坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

民衆自治

2020年11月23日 | 坊主の家計簿
大阪は一向一揆の街であり、民衆自治の土徳がある。故にコロナ感染者数トップを維新の功績にする連中を見ると「うわ!奴隷や!」としか思わん。恐らく奴隷根性が染み込んでいて「個」を無視した発想しか出来ないのであろう。

我が大阪のトップは明日にはまた東京に抜かれるかも知れないが、民衆自治の力でコロナでの死者率は全国平均値より高くなったとしても自殺率やその他の病気で「あれ?大阪ってトータルでみたら死亡率低くねぇ?」になればエエだけの話。ストレスでの体調不良や発ガンは今年や来年だけの話ではない。

ええかげん

2020年11月23日 | 坊主の家計簿

我が大阪が東京を抜いて全国トップ!(コロナ感染者)いや〜長かった。関ヶ原から400年以上の屈辱が晴らされた記念すべき日やね。

という話は置いといて、大阪人は「ええかげん」っちゅう特徴があって、え〜と「コロナ飽きた」というのが正直な感想でんな。その分、10月の自殺者数は全国平均約40%増の中で106→116に増えただけであり、9月は昨年より少なかったりする。ストレスでも人間、病気になるし、死にまんねんで。知っとるけ?


死にたくなったら

2020年11月22日 | 坊主の家計簿

死にたくなった理由が経済的な問題だった場合は、税金使って友達と花見していた自民などの歴代政権与党や、ホテルニューオータニでは一切の割引がないと叫んでいた無能な立憲民主や、ストレスでは人間は死なないと思っているサイコパスな共産の議員たちも、税金で生活しているという事を思い出して生活保護を申請すれば良い。


また、死にたくなった理由が自信を無くしたのならば、住民投票という市民の権利を「税金の無駄遣い」という低脳で傲慢な連中でも平気な顔して生きている事を思い出せば良い。


私の時間

2020年09月23日 | 坊主の家計簿
竹中先生は口癖のように「世間では」と言っていた。そして、その後に「しかし仏法では」と続く。

昨日、気張って外出したせいか、今日はスペシャル・ヘナヘナモード。さっきようやく自販機にコーラを買いに行っただけ。まあ、毎度の事だし「ま、いっか」と。

Facebookのコメ欄で訓覇信雄の話が少し出た。「真宗同朋会運動は純粋なる信仰運動である」とは、確か訓覇信雄の言葉。でも、それも世間の事。聞法会も世間の事。報恩講も世間の事。
仏法って、話でも物語でもない。私が生きている事。

今年は報恩講を自粛する所もあるのだろうか?でも、それは世間としての報恩講であって、報恩講って、そんな安っぽいものじゃないと思う。中止になったならば、コロナ禍での私の報恩講をすれば良いだけである。別に読経が必要でも、法話が必要でもない。教えに出会う事が報恩講。

昨日、近くの商店街で山本太郎を見た。自転車に乗ってゆっくり走っていたら前から派手な色をした数人が歩いていた。「山本太郎」という旗を持っていたけど、誰も近寄って行かなかったし、まさか本人だと思わなかったら、まさかの本人だった。意外と小さいのね。何を訴えていたのか知らないけど、目があったから、政治家らしく向こうが会釈をした。
一応、政治家になる前は年収1000万程度は稼いでいたであろう中堅の脇役俳優。恐らく当時だったら、関西が地元だという事もあって、「ファンなんです。握手して下さい」だったり、スマホで写真を撮られていたかも知れない。でも、私が見ていた間では誰も相手にして居なかった。色々と失敗が続いている事もあって、小さく見えたのかも知れない。でも、そんな事は本人にとってはどうでも良いのだろう。それこそ「世間では」という事なんだろう。彼が選んだ道を彼が歩いているだけ。

部屋から出ないと、私の部屋に詳しくなる。それは誰も評価してくれないだろう。部屋にあるアクリルのシーツがチクチクする事を、私はよく知っていて、多くを経験している。送風になっているエアコンが段々とタバコ臭くなっている事を私は良く知っている。私の頭が血が出そうなくらいに痛い事も私は良く知っている。私は私という時間を多く過ごしている。
そして、それが「嫌だ」と感じる事も数多く経験した。その経験は誰にも認められる事はない、ただ、私は他の誰よりもその事を経験している。

世間では、世間的価値がある人が人気がある。当たり前の話である。今の山本太郎は人気が無くなったのかも知れない。
私も、数多くのマスコミに取り上げられた事もある。アメリカのTIMEという雑誌にも名前が載った事がある。でも今は人気がない所か、部屋から出れずにいたりする。でも、仏法では、当たり前ながら対等である。

竹中先生は、私たち専修学院生に対して、卒業して先輩たちから難しい話をされて「そんな事も知らんのか?」などとバカにされた時には「それがどうした?』というと良いですよ」などと言っていた。それが「世間では」と「仏法では」という事。

今日も一日、私は私の時間を過ごした。それは世間では虚しく映るのかも知れない。私も充実した人を見たりすると「いいなぁ〜」と思ったりする。でも、それは煩悩。「思う心はみな自力」なんぞと言った人が居たが、自力から離れる事なんぞ出来っこないから煩悩が出て来る。愚痴が出て来る。愚痴、煩悩に流されずに、それは世間の事であり、「私は仏法に生きるのだ。南無阿弥陀佛するものだ」と。誰から見離されても、見捨てられても、仏法だけは確かに私に生きている。仏法は、ここに存在する。

子どもは危険

2020年08月17日 | 坊主の家計簿
調子が良く身体が動くと共に感受性も動いて来た。
さっきスーパーの店内で3才ぐらいの子が「これ食べたい」とダダを捏ねているのを見て、精神的にクソ滅入る。頭も痛くなって、とりあえず次の診察日には薬を強くして貰う決意をする。
とはいえ、今日をなんとかしないといけないし、酒も呑めない。故に、どっちが身体に悪いのか知らんけど、クソ甘いココアをガブ飲みしつつ、甘いものを沢山食べてます。

今日書いた事

2020年07月26日 | 坊主の家計簿
「困った人ではなく、困っている人」という言葉を最近ネットで見た。元知的障がい者施設職員としては当たり前の話。

ふと、植松氏が私受持の利用者だと想像する。彼を「困った人」というのならば、私は施設職員として失格だ。

四年前に書いた事

2020年07月26日 | 坊主の家計簿


 この写真は知的障がい者施設で働く私の腕である。以前も書いたが私の腕は比較的綺麗な方であって、例えば4月から来た新人さんの腕は私の十倍以上の引っ掻き傷がある。
 なぜこの様な傷が出来るかというと、一番最近出来た傷は突然引っ掻かれたが、一番多いパターンは、暴れ出した利用者さんが他の利用者さんに振るう暴力の盾になるから。言葉や促しや、手を引っ張ったりしてよそに行ってくれる人はイイのだが、向かって来る利用者さんが居たり、全く動こうとしない利用者さんが居た場合は盾になって利用者さんを暴力から守らないといけない。
 暴れる利用者さんを抑え込む事を「身体拘束」というが、この身体拘束は基本、「やってはいけない事」になっている。言い方を変えると、簡単にしてはいけない事である。「あ、暴れたな。身体拘束ね。」は虐待に繋がる。身体拘束の中には居室に閉じ込めるという事も入る。障がい者虐待防止法では緊急時の場合は許されるらしいが、まあ、ほぼ、全ての施設で隔離は行っていないのではないかと思われる。それよりも、「盾になれ」と。
 昔、知的障がい者は座敷牢に閉じ込められていた。その事によって他人への暴力は阻止出来る。「でも、それって人間としてオカシイやん。」からの流れで今の施設があるわけであって、故に全国各地の知的障がい者施設で働く人たちの多くは盾になって利用者さんからの暴力を日々当然の事として受けている。ある意味、金銭を受け取っているが故に人権がないのが私の様な末端の施設職員である。

 今日起った悲惨な事件の施設も私が働く施設と同じく最重度の知的障がい者を受け入れているらしい。故に、容疑者の彼も恐らく毎日の様に叩かれ引っ掻かれ噛み付かれ等の暴力を受けていただろう。

 施設職員と利用者さんとの間には、当然、人間と人間なので相性がある。例えば、今日もある先輩がトイレ誘導しても小便が出なかったが、直後に私がトイレ誘導すると出る。そんなもんだ。先輩後輩関係なく。
容疑者の彼はどうだったのだろうか?養護学校の教員を目指していたという情報もある事から察するに当初は熱い気持ちで施設職員になったのではないのだろうか?だが、利用者さんとの関係が思い通りに行かなくて苦しんでいたのではないだろうか?そして、その分だけ散々暴力を受けたのではないだろうか?そういう日々のストレスの積み重ねが、彼を容疑者にしてしまってのではないだろうか?

 彼が衆議院議長に送った手紙の中に「施設で働いている職員の生気の欠けた瞳」とあるが、それは彼自身の事ではないのか?
 彼の手紙の中には施設に居た利用者さんや保護者への愛も感じられる。ただ、その愛の形が利用者さんや保護者にとっては「大きな迷惑」以外の何物でもなかった。

 オウム真理教のテロ事件も彼らの宗教観の中では慈悲の行動であった。ただ、被害者にとっては大きなお世話の大迷惑でしかなかった。
 安楽死なんかとんでもない。だが、彼を追い詰めた恐らく大きな要因である最重度の知的障がい者施設で安月給で働く労働者が毎日どれ程の暴力を利用者さんの人権を護る為に受けているのか?彼を一方的な「悪魔」とし、死刑という安楽死をされるのではなく、彼の苦しみの一端でも理解しようとするべきではないのだろうか?

 今日の仕事は9時45分からだった。8時30分から始まる朝の引継ぎには当然出る事が出来なかったが、引継ぎでもその話題で持ちきりだったそうだ。私みたいな一年に満たない新米職員でも同じ現場、かつ、元とはいえ同じ施設職員が起こしたであろう大量殺人であるが故に大きな衝撃を受けている。上司になればなる程、職員教育の事も含めて大きな衝撃を受けているだろう。

 だが、これだけ大きな事件にも関わらず、この事件はすぐに忘れさられそうな気がする。
 名前も顔写真も出ない(出せない)犠牲者。顔を見る事、名前を見る事によって感情移入出来る部分が多々あり、性別と年齢という記号でしか出て来ない。19人という記号でしか出て来ない。まあ、これは今後ジャーナリストが名前や写真は親族がイヤがるプライバシーの侵害に当たるとしても、個別にどういう人であったのか?が出て来るだろう。ただ、それを読むのは、少数か。非常に残念だが、殺された被害者は「施設内」の人であったが故に、「私たちとは違う」という意識もどこかであるだろう。それは、殺人事件を起して「施設内」で殺される(死刑)人たちに対する意識とリンクする。

 明日は早番で7時出勤。一番の暴れん坊は切れ痔で御機嫌ナナメで、明日も多分暴れるのだろう。そして、多分、叩かれるのだろう。
 障がい者は、社会的に問題になるが故にただ単なる「個性」とは呼ばれずに「障がい者」と呼ばれ、その中でも家族も含めた地域社会だけでは面倒が見切れないような「厄介者(あえて)」であるが故に施設に入り、そして、私の生活が成り立っている。私の生活にとっての大切な、顔の見える「お陰様」である。
 だが、正直、一番の暴れん坊が帰省して居ない日の仕事は、もう、それだけで仕事の疲れが半分になる。当然他にも「迷惑(あえて)」な利用者さんが多くいるが、彼が居ないだけで、本当、楽になる。でも、それって、ある意味、その利用者さんの安楽死を願っているわけだ。

 南無阿弥陀仏。

 容疑者の彼のツイッター、2015年6月9日のツイートに「尊敬する人、阿弥陀如来君」とある。
 私は容疑者の彼が起こした事件によって、自分の支援の在り方、心持の在り方を慚愧する。お陰様を踏み躙るような私でしかない。それが故に、明日からの支援の力になる。正直、馴れてしまって雑になっている部分も多々ある。が、「んじゃ、共に生きるって何よ。縁起って、何よ」と。ごめんなさい、と。

 容疑者の彼はこれから恐らく一生涯隔離される。隔離されている中で、彼から「ごめんなさい」と聞けるのだろうか?いや、それは彼の人権を蹂躙している。今も彼の心の奥底では悲鳴を上げているのだろう。

人が考える事

2020年07月24日 | 坊主の家計簿
優生思想って、

・人助けする人は貴い。
・どんな苦しい困難や病気や障害があっても生きている人は貴い。

的な事も優生思想に含めて考えないと魔境に陥ると思う。

言い方を変えると

・人を見捨てる人を穢れにしない。
・自暴自棄になったり、自殺する人を穢れにしない。

共に御縁だと思う。

雨に濡れる

2020年06月25日 | 坊主の家計簿
家賃支払いの為に不動産屋へ。ついでに少し離れた激安スーパーで買物してたら雨が降り出していた。外出時から降り出しそうだったから鞄の中から折畳み傘を取り出して、雨に濡れながら自転車で帰宅していたら、なんかこの「雨に濡れる」という感覚が懐かしく思えた。

最後の仕事は岩手県で寺の用務員だった。法務も少し手伝っていたけど、メインの仕事は朝からツナギ服を着て、草刈機なり、ナタとノコギリなどを腰に差して境内整備。最初から雨が降っていたらカッパを着ての作業。でも、カッパは暑いから「危ないかな?」程度ならツナギ服で作業。そして、家から離れた所での作業時に急に降り出すとズブ濡れになる。そんな屋外仕事。

坊さん時代は雨でも傘をさして自転車で御参りしていた。
工場などで働いていた時は職場まで自転車だったり。
そんな雨に濡れる。

抗うつ剤を飲み始めて9日目かな?効いて来るまで2週間程度かかるらしいから、まだ調子は変わらない。効いて来て、何とかなれば何かの仕事もしたいし、そうすると、また雨に濡れる。ズボンが濡れてピッチリしたりする、あのイヤな感覚。でも、今は懐かしい。働く為、生きる為に雨に濡れる。引き篭もらずに雨に濡れる。

抗うつ剤

2020年06月18日 | 坊主の家計簿
抗うつ剤というものを始めて飲むと眼がシャキーン!として落着きなくひたすら部屋掃除をするようなものだと思っていたら全然違って(当然冗談です)医師曰く「効果が出るまで1〜2週間かかります」との事で、昨晩から服薬を始めての今の感想としては、とりあえず眠い。けど、寝れない。あと、胃が重い。

診察?は、内科や歯科とは違って、社会に出てからの事を聞かれた。予想もして居なかったし、通院出来る程度には回復したとはいえ、頭がボケボケなので、「一番長い仕事は水商売」と言った後に、僧侶学校に行った事を話していたら「あ、そっちの方が長いです」と、無茶苦茶。まあ、向こうはプロだし、否定もせずに色々話す。収入の話になった時に「預金が無くなって行く事は不安では無いですか?」と聞かれたけど、「不安な時もありますが、今は、正直、もう、どうでもエエかな?と思います」的な話をした辺りで、診察?終了。とりあえず、睡眠薬は依存性があるから出さずに、薬を飲んで様子を見ましょう。との事。最後辺りにマスクを取ってニコッと笑った口が歯抜けで思い出したら笑いそうになるけど、笑いもせずに丁寧に丁寧に御礼を行って診察室を出る。でも、あの笑顔はプロやな。

一緒に診察室を出た医師が受付に診断書?を渡して支払いと次の予約。この病院しか電話しなかったけど、電話対応者が、一言ずつ、ゆっくり話している姿勢が気に入って通院したけど、次回予約時も「無理だったら変更して下さいね」という一言が物凄く楽だった。

これは何の病気でも同じかも知れないけど、うつ病も理解され難い。私は脳というものに興味があったり、精神医学に多少興味があったりしたから「気持ち」の問題でない事は理解していたけど、最新では

「過労やストレスからうつ病が発症する経緯を(1)過労などでHHV6が唾液に出る(2)嗅球に再感染し、SITH1を作る(3)SITH1によって嗅球や海馬などで脳細胞の状態が激変する(4)意欲減退などが起きる」
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/asahi/nation/ASN6F5VHZN65PPZB00D

という説もあるらしい。
当然、疲労やストレスを感じ易い個性、或いは感じ難い個性もそこにプラスされる。でも、結果としては「気持ち」の問題ではなく、脳の問題。
別な言い方をするならば、うつ病発症前は「気持ち」の問題だったかも知れないが、発症後は脳の問題になる。だから、動けなくなる。

多分、大谷派の仕事をする事もないだろうし、お金もかかるし、そろそろ大谷派僧侶資格を返そうと思っていたりする。でも、当然、信仰は捨てる気はない。お世話になった恩師や先輩たちも多くいるが故に今の私がある事は事実だし、だから「生きていられる」(by鈴木君代)だったりもする。

また、同時にうつ病に対する偏見や差別に対して「あなたは地獄を作っています」という事を伝える事も南無阿弥陀佛の現れ方の一つだと思う。当然、相手を「大人の喧嘩」で追い込むのではなく、

「恨みに依らず『悲しいね』と言えるかどうか。南無阿弥陀佛と言えるかどうか」(by鍵主先生)

という言葉も忘れずに、自己を正義としてしまいたい煩悩を見つめつつ、でも、偏見は偏見ですし。

寝込み始めて約2年半。ようやく服薬して、これがどれぐらい続くのなんて解らない。私は多分、軽度だと思われるが、重度の方は一生だった。でも、私に巡って来たこの業と、今は出会って行くしかない。