaceTimeで話したい」という連絡があった。調子が絶不調だった事もあって「また今度ね」になった。でも、早く元気になりたい。娘との「元気になったら遊びに行こうね」という約束も果たせていない。人に会う事が困難な状況下で、離れてしまった子どもたちに会うという気力は、当然ながら他の人たちと会う事よりも遥かに必要である。

抗うつ剤の副作用なりが鬱陶しくて、服薬はイヤだけど、でも、医師と相談して飲んでみるか。

「敵」の声

2020年06月06日 | 坊主の家計簿

大阪府に高速道路以外に1km以上信号や「とまれ」がない道路って何ヶ所ぐらいあるのだろ?そんな事を名古屋尾鷲の帰り道に、ふと思いました。


久々の県外ツーリングは、とても気持ち良くて、かなりのストレス発散になったと思います。大阪は狭く、人口密度も高く、渋滞も多く、バイクで走っていてもストレスが溜まるだけです。他に趣味があれば良いのでしょうが、子どもの頃より「どっか行きたい」と、自転車に始まり色々な旅行が最大の楽しみであった私にとっては、地味に大変なコロナ禍でした。かつ、ほぼ引き篭もりで動けない状態が多く、動けるようになっても「県外に出るな!」という事は物凄くストレスが溜まります。


でも、これは他の人たちも違う形で感じている事だと思います。


何やら、つるの剛士が「普通の声で」とツイートした事が話題になっているみたいです。


怒っている人にとっては激しい言葉が「普通の声」なので、何が「普通の声」なのかは不明ですが、「穏やかな話し方」と仮定します。でも、怒っている人は、怒らざるを得ない状況下にあるから怒っているワケであって、「怒っている人に対して『普通の声で』という意見こそ暴力的だ」という意見もあったりします。


私はひょっとすると元々の感情がかなり壊れている部分があり、一応、文学なり宗教なりで後付はしているのですが、今もかなりあると思います。

その上での話なんですが、弱い連中や利害関係がない人たちが怒ったとして何か影響ある?と素朴に思います。

例えば、ヤクザが怒ったら私はビビリます。ええ、純粋に怖いです。また、好きな人に怒られると素朴に怖いです。嫌われたくないですから。今は無職ですが、職場の上司や同僚などもこの中に含まれます。あとは怖くありません。

目の前で激しく怒られた事も何度もありますが、感情が欠如しているのか、「だって、お前、俺を殺せないやろ?」と思います。当然、腹が立ちますが、変な話、私を殺す覚悟がない人間に怒られても怖くありません。


故に、怖くない人間の言葉に説得力が無ければ聞く必要がありません。ただ、私は議論が好きですし、私とは違った意見であったとしても納得出来れば賛同します。

ネット上ならば特に顕著で、ほぼ見知らぬ人たちですから、全く怖くありません。純粋に論として納得出来るかどうかだけの話です。激しい言葉は「あ、ムキになってるwww」だけの話です。そんな事でビビっていたら、ネットなんか出来ません。「私を説得したいのならば、キチンと論を立てて話せ」だけです。


それは人によって色々と違う事だと思います。ただ、激しい怒りの声を上げても、「通用しない相手がいている」という事も確かです。そんな事は歴史が証明しています。仮に相手に通じたならば、そこに何かしらの利害関係が生じただけです。いわゆる権力者なんて、そんなものです。数万人が激しくデモで怒りの声を上げても、民主主義国家はその他圧倒的多くの「声なき声」があるワケであって激しい言葉に従う必要はあってはなりません。それは、テロに屈する事です。


当然、怒った感情を隠す事も良くないと私は思いますし、怒りの声はナンボでも上げるべきです。ただ「相手に解って欲しい」ならば、話は別です。相手が納得出来るような話し方をすべきであり、相手との妥協点も探るべきです。それが出来ずに怒っているのは、単なる議論出来ずにプライドだけ高いガキです。

そして、同意見のガキが集まって一つのセクトになり、カルト化して行くだけです。そこでストレス発散をしているだけです。故に、様々な妄想が広がり、「マスゴミ」と呼んだり「日本では真実が隠蔽されている」とカルト化が進んで行っています。


「ネトウヨ」

「ブサヨ」

という言葉がありますが、レッテルを貼った人からの賛同を得ようとせずに、所詮は「私(たち)は正しい」という内部向けの言葉でしかありません。

そして、それがコロナ禍というストレスで益々悪化しているように思います。


阪神大震災からのオウム事件で「敵」「味方」というカルト化が進み、東日本大震災福島第一原発事故で悪化しました。そしてコロナ禍で益々悪化しているように、私は感じます。


10の意見を聞いた後に、11目の意見を作り出すのか、それとも10の意見の中での大きな勢力を占めている所に意見を合わせるのか?


「異議なし!」という言葉が昔に運動系で流行りましたが、「異議なし!」を安直に使うからカルト化して、集団リンチなりテロが行われたわけだったりする。


自分で考える事が出来る脳味噌は誰にもあり、それは拙くても何でも構わずにあるワケであって、1112と、どんどん増えて行く事が、とても大切だと思う。人格の数だけ「異議あり!」が大切だと思う。

そして、「個」があり、故に、同意見の部分は連帯する、と。違う意見の人たちをみとめつつも、その違いに優劣はなく、故に、自分の意見に賛同して貰いたければ、相手に合わさないと。


僕の話を聞いてくれ

笑い飛ばしてもイイから

by『チェインギャング』真島)


だと思う。


「この教えが絶対に正しいんや!」と大上段からいう坊主には、同じ信仰であっても「そんなもん知らんわ」と、私は言う。ただ、私を尊重し、丁寧に話かけて来た人たちが多くいたから聞く耳を持てただけの話。他人のストレス発散の犠牲になる筋合いを私は一切感じない。


「人はパンのみにて生くるものにあらず」

2020年06月05日 | 坊主の家計簿
海が見たかったので【GO東海】と銘打たれた三重県尾鷲市にある1泊2食付き税込6600円の民宿に宿泊中。「料理のボリュームが凄い!」と口コミに書いてあったけど、値段が値段だし期待して無かったけど、大振りの焼きカマス、魚とエビフライ、サザエや近海生マグロなどの刺身、そのどれもが定食でメインを張れるボリュームがあり、その他多くの小鉢系にスイカまであって「どないせえいうねん」と超満腹状態で、食後に2時間ほど寝てしまった…。まあ、明日は海見て帰るだけやし、今日みたいに眠たくなったら海辺で寝ればエエだけやし、別にエエか。

途中、メシ屋探しの意味も含めて寄った鳥羽が全く活気がなく壊滅状態だった。

この民宿のプランは【GO東海】だが、何やらGOTOキャンペーンも来月?から始まるらしい。過去にもあった復興割みたいなものなんだろう。
当然、批判もある。批判する事によって、様々な角度から物事を判断出来るから大切な事だが、「その予算を直接給付しろ」という、余りにも浅い批判もある。

GOTOキャンペーンがどのような内容になるのかは知らないが、復興割ならば宿代半額程度だった。ツアーもあったはず。
仮に宿代のみの半額程度だとしても、旅行好きとしては嬉しいに決まっている。そして、私みたいに名古屋までのガソリン代が300円程度というタバコ代よりも安い人は別として交通機関だったり、土産物屋、地元飲食店、漁業なども潤う。宿泊費が浮いた分だけ財布も緩む。結果的に、鳥羽市がどうかは不明だが、観光が主要産業の自治体が潤う。

当然、国が直接困っている自治体なり会社なりに支援する事もアリだが、言葉は悪いが「旅行に行ける程度に金持ってる連中から奪えばエエやん」がGOTOキャンペーンでは?金を持ってる連中に使って貰えば良い。

別にコロナ禍で全員が金銭面で苦労したわけではない。日経平均が大暴落した時に、各証券会社への新規口座申込み件数は物凄かった。故に今は大暴落前に近い水準まで回復している。当然、大暴落で売ってボロ儲けした人もいるだろうし、買って儲けた人もいる。ビビリの私も出遅れたし「チキンレースか?」という事でTOTOを100株しか買っていないけど、今回の旅行代程度は稼げている。
コロナ禍が一段落した医療関係者が「お疲れ様」でGOTOキャンペーンを利用したり、外出自粛要請で他府県に行けなかった人が、コロナ鬱からの気晴らしでGOTOキャンペーンを利用する事だろうし、費用対効果では大絶賛だろ。まあ、安倍政権がやる事ならば何でも反対の人には見えて来ない世界やね。

鳥羽市の活気の無さは異常で、活気がないと、どうしても暗くなる。暗くなると鬱になる人も出て来る。
緊急事態宣言は仕方が無かったのかも知れないけど、客から「ありがとう」と言って貰える事が何よりの楽しみという商売人は多いはず。そんな、生きる喜びも殺したのが、緊急事態宣言だった。だったら、殺した相手に、より多くの「ありがとうを届けよう」と意味もGOTOキャンペーンにはあるのでは?
飲食店にも適用されるみたいだし、旅行には行けなくとも、「ありがとう」を伝える事は出来る。ちゃんと食べて、相手の顔を見ての「ありがとう」という言葉の重みを、GOTOキャンペーンで「金を配れば良いやろ!」という人たちは忘れていないか?「人はパンのみにて生くるものにあらず」という言葉を忘れていないか?

サンキュー・ブッダ

2020年06月03日 | 坊主の家計簿

リハビリ・ツーリング途中に寄ったコンビニトイレに映し出された私は、単なる疲れた中年オヤジだった。


と、石を投げたら簡単に見つかりそうな安っぽい小説に書かれてあるような事を書いてみる。でも、確か私は「実年齢より見た目が若い」という事も1つのセールスポイントだったけど、もうダメになったみたい。

そして、寝てるか座椅子に座っているかの生活の中で弱り切った腹筋のせいか、たった50キロ程度走った辺りで腰が痛くなる。


阪神大震災&地下鉄サリン事件の年以来の名古屋市円頓本町にある「とんやき・上野屋」は大瓶750円という西成ならば暴動が起きるような価格だった。まあ、上野屋目的で来たワケだし、とんやきも無茶苦茶美味しかったから別にエエけど、以前に来た時には「ビールが高かった」という印象が無かっただけに少し残念。


太閤通り近くにある一泊2500円バイク駐車料金無料のホテルにチェックインするまで時間が余ったので、津島に行く。さすがは織田家の天下取りに大貢献した商人の町だけあって、大きな屋敷が今もあったりする。それほど観光地化されて居ない町並みを見ながら、「先祖伝来の金持ちはエエのお」と煩悩がムクムクと出て来た。


画像は、名古屋にも当然ある夕焼け。ホテル近くの居酒屋でシメの一杯は呑んだけど、上野屋を出て、ホテルまでの約30分程度の道のりを歩いていた中で見た夕焼け。


実家は貧乏自慢出来る程の家でもなく、単なる大阪下町にある、極々あり触れた家。ただ、両親共に大谷派であり、実家にはケッタイな姉ちゃんが御参りに来ていた。


私の所属寺も大谷派。実家とは無関係に運動からみで知り合った住職の寺。でも、実家が大谷派でなく、また、ケッタイな姉ちゃんが御参りに来てなければ、僧侶資格を取る事もなく、大谷派を選ぶ事も無かったかも知れない。


そう考えると、津島の先祖が努力した金持ちの家に生まれる事は無かったが、私の先祖だったり、私を取り巻く人たちの先祖も散々努力して来た結果として、今の私がある事に気付く。

「愚痴おおく、あさましく」「ねたみ、うらみ、そねみ」の塊のまま、それでも堂々と生きている私が、ここに居る。


南無阿弥陀佛を「サンキュー・ブッダ」と訳した人がいるけど、うん、ありがとう。





人間を舐めるな!

2020年06月02日 | 坊主の家計簿
「佛教ではこういうんですよ」には一切従う気は無いが「私はこう思うんですよ」だったら、当たり前ながら考え、迷う。当然、佛教が国家だろうと、何だろうと同じ。人間を舐めるな。





臨床

2020年06月02日 | 坊主の家計簿






吉村知事って、並行世界から散々デマを流している人たちと違って物凄く優秀だと思うねんけど、ツルツルやねん。人間なんて論理で生きられへんねん。松井&橋下が「俺らの世代は喧嘩ばっかりして」と吉村知事を評価してたけど、論理もクソもなく喧嘩する大事さがあるやろ。

「体罰アカン」のは当たり前やろ。でも、殴ってしまう所に、論理を超えた限界から来るものがあるやろ。


これは別に大阪維新だけの話ではなく、今現状進行形の、生身の人間を離れた「論理」、それは宗教でも思想でも何でもエエわ。「カルト」にハマるな、っちゅうねん。実在に立て。


以下、オマケ。



【無免許で単車を乗り回しては事故をおこして罰金を出して、それでも学校に居つかんちゅうのがおって、それに対して部落研の生徒が、「お前、今度単車に乗ったらしばき上げんぞ!」と、こう言うわけです。こういう言葉にこめられている、ほんとうの人間の温かさというものが、実は、なかなか感じとれないんです。】(河田光夫『親鸞と被差別民衆』より)



【「あってはならない」ものが「ある」のは社会が悪い。そういう社会として成り立たせている仕組みが悪い。だから、仕組みを変え、社会を変えなければならない。そういうことだったろう。これのどこが悪いといわれるかもしれないが、私はあえて異を唱えたい。「あってはならない」ものが「ある」という、そもそもの発想が逆立ちしていると思うのだ。こういう発想においては、「あってはならない」という正しい理念をもった自分がいて、そこからまちがった現実が見下されている。それは、プラス・マイナスの符号をつけるところが違っていたり反対だったりするだけで、いてはならないやつらを社会から一掃しようという平沼的思想と基本的に同じである。】(宮崎学『近代の奈落』240~241頁より)