ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

中東の文学 ② ガッサーン・カナファーニーほか。

2020-01-10 | 雑読日記(古典からSFまで)





 話は中世から一挙に現代へ飛ぶ。ほんと、中東の文学については資料が乏しすぎるんで、どうしても粗くなっちゃうのである。


 2015(平成27)年に『サラバ!』で第152回直木賞を取った西加奈子さんは、親御さんの仕事の関係で誕生から2歳までをイランのテヘラン、小学1年から5年までをエジプトのカイロで過ごした。
 その西さんが、河出文庫から2017年に出たガッサーン・カナファーニーの短編集『ハイファに戻って/太陽の男たち』の解説を書いている。冒頭はこうだ。




 中東について知りたい、と思った。数年前だ。少しの間だけど自分が暮らしていた地域でもあるし、昨今のニュースを見て胸を痛めるたびに、まず彼らの感情を知らないことには何も理解出来ないと思った。
 そういうとき手に取りたくなるのは小説だ。
 もちろん優れたルポルタージュも海外のニュースも、私に「知る」手立てを教えてくれた、おそらくとても正確に。そしてそれは前述のように私の胸をこれ以上ないほど痛ませた。
 でも、何かを「知りたい」と思うとき、その「知る」が情報や知識だけではなく、芯のようなものに触れる感覚を求めているものであるとしたらなおさら、私は小説を読みたい。




 そう。小説ってのはまさしくそういうもので、或るひとつの文化圏について、そしてまた、その文化圏のなかで生きるひとりの人間について、「情報や知識だけではなく、芯のようなものに触れる感覚を求めて」知りたい! と切に感じたとき、そこで暮らす優れた作家の手になる小説を読むのは最良の手立てだと思う。




 文庫になったのはたった3年前だけど、著者のガッサーン・カナファーニー氏はとっくの昔にこの世の人ではない。1972(昭和47)年に亡くなっている。享年36歳。どのようにして亡くなったのかはあえてここには書かないが、「パレスチナ人」といえばおおよその見当はつくのではないか。興味がおありの向きは検索してみてください。ウィキにも項目が立ってます。




 ぼくがこのカナファーニーを知ったのはバブル華やかなりし頃、1980年代半ばのことである。創樹社という出版社から出ていた『現代アラブ文学選』の中に、代表作「ハイファに戻って」が収録されていた。級友のI君から借りたんだけど、そのとき彼には代わりにこっちから3冊貸した。わりと貴重な本だった。ぼくとしては「交換した」つもりでいたのだが、その後まもなくI君はやいのやいのとせっついて、『現代アラブ文学選』をぼくから取り返していった。ところがI君、こっちから貸した3冊のほうは一向に返そうとしない。何度催促してもむにゃむにゃと言うばかりであった。いかんなあ。そういうとこだぞI君。このブログ読んでたら返しなさい。
 とはいえI君、貸してくれる際、「どれも凄ぇが、とくにこのカナファニちゅうのがごっついからのう、とりあえずお前、このカナファニだけは読んどけや。」と推していたから、その慧眼は誉むべきである(じっさいにはこんな喋り方ではなかったが)。
 『現代アラブ文学選』の初版は1974年で、ぼくが借りたのはその版だが、1988年に重版がかかり、そのとき自分で買い直した。重版がかかったのは、収録作家のひとりエジプトのナギーブ・マフフーズ(1911 明治44 ~ 2006 平成18)がノーベル賞を取ったからである。エジプト初のみならず、アラブ圏初の快挙であった。しかしもしカナファーニー存命なりせば、彼もまた候補に挙がったことは間違いない。
 野間宏の責任編集になる『現代アラブ文学選』は、中東うんぬんを別にしても、一冊の文芸アンソロジーとして今読んでも面白い。資料として、目次を書き写しておきましょう。






序 現代アラブ文学の胎動 : 『現代アラブ文学選』に寄せて / 野間宏


小説
呪文 / ムハンマッド・ディーブ著 ; 木島始, 荒木のり訳
さそり / アブドゥッ・ラフマーン・アッ・シャルカーウィー著 ; 谷正則訳
彼女の新年 / ミハイール・ヌアイマ著 ; 池田修訳
靴直し / ユースフ・アッ・シバーイー著 ; 木島始, 荒木のり訳
狂気の独白 / ナジーブ・マフフーズ著 ; 塙治夫訳
すばらしい旅 / ユースフ・アッ・シバーイー著 ; 木島始, 荒木のり訳
クッファじいさん / イブラーヒーム・アブドゥル・カーディル・アル・マーズィニー著 ; 池田修訳
ハイファに戻って / ガッサーン・カナファーニー著 ; 奴田原睦明訳


戯曲
狂いの川 / タウフィーク・アル・ハキーム著 ; 堀内勝訳



われらの問題と月の探検 / アブドゥール・カリーム・アン・ナーイム著 ; 高良留美子訳
静かな恐れの歌 / マフムード・アル・ブライカーン著 ; 木島始訳
ぼくの国の人民 / サラーフ・アブド・アッ・サブール著 ; 中本清子, 中本信幸訳
タタール人どもが攻めてきた / サラーフ・アブド・アッ・サブール著 ; 中本清子, 中本信幸訳
パレスチナの恋人 / マフムード・ダルウィーシュ著 ; 池田修訳
黒猫たち / アブドゥル・ワッハーブ・アル・バヤーティー著 ; 関根謙司訳
ぼくは君たちに言った / アドニス著 ; 高良留美子訳
ある老いたイメージの章 / アドニス著 ; 高良留美子訳
聴いてくれ、ぼくはきみを呼ぶ / マーリク・ハッダード著 ; 中本清子, 中本信幸訳


評論
アラブ小説の新世代 / ガーリー・シュクリー著 ; 菊池章一訳
アラブ文学遺産のヨーロッパ文学に及ぼした衝撃 / アフマッド・ハイカル著 ; 木島始, 荒木のり訳
現代のアラブ詩人-自由への三つの状況 / アドニス著 ; 菊池章一, 関根謙司訳
民衆のための文学 / サラーマ・ムーサー著 ; 池田修訳
占領下パレスチナにおける抵抗文学 / ガッサーン・カナファーニー著 ; 奴田原睦明, 高良留美子訳


紹介・解説
アラブ現代詩の歩み / 池田修
アラブ現代散文文学の諸潮流 / 関根謙司
現代アラブ文学の紹介をめぐって / 竹内泰宏




 同じころ、河出書房新社から「現代アラブ小説全集」なるシリーズ企画も出た。ついでにこちらもコピペしておこう。






アフリカの夏
ディブ 著 篠田 浩一郎/中島 弘二 訳
百年余の植民地主義がもたらした無気力と停滞。アラブ的時間のなかで徐々に熟してくる変化――アルジェリア革命をその内部から表現し、北アフリカの生活と風土を斬新な手法で描く!巻末論文=野間宏




阿片と鞭
ムールード マムリ (著), 菊池 章一 (翻訳)
7年にわたるアルジェリア独立戦争をFLN兵士たちの運命をとおして描く。極限状況におかれたアルジェリア人の苦悩にひしがれた生活、闘いと魂の深奥が劇的構成で示される!巻末論文=金石範




オリエントからの小鳥
ハキーム 著 堀内 勝 訳
パリ滞在中のアラブ青年とフランス娘の恋――理論偏重の西欧からイスラム的心性への回帰をうったえ、ラディカルに西欧文明を批判するハキームの代表作。巻末論文=いいだもも




北へ遷りゆく時/ゼーンの結婚
サーレフ 著 黒田 寿郎/高井 清仁 訳
北に象徴される西欧への憧憬と、南に象徴されるアフリカ的野性の葛藤。白人女性を渉猟する主人公サイードの漂泊、その形而上的な死から再生へ。故郷喪失の精神が葛藤を超えて回帰する!巻末論文=小田実




不幸の樹
ターハー・フセイン (著), 池田 修 (翻訳)
家の中に〈不幸の樹〉を植えることになると、息子の結婚に反対して逝った母――ハーレド一家三代の歴史をたどりながら、19世紀末から20世紀初頭にかけてのエジプト社会の変遷を描く。巻末論文=高史明




海に帰る鳥
バラカート 著 高井 清仁/関根 謙司 訳
1967年の6日戦争に直面したアラブ人。「さまよえるオランダ人」のような祖国パレスチナ。性と死、性と政治、戦慄と流浪――主人公ラムズィーの苦悩をとおして6日戦争を詩的に表現する!




大地
シャルカーウィー 著 奴田原 睦明 訳
エジプトの農村社会に焦点を合わせ、悪政で名高いシドキー政権下に生きる農民の姿を、生活慣習や風俗とともに真正面から大胆に描きあげた問題小説。エジプト現代文学の代表作。巻末論文=竹内泰宏




太陽の男たち/ハイファに戻って
ガッサーン・カナファーニー 著 黒田 寿郎/奴田原 睦明 訳
パレスチナの終わることなき悲劇にむきあうための原点。20年ぶりに再会した親子の中にパレスチナ/イスラエルの苦悩を凝縮させた「ハイファに戻って」、密入国を試みる難民たちのおそるべき末路に時代の運命を象徴させた「太陽の男たち」など、世界文学史上に不滅の光を放つ名作群。




バイナル・カスライン 上下
ナギーブ・マフフーズ (著), 塙 治夫 (翻訳)
カイロ旧市街、バイナル・カスライン通りに住むアフマド一家の日々と激動する社会を緊密な構成で描くアラブ近代文学の最高傑作!




 つまり文庫版の『ハイファに戻って/太陽の男たち』は、このシリーズの中からほぼ30年ぶりに甦ったわけである。






 なお、大学書林というところから、『対訳 現代アラブ文学選』なるアンソロジーが1995年に出ている。生憎こちらは手に取ったこともないが、収録作品リストはこうなっている。




はしがき
あの匂い  スヌアッラー・イブラヒーム
ハミースが先に死ぬ  アリー・ゼーン・アーブディン
塩の町  アブドル・ラフマーン・ムニーフ
女王の来訪  マムドーフ・アドワーン
監獄の手紙  アブドル・ラティーフ・ラアビー
アッカーの難民キャンプへ行く  ラドワー・アーシュール
憲章  ガマール・アブドル・ナーセル


 「対訳」とのことなので、アラビア語を学ぶテキストも兼ねているのだろう。


 カナファーニーの文庫化は喜ばしいが、あれから30年あまりを経て、かの地の激動は収まらぬどころかより複雑となり、ぼくたちが中東を知る必要性もいっそう増してるはずなのに、アラブ現代文学の紹介はまったく進んでいない。グローバリズムグローバリズムといいながら、その内実がいかに偏ったものかが知れる。
 とりあえず、『ハイファに戻って/太陽の男たち』を読んでみませんか。定価880円+税。おなかの底にズシンと来ますよ。












中東の文学 ① ペルシャの詩人たち

2020-01-09 | 雑読日記(古典からSFまで)
ハーフィズ。画像はウィキペディアより拝借


 たいそうなサブタイをつけたが、中東の文学について何ほどのことを知っているわけでもない。いつものとおり思いつくままの漫談でござる。
 鈴木紘司氏の『イスラームの常識がわかる小辞典』(PHP新書 2004)にはこう書かれている。


「『千夜一夜物語(アラビアンナイト)は19世紀からヨーロッパでもてはやされ、日本でもアラビア文学の代表作と思われているが、アラビア文学の中での地位は極めて低いのが真相である。それはアラビア詩をはじめ、膨大な文献と資料をもつアラブ文学の世界には、奥深いイスラーム文学が目白押しに存在するからであり、その中でペルシャ・インド的な要素を含み、非イスラーム的な習慣がかいま見える昔話は評価されない。』


 『アラビアンナイト』を持て囃すのはヨーロッパ人の東洋趣味のあらわれで、イスラーム圏での評価は低い、という話はよそでも目にした覚えがあるが、民衆レベルではそんなことなくて、「愛読」というより飲食店などで語り部によって「愛誦」され、客たちが楽し気に耳を傾けている、という話も一方で聞いたことがある。ぼくは現地に行ったことがないからどのみち明言はできないが、あれだけ面白いんだから(それこそ「物語の宝庫」というべきものだ)、暮らしの中に息づいていても不思議じゃない。
 とはいえ、「アラビア詩をはじめ、膨大な文献と資料をもつアラブ文学の世界には、奥深いイスラーム文学が目白押しに存在する」のは事実だし、つけ加えれば、ぼくらがそういったものにほとんど馴染みがないのも事実である。


 そもそも、先の引用の中の「ペルシャ・インド的な要素を含み」に引っかかった人もいるのではないか。インドはともかく、ペルシャが混じってなんでダメなの?そういうのまとめてアラブじゃないの?とか思った方はいませんか。ペルシャとはざっくり言って今のイランのことだけれども、これは「中東」であり「イスラーム圏」ではあっても「アラブ」ではない。語族も違えば歴史も違う。そんな基礎的なことさえも、うっかりしてると、あやふやだったりする。


 イスラーム文化は豊穣にして奥深い。哲学・思想の面でも先鋭にして深遠な学者を輩出したし、優れた詩人も多く出た。ただ、歴史上高名な詩人となると、「アラブ」よりも「ペルシャ」のほうにどうしても目がいく。岩波文庫から選詩集が出ているアブー・ヌワース(762 天平宝字6~ 813 弘仁4)みたいなユニークな詩人もアラブ系にはいたけれど、なんといってもペルシャには、ハーフィズとオマル・ハイヤームという凄い人たちがいるからだ。


『ルバイヤート  RUBA'IYAT』
オマル・ハイヤーム 'Umar Khaiyam
小川亮作訳


青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000288/files/1760_23850.html


 この小川亮作さんのまえがきにこうある。

 詩聖ゲーテはその有名な『西東詩集』の中で、人も知るごとく、ペルシア語の原文さえも引用して、古きイランの詩人たちを推称した。彼は言った――「ペルシア人は五世紀間の数多い詩人の中で、特筆に値する詩人としてわずかに七人の名しか挙げないと言われている。しかし彼らが斥ける残余の詩人の中にさえも、私などよりは遙かに傑れた人々がたくさんいるのにちがいない」と。自負心の強いこの詩人にしてこの言をなした、もって傾倒のほどが知られよう。

 ぼくのほうから敷衍しておくと、ゲーテが心酔したのはハーフィズ(ハーフェズとも表記。1325/1326~1389/1390)のほうで、このハイヤーム(1048~1131)のことは(おそらく当時まだ未紹介だったため)知らなかったのである。
 それで、

 もしも彼にしてハーフェズの創作上の先師であったオマル・ハイヤームを知っていたならば、この東方に深く憧れた詩人の『西東詩集』には、さらに色濃いオマル的な懐疑の色調が加えられたかも知れない。

 
 と、小川さんは附言しておられる。

 この「まえがき」をちょっとスクロールすると出てくる、


もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きてなやみのほか得るところ何があったか?


自分が来て宇宙になんの益があったか?
また行けばとて格別変化があったか?


 といった詩篇を見れば、小川さんのいう「オマル的な懐疑」の何たるかがよくわかるであろう。ちなみにワタシ、この内向的な感じけっこう好きですが。


 いっぽうハーフィズの詩の邦訳は、あるにはあるが、今のところ文庫サイズのお手頃価格では手に入らない。むろん青空文庫にもない。
 ものの本によると、
「宮廷詩人であると共に神秘主義者でもあったため、抒情詩を神秘主義的に表現している。」
 とのことで、
「そこでは酒、酒杯、拝火教徒、美女、恋人などは表面上の意味のほかに神の愛、神の唯一性、神の啓示、神そのものを意味し、たとえばもっとも有名な詩の開句、


 もしシーラーズの美女がわが心を受け入れるなら、その黒きほくろに代えて、われは与えん、サマルカンドもブハーラーも、酌人よ、残れる酒を与えよ、天国においてもルクナーバードの流れとムサッラーの花園は得られぬだろう。


 ……は、神と詩人との関係の表現とも解される。」そうだ。




 なお世界文学最高峰の文豪(のひとり)ゲーテが『西東詩集』のなかでハーフィズを讃えた詩句は以下のとおり。




よしや全世界が陥没しようとも
ハーフィズよ 君を 君をひとり
競いの友にしよう 双生児のぼくら
苦しみはひとつ 楽しみもひとつ
恋も酒も ぼくは 君のさまで
ぼくの誇り ぼくの命 この生き方が




 ここまで惚れこむってのは並大抵ではなく、たんに思想上の共鳴とか技巧のうまさへの感銘といったことでは説明がつかぬ気がする。やはり「神」のことが関わってくるんじゃないかと思うんだけど、かんじんのハーフィズさんを読んでないから、今のところぼくのほうからはこれ以上のことは何もいえない。





『スター☆トゥインクルプリキュア』第46話 前回記事の補正・蛇神必ずしも邪神に非ず。

2020-01-06 | プリキュア・シリーズ


akiさんからのコメント
2020/01/06
蛇神、ナーガ、八岐大蛇


 ダークネスト様、男っぽい合成音声が女性声に変化した辺りから、「おっ!」と思いましたよ。鮮やかに予測的中ですね。(^^)


 元蛇遣い座のプリンセスにどんな絶望があったのかは次回以降のお楽しみというところでしょうが、まあちと身も蓋もないことを言うと、現在の宇宙物理学では、この宇宙は膨張と共に冷えていき、やがて各恒星はそのエネルギー源である核融合の材料を使い果たして(つまり軽い水素などの物質がなくなってしまう)、ブラックホールを除いて宇宙は暗黒の空間となり、やがてそのブラックホールもエネルギーを放出し尽くして消滅し、宇宙は真の暗黒世界となる、と推測されています。プリンセス、気長に待ってりゃ願いは叶うのにw


 まあそうなるまでには10の何十乗年という気の遠くなるような長い時間が必要ですが。さらにこの宇宙にはまだ解明されてないダークエネルギーの存在が予測されてますので、それら未知の力がどんな振る舞いをするのかも全く分かっていません。実は「宇宙が冷え切る」ことはないのかもしれない。創造神たるプリンセスであればその辺は判っているでしょうから、「こんなんやったら壊したれ!」と思ったのかもしれませんけどね。


 それと、彼女が身にまとっている蛇ですが、八岐大蛇との解釈は妥当だと私も思うんですが、実は世界には、純粋に神聖な存在として蛇を崇めている例も結構あるんですよ。
 例えば中国古代の「三皇五帝」の「三皇」に数えられる伏羲と女媧は「蛇身人首」の神ですし、インドの神話では「ナーガ」と呼ばれる蛇神が複数登場します。日本でも白蛇が祀られた神社が多数ありますし、蛇が脱皮した後の抜け殻は「ラッキーアイテム」としても知られています。wikiで調べてみると、ギリシャ神話でもヘルメスやアスクレピオスが持っている杖に蛇の姿が意匠されており、(アスクレピオスはまさに「蛇使い座」の主人ですがw) 蛇は神性を持った生き物として見られていたことが判ります。
 キリスト教では、イブを誘惑して知恵の実を食べさせたのが蛇ということになっていて、蛇と言えば悪魔の化身と見なされますが、この蛇も実は堕天使ルシファーだと見る説もあるそうですね。とすると、元は神聖なる存在であった蛇遣い座のプリンセスが、なんらかの理由で堕天(≒スターパレスから去る)した結果、禍々しい邪神となって現れてしまった、という結果を表すために「蛇」というモチーフはうってつけである、とも言えそうです。


 さらに彼女が憎んでおられる想像力についても、突っ込もうと思えば突っ込めるんだけど、さすがにそこまでやるのは野暮てなもんですね。まずは彼女の言い分を聞いてみないことにはw
 というわけで、次回も楽しみにしたいと思います。・・・・今回は意地悪なツッコミコメントになっちゃいました。(笑)




☆☆☆☆☆

ぼくからのご返事。




(旧)蛇遣い座のプリンセス。「すべて消し去る。」と言い切った時の目。いっちゃってますね


侮蔑


嘲り。たまりませんね






 今回たまたま記名欄が空白だったんですが、文体と内容ですぐakiさんだと確信できるのがすごい(笑)。
 いやプリキュアのラスボスは数あれど、いくらなんでも「創造神(の一柱)にして破壊神を兼ねる」ほどの傑物は前代未聞なんで、コーフンしてしまいました。さすが宇宙を舞台に据えるだけあるわー。
 本来であれば、いっけん「正義」にみえる「星空連合」の艦隊と、いっけん「邪」にみえるノットレイダー軍とが、いずれも「歪んだイマジネーション」に囚われた同じ立場に過ぎないことを見切って、「みんなみんな、同じ宇宙に住む宇宙人でしょ!」と割って入るキュアスターの器のでかさを取り上げるべきなんだろうけど、蛇遣いさんの存在感と、あとアイワーンちゃんの可愛らしさに思考の大半をもってかれちゃって(笑)。
 宇宙の末期については、ぼくは長らく「ようするにエントロピーが増大して熱的死でしょ?」と思ってたんですが、近ごろの理論ではそんなシンプルな話でもないらしく、いまいち理解が及んでないです。リサ・ランドールの本をちょこっと齧りかけたんだけど、「えっこれって何のSF?」みたいな感じで、近年稀にみる珍紛漢紛でしたねえ(もちろん、ランドールさんが悪いんじゃなく、こっちの頭がザルなんですが)。
 そのあたりのことは、このたびのコメントの中の「ダークエネルギー」と関わってくるんじゃないかと思うんだけど、これはこれで大変な話になるんで、宇宙の件はいずれまた何かの折につっこみを入れて戴くとしまして、今回はなんといっても蛇ですよ蛇。


 そうそう。中国神話の伏羲と女媧ですね。こういう話を補足としてつっこんで頂けるからありがたい。兄妹とも夫婦ともいわれ、いずれも下半身が蛇体で、絡み合った姿でよく描かれる。龍もそうだけど、中国では蛇体のものを聖化する傾向がありますね。
 「上半身が人間で下半身が蛇」というビジュアルは面白いと思ったんで、まえに調べたんですが、ギリシア神話の「アテーナイの初代の王ケクロプス」、同じくアテーナイ王の「エリクトニオス」という人(正確には半神ですが)たちがそれに該当するようです。ほかには残念ながら見当たりませんでした。いや別に残念ってこともないけど。
 中村光のギャグマンガ『聖☆おにいさん』で、何かにつけてブッダに絡む「かまってちゃん」のマーラがこの姿で描かれるんだけど、仏典には特にそう明記されてるわけではなく、これは「ナーガ」を模して中村さんがそのようにキャラ設定したみたいですね。
 コメントにもあったそのナーガですけども、ウィキ先輩の記述には、
「上半身を人間の姿で表し、下半身を蛇として描く構図を用いる例もあるようだが、一般的なものではなく、経典等の記述においては、コブラなかんずくインドコブラ自体の容姿を思わせる記述としてあり、インドや南伝仏教圏においては純粋に蛇として描かれることの方が多い。東南アジアのインド文化圏では、頭が7つある姿が多い。(……略……)釈迦が悟りを開く時に守護したとされ、仏教に竜王として取り入れられて以来、仏法の守護神となっている。特に法華経の会座に列した八大竜王は有名で、その多くがもとはインド神話でも有名なナーガの王(ナーガラージャ Nāga Raja)であった。」
 とありました。たしかに蛇神ナーガは、けっして負の存在ではなく、釈迦を守護するものとして仏教にも取り入れられたわけで。
 日本だと、仰るとおり、白蛇をご神体とする神社がたくさんあるし(うちの実家のそばの神社にも、楠の大樹にシロヘビが棲んでいて、よく拝みに行きました)、何といっても三輪山の大物主神というお名前どおりの大物がいらっしゃいます。
 崇拝の対象ということでは、アステカ神話の文化神・農耕神たるケツァルコアトル。この方はテスカトリポカと並ぶ二大主柱ですが、「羽毛を持つ蛇」の姿で描かれることが多い。ほかにもおられるんだろうけど、いま思いつくのはこれくらいかなあ。


 そう。ギリシア神話の医学の神・アスクレピオスはまさに「へびつかい座」ご本人ですね。いやご本人ってのも変か。この方は蛇の巻き付いた杖を自らの象徴として手にしており、この「蛇杖」は今日でも医療・医術のシンボルマークとして世界的に広く用いられているとか。そこはさっきウィキ先輩から教わったばかりですが。
 みんな知ってるメデューサとか、ヘラクレスに退治されちゃうヒュドラとか、ギリシア神話には「蛇」が否定的に扱われるケースも多いけど、いっぽうでは上記のケクロプスやエリクトニオス、それにこのアスクレピオスさんの例もあって。

 総じていえば、蛇は「原初の根源的な宇宙の力」をあらわすのでしょう。そこから「再生を司るもの」にもなる。だからアスクレピオスはその力を借りて死者をすら蘇らせてしまう。そこで冥界の王ハデスがゼウスに苦情を言い、人間同士の相互扶助を快く思わないゼウスが(どうもこの主神は料簡が狭いように思います)雷霆で彼を殺める。のちにそれを反省し、天界にあげて神々の列に加え、星座にするという流れですね。
 「原初の根源的な途轍もない力」ってことでいえば、北欧神話のヨルムンガンド、そのまま劇画(アニメ)のタイトルにもなりましたけど(好きな作品です)、これは世界を取り巻くほどの大蛇ですね。たしかケルト神話にクロウ・クルワッハというのもいたかな。似たようなイメージは他の神話にもあるんじゃないかと思うけど、正直ちょっと気色わるいんで(笑)、なかなか調べにくいです。でも、こういった大蛇のイメージが、底知れぬ力としての「蛇」に対する人類の畏怖を端的にあらわしてると思います。

 問題は、いや問題ってこともないけど、やっぱりキリスト教なんですが、こちらはなにぶん厳格なる一神教なんで、断じて他に神を認めない。それで、本来ならば「大いなる力」「再生を司るもの」の具現化として、文化圏によっては聖性をもったり、崇められたりもする「蛇」のイメージが貶められて、「悪魔」になったり、「禍々しきもの」にもなってしまう。それで、キリスト教を奉じてるわけでもないのに、イメージ論的には明らかにその影響下にあるぼくたちも、ついそんな感覚で見てしまうのかもしれません。
 大蛇(ドラゴン。竜)にしても、聖人としての英雄によって退治されるていどの怪物に矮小化されちゃうし。


 知恵の実の林檎をイブに食べさせた蛇は、あの手の「大蛇」とはまた別系統かな。絵画では、人間めいた顔もあって、手足もついてて、ヘビってよりも大きめの人面トカゲみたく描かれることも多いですが。
 劇場版まどか☆マギカ『叛逆の物語』で、自分が魔女化したことを悟って絶望した暁美ほむらが自らを紫色の蜥蜴(とかげ)に仮託する場面があるけど、あれってほんとは「蛇」じゃないかと思うんですよね。



 そのあと何やかんやあって、ようやく円環の理としてのまどかが迎えに来てくれたとき、ほむらは口からソウルジェムを吐き出し、それを噛み砕いて別のもの(ダークオーブ)に再構成しちゃう。




 ある種の蛇は口から卵を産む。との俗信がありまして、あのエピソードはそれをなぞってるようにも思えます。「蛇」だったらロコツすぎるんで「蜥蜴」にしたけど、結局は同じことなんじゃないか。いずれにせよ「悪魔」のシンボルでしょう。
 旧約聖書に出てくるあの蛇は、「人間を神の言いつけに背かせた。」点で「悪」と見なされるけれど、見方を変えれば、「神が無垢(愚か)なままに留めおこうとした人間に知性を授けた。」ともいえる。それが不幸の始まりといやあ、そうなんだけど、恩人っちゃあ恩人ですよね。
 それで、聖書に基づく「キリスト教的神話体系」みたいなものが作られていく過程において、堕天使ルシファーと同一視されたりもして、だんだんと話がフクザツに、つまりは面白くなってくわけですが。


 有名な神秘主義者ルドルフ・シュタイナー(1861 文久1 ~ 1925 大正14)は、ルシファーのことを、「悪の二大原理の一つ」と裁断し、「その影響によって人間は能動性と自由意志を獲得したが、同時にそれは悪の契機となった。」と論じている……とウィキペディアには書かれてますけど、ぼくの知ってる限りでは、シュタイナーはそこまでシンプルな言い方はしてないです。でも、シュタイナー氏の言説は控えめに言って「ぶっ飛んでる」んで、それくらい要約しちゃっても仕方ないかな……とも思います(怒る人は怒るでしょうけど)。
 もう少しこちら側に近い人だと、ニーチェが『善悪の彼岸』の中でこう述べてます。
「悪魔は神にたいしてもっとも広大な視野をもっている。だから悪魔は、神からはるかに身を遠ざけているのだ。――すなわち悪魔こそ、もっとも古くからの認識の友である。」(ちくま学芸文庫版・134ページ)
 ぼくとしては、このフレーズが、「叛逆」における「再改編後」の世界でのほむらの立ち位置にダブって、泣けてくるんですが(苦笑)。大好きなまどかから、無理して身を遠ざけちゃってね……。
 いずれにせよ、「絶対者」としての「唯一神」と、それに従うだけの「人間たち」……という構図だったら、きっと世界は動かないし、物語も動かない。そこに「悪魔」が介在してこそ、森羅万象に息が吹き込まれるのではないか……と思うわけです。


 こう考えていくと、ここにきて満を持して登場した蛇遣い姫はその禍々しき容姿からして、さらには「スタプリという物語を終結へと向けて推進するもの」として、まごうかたなき堂々たる「悪魔」といっていいはずですが、しかしよくよく推察すると、ひょっとしてこの方は、結果としては「神」に、それも「唯一神」になろうとしているのか……という気もします。
 本作は「イマジネーション」という用語(概念)にすべてを収斂させてますが、それはすなわち上記の引用に即して言い換えるなら、人間のもつ「能動性」であり「自由意志」でしょう。それがあるから人間は……というか、宇宙における知的生命体はみんな不幸になっているのだと、蛇遣いさんは信じてるんだと思います。だからそれを「忌々しい」と切り捨てる。
 すべての生命体が「能動性」や「自由意志」を……「想像力」を持たない宇宙のなかでは、「憎しみ」や「悲しみ」や「争い」もない。それこそが望むべき世界のありようなのだと、どうやら彼女は信じているのではないか。
 これはぜひ、ひかるたちのほうから彼女に訊いてもらいたい……それこそ「小一時間問い詰めて」もらいたいところですけども、今のところ、ぼくはそのように憶測しています。
 でも、そのために、いったんすべてをご破算にして、一から創り直そうというんだから、ほんとに桁が違いますよね(笑)。たまりません。「そこにシビれる、憧れる~」というやつで、これ元ネタ知らないんだけど、使い方あってますよね?
 なんかあれこれ書きましたけど、とにかくもう、蛇遣い姫さん、「サブカル&神話好き」にとっては美味しすぎるキャラなんで、あと3話、児童向けファンタジーアニメの臨界点ぎりぎりいっぱいまで、「哲学的」にひかるたちとバトル&問答を繰り広げていただきたいです。その顛末によってはほんとこれ、ぼくのなかでの「プリキュアシリーズ最高傑作」になるでしょうね。









『スター☆トゥインクルプリキュア』第46話「ダークネスト降臨!スターパレスの攻防」

2020-01-05 | プリキュア・シリーズ


何を置いてもこの画像だけは外せない。アイワーンの「デレ」顔



それともちろんこの人。ついに正体をあらわした「(旧)蛇遣い座のプリンセス」



この貫禄。今作における「悪」の表象を一身に担う勢い



 日本は正月休みでも、世界情勢は容赦なく動く。googleニュースのトップは、にわかに不穏さを増す中東の地のこと。宗教(宗派)、民族、路線、さまざまな不安定要因が十重二十重に絡み合う火薬庫のような情況のなかに、アメリカが燃え盛る松明(たいまつ)を投じた……という印象。いや勉強不足で詳しいことは知らないんだけど、予断を許さぬ事態だろうなとは思います。もともとぼくは心配性だし。
 そんな折でも日曜の朝8時半になると滞りなくプリキュアさんがはじまることはきっと幸福なのでしょう。アニメーションは平和と豊かさのもたらす果実(戦時中にも国策アニメが作られてたとか、制作現場はブラックだとか、そんな話はいったん脇に置いといて)。だとすれば、とりあえず今は、そのたわわな果実を味わうことにいたしましょう。



 最終決戦の始まりというより、その除幕というべき回でしたね。しかし宇宙空間を舞台に善と悪とが壮絶な戦いを演じるとなると、どうしてもこれは、もはや「メロドラマ」では収まらず、ぼくの大好きな例のほらあれ、そう「神話」ってことになっちゃうんだけど。
 ダークネストの正体は蛇遣い座(EDテロップにはこう表記されていた)のプリンセスで正解だったけど、彼女はスターパレスに「入れなかった」のでも「追い出された」のでもなく、自らの意志で信念をもってそこから「去った」とのこと。この違いはでかい。
 蛇という存在はほとんどすべての民族の神話において「禍々しきもの」と捉えられていて、ぼくの知るかぎり例外はネイティブ・アメリカン(いわゆるインディアン)やアフリカ、あとオーストラリアとか、そのくらいじゃないかと。これも掘っていけばキリのない話題ですけど。
 この女神様があやつるのは、ただの蛇じゃなくヒュドラ(多頭蛇)ですね。どう見ても邪まですな。蛇神であり邪神です。なるほどたしかに、鬼と河童と天狗と一つ目小僧なんだから、八岐大蛇のイメージが重ね合わされてもいるのでしょう。深いです。なんというか、民俗学的に、深い。


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 CVを務める園崎未恵さんの公式コメントです。


ダークネスト・へびつかい座のプリンセス役:園崎未恵さんから公式コメント到着!
https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1578131411


(一部を引用)

(へびつかい座は)12星座のホロスコープが誕生した当時には黄道からは外れていた星座で、地球の自転軸の傾きで太陽が通るようになって、新しい星占いといったような形である時期登場しましたが、あまり世の中には馴染まなかったといういわくのある星座です。

実はダークネスト初登場の際に「ダークネストの正体はへびつかい座のプリンセスです。」と早々に衝撃の説明を受けてしまい、ダークネストは“ダークネストという存在”だと思っていたわたしは、びっくりしてしばらく言葉を失ってしまったのですが、へびつかい座のプリンセスが何故そうなったのか、イマジネーションの力をどうして忌々しいと思っているのか、お話を聞くにつれ、星座占いでのへびつかい座や、わたしの中で推察された“ダークネストの部下たちの姿が日本の妖怪を模して描かれている理由”が、今回のシリーズの根幹のテーマ『多様性』に一気に結びついて、ざあッと鳥肌が立ってしまったのを覚えています。


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 そうですね。ぼくだって、「正体はへびつかい座だよね。」と早くに予測はしてたけど、いざこうやってご本人に登場されると「おおっ。」となりましたからね。ついにユニに対してデレちゃったアイワーンはじめ、ほかにも見どころ満載だったのに、なんか蛇遣いさんにばっかり目がいってたという。


 台詞がまたよくってね。


「我は、蛇遣い座のプリンセス。かつてはそう呼ばれていた。」
「我は、奴ら(12星座のプリンセスたち)とともにこの宇宙をつくった。だが、忌々しき想像力が蔓延るこの宇宙は、完全なる失敗作。よって、すべて消し去る。」
「本気で宇宙を乗っ取れるとでも? 見捨てられし日陰者たちが、おこがましい。」
「儀式により、大いなる闇を広げる。 (大いなる……闇?) 鈍いな。あの闇は我の力だ。(あの……ブラックホールが……)」()内はガルオウガ氏による合いの手。




 ブラックホール。この用語が一般にいきわたったのは1970年代くらいからじゃないかなあ。アニメでも漫画でもSF調のものなら必ずといっていいほど出てきた。「光さえ吸い込む」ということで、何もかもを虚無の底に飲み込んでしまう破滅の代名詞みたいに使われたけれど、最近の理論ではまた別の見方も出ているらしい。いずれにしても、「飲み込まれたら只では済まない。少なくとも現状を保ったままではいられない」のは間違いないようですが。




「忌々しき想像力が蔓延るこの宇宙は、完全なる失敗作。よって、すべて消し去る。」
 なんなんだろう。まったく訳がわからない。大丈夫かこの人。中2なのか。いやこの無茶苦茶さがたまらない。久々に痺れるキャラに会いました。神話好きにとっちゃ、このキャラはあまりに美味しすぎるよ。
 「すべて消し去る。」つってんだから、破壊神でもあるわけですね。それも破壊しっ放しってんじゃなく、「失敗作」をいったん壊して再創造するつもりなんだから、さながらシヴァ神に近い立ち位置なんだ。その方が「想像力」を激しく憎んでおられる。理由はまだわからないけれど。
 これはもう、今作の根幹テーマが「イマジネーション」だからね。そこに全編の命運がかかってくるのは当然ですが。
 だんだんと帰趨が見えてきました。これまでの数多の経験を踏まえ、それぞれの課題を乗り越えて成長を果たし、ついにカッパード、テンジョウ、ガルオウガ、アイワーンと和解を果たしたプリキュア勢が、奪われし「希望の象徴」フワを奪還すべく彼女のもとに乗り込む。
 そこで「イマジネーションの力」の真価を、その素晴らしさを、この蛇神=邪神=破壊神に知らしめることができれば「勝ち」なんだけど、さて、そのプロセスがどれほどの説得力をもって描かれるのか。そもそも彼女は、なぜ想像力を「忌々しい」と断ずるのか。まずは話はそこからですが。
 来週も楽しみです。


 訂正) コメントでもご指摘がありましたが、文中の「蛇という存在はほとんどすべての民族の神話において「禍々しきもの」と捉えられていて」というくだりは勇み足で、正確とは言えません。詳しくはこの次の記事「前回記事の補正・蛇神必ずしも邪神に非ず。」や、1月12日の記事「『スター☆トゥインクルプリキュア』第47話「フワを救え!消えゆく宇宙と大いなる闇!」考察。」をご参照ください。









プレヴェール詩集。

2020-01-03 | 雑読日記(古典からSFまで)

 本日は本のご紹介。




 歌とアコーディオンの姉妹ユニット、チャラン・ポ・ランタンの『フランスかぶれ』で、

(略)
天気がいい日だよん
自転車こぎ出すよん
枯葉の道行く私はそう
フランスかぶれだよん


代々木公園だよん
プレヴェールを読むよん
(略)
固いパン食べるよん
イヤホンからピアフだよん
(略)
アメリを観てから髪型は
パッツンオカッパよん


 と歌われるジャック・プレヴェール(1900 明治33 ~ 1977 昭和52)。これ、「ランボーを読むよん」だったら気障すぎるし、「ボードレール読むよん」だったら退廃的だし、「ドゥルーズを読むよん」だったらマニアックすぎてちょっと何言ってるんだかわからないし、じつに絶妙のチョイスなんだけど、じっさいこのプレヴェールくらい、ふだんぼくたちの話してるようなふつうのことばだけを使って「詩」をつくるひとは古今東西ほかにはいない(追記。21.05.14  ここ訂正します。金子みすゞがいましたね)。
 谷川俊太郎さんが若い頃からこのプレヴェールのファンで、谷川さんといえば平易なことばで深い詩をつくる詩人として知られているけれど、その谷川さんの作品ですら、プレヴェールと並べたらまだ「現代詩」くさく見えてしまう。それほどのもんなんである。




参考)
谷川俊太郎インタビュー「王と鳥」とジャック・プレヴェールの詩的世界 - 映画『王と鳥』公式サイト
http://www.ghibli-museum.jp/outotori/special/np05/





 こちらのサイトにもあるように、プレヴェール氏は詩人であると共に映画の脚本家/シャンソンの作詞家でもあり、前者としては映画史上のベストワンじゃないか?とまでいわれる『天井桟敷の人々』、高畑勲・宮崎駿両氏にも大きな影響を与えたアニメ『王と鳥』(かつての邦題は『やぶにらみの暴君』)で知られ、後者としては上の歌詞にも出たエディット・ピアフの『枯葉』で知られる。よほど世情に通じてなきゃ、そんな仕事は残せまい。
 日本語訳としては小笠原豊樹さん(詩人としては岩田宏の筆名で知られる)のものが有名で、1956年にユリイカから出た訳詩集が版元を変えて何度か復刊されたんだけど、長らく絶版になっていた。それが2017年、七編の詩と、『枯葉』の歌詞と、小笠原・谷川両氏の解説を追加のうえ、岩波文庫に入った。840円+税。
 そのなかから、ぼくが気に入った詩句を抜粋。




天にましますわれらの父よ
天にとどまりたまえ
われらは地上にのこります
地上はときどきうつくしい
(われらの父よ)より




一週間のどの日でも
冬でも 秋でも
パリの空へ
工場の煙突が吐き出す煙はいつも灰いろ


でも春はやってくる 耳たぶに花びらを飾り
きれいなむすめを腕にかかえて
ひまわり ひまわり
それは花の名 むすめの渾名
(ひまわり)より




貧乏がおふくろ 酒場がおやじ
ゆりかごまがいの 抽斗(ひきだし)でそだてて
はだかのぼくらを 川に溺らす
(結構なくらし)より




怒りやさげすみ わらいやそねみ
恋する二人にはだれもみえない
夜より遠く 昼より高く
二人はいまや
目くるめく初恋の光のなか。
(恋する二人)より




ぼくはどうせ規格はずれ
あんたがたの戦争の小径で
ぼくの平和の煙管を
ふかすよ
おこらなくてもいいでしょう
灰皿をよこせたぁ言わないから。
(練兵場にて)より




ロバと王様とわたし
あしたはみんな死ぬ
ロバは飢えて
王様は退屈で
わたしは恋で
時は五月
(五月の歌)より



 まだまだあるけど、これくらいにしておきましょう。もっと物騒なのもあるけど、あまり新春からそういうのもどうかと思って、わりと穏やかそうなのを選びました。それでも、ユーモラスで瀟洒な響きの中に漂う一抹の剣呑さ。みたいなものは伺えるんじゃないでしょうか。「書けそうでいて絶対書けない。(たぶん)」という見本みたいな詩ではないかと思います。




謹賀新年。

2020-01-01 | プリキュア・シリーズ

 あけましておめでとうございます。
 新年早々お詫びというのもどんなものかと思うんだけど、これだけは書いておかねばなりますまい。
 前回の記事にて、「あるブログにコメントを投稿したのに、削除されてしまった。」という愚痴をマクラに振ったんですけども、これは完全なるぼくの早とちりでした。
 ブログの仕様はサービス会社ごとに異なっていて、そちらのばあいは、このgooブログとは異なり、コメントを送った直後に一時的に全文が表示されるんですね。そして、いったんページを閉じると、情報が更新される。
 それで、次にページを開いた際には、送ったコメントが見えなくなっている。
 ブログ主さんからの承認を受けると、再び全文が表示されるんだけど、ぼくはそれまでの間に当該ページをみて、「削除されちゃった。」と勘違いしたわけです。
 ぼくみたいにそそっかしい人は滅多にいないだろうけど、同じような勘違いが起きることが皆無とは言えないと思うので、ひとつの事例として書いておきます。
 昨日、そのブログ主さんから直接コメントをいただきました。eminusというハンドルネームからここを探し当ててくださったそうで、丁重なお詫びの言葉に重ねて、ぼくの記事についての感想まで書かれてあり、「こちらこそ失礼なことを」と、たいへん痛み入った次第です。
 すぐにこちらからもブログを訪ねたところ、ぼくのコメントは再表示され、ていねいな返信コメントも添えてありました。
 「大みそかのお忙しい時に、お手間とご心労をおかけして申し訳ありません。」と再度コメントを投稿しておきましたが、この場を借りて、あらためてお詫びいたします。申し訳ありませんでした。
 akiさんからは、『「この人なら……」と見込んだ人が予想外の人でがっかりするより、自分の想い違いだった方がずっといいと思います。』と慰めのコメントをいただき、そのとおりなんだけど、今回のばあいは、早とちりそのもの以上に、その旨をブログに書いてアップしちゃったことが最大の反省材料ですね。私的な日記に綴ったんならまだしも……。
 なんにせよ、最低でも1週間くらいは待ってみて然るべきところでした。いかにブログの仕様に不案内だとはいえ、いろいろな可能性があるわけだから。
 というわけで、今年のモットーは「自重」です。「癇性」ともいうべき根っからの性急さを戒め、軽挙妄動を慎むことに努めたいと思います。
 前回の記事は、前半部分を削って、村上春樹さんにかんするところだけ残しました。なんか『1984年』の話が取ってつけたみたいになってますけど、これはまた、直せるときに直しときます。
(このあと、晩になってから、『1984年』のくだりを削って全面的に改稿しました。)

 それで、まあ、こんなことの後では、なんとなく気が引けるんだけど、ほんとに素敵なんで、そのブログをご紹介させていただきましょう。
 「金色の昼下がり」さんです。『不思議の国のアリス』の巻頭を飾る詩篇から取られているのでしょうか。
 アドレスは、

 とかく「メロドラマ」だの「影(シャドウ)」だのと、物語論の枠組みに当てはめがちなぼくとは違って、プリキュアシリーズそのものへの愛に満ちた緻密で楽しい考察が繰り広げられています。
 ぼくが見つけたのは、たしか12月の半ばくらいだったけど、「こんなブログがあるんなら、ぼかぁもうスタプリのこと書かなくていいかな。」と思いましたね正直なところ。だけど、いちおうそこは、自分には自分なりの書き方もあるか……と思い直して、あと一ヶ月、最終話まで付き合ってみることに致します。


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 akiさんからは昨日2本のコメントをいただき、それぞれ、漢籍からの引用がキーになってました。
 ひとつは、「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。」
 これはさすがにわかります。『論語』ですね。でもそれ以上はわからないので(昔いちおう通読したけど、ほぼ忘れている)、調べてみると、
「子罕(しかん)第九」が出典でした。金谷治・訳注の岩波文庫版では「三十」、貝塚茂樹・訳注の中公文庫版では「二十九」になってますけども。
 こうやって、頂いたコメントをきっかけに、腐海の底に沈んだ書物を引っ張り出して、いわば知識の「煤払い」ができる。これもまたコメントの功徳の一つかなあと。
 もうひとつが、周の武王(殷の紂王を討って王朝を開いた中国古代の聖王)が、殷との最終決戦となった「牧野の戦い」で、左手に黄鉞(こうえつ)を杖として臨んだ、という半ば伝説のような故事。
 これは私、まったく知らなかったので、ネットで検索してみると、『史記』が出典なんですね。
 鉞(えつ)とは斧の大きなもので、天子が将軍に征討を命ずる時そのしるしとして授ける。天子が自ら征討に赴くときは、黄金で飾った鉞を用いる。それがすなわち黄鉞とのこと。
 『史記』は8冊セットの全訳がちくま学芸文庫で出てますが、あいにく書店で手に取ったこともない。横山光輝氏のものをはじめ、古代中国を舞台にしたエンタメは数あれど、そちらのほうにも疎い。あ。ひとつだけ例外があった。『蒼天航路』。これはもうほとんど座右の書で、何度読み返したかわからぬほどだけど、三国志なんで、ずっと時代は新しくなります。
 『スタートゥインクル☆プリキュア』のキュアスターこと星奈ひかるが、つねに決め技の「スターパンチ」を利き腕ならざる左手で打ち、両膝をついたカッパードには右手を差し伸べる……というくだりから、先の武王の「左手に黄鉞」の故事を連想した、との趣旨のコメントだったんですが、このように、現代サブカルの粋を尽くした児童向けファンタジーアニメと、遥か古代の異国の故事とが、その本質において通底してしまうところが、「物語」の醍醐味であり、ひいては人類の「文化」の豊かさだなあ……と思いました。
 本年も「物語」や「文学」を軸に、思いつくまま綴っていきます。よろしくお願いいたします。