40話のラストにおいて、まどかの父「内閣府宇宙開発特別捜査局局長」の香久矢冬貴氏はついにララが異星人であるとの確証を得る(気を失っていたため、実の娘が仲間と共に変身して日々戦ってることまでは気づいてないし、そもそも害意を持った宇宙人の一団が定期的に襲来しているのも知らぬのだが)。
いっぽう「2年3組」の級友たちはすべてを知った。知ってしまった。「プリキュアの身バレ」ってのは当然ながら大変なイベントであり、例年であれば最終話かその間際にくる。今作は異例である。「異質な他者を受け容れる」というテーマを、ひかるたちメイン・メンバーのみならず、クラスの面々にも共有させるための構成であろう。ララに関しては「異星人バレ」と「プリキュアバレ」が一挙にきたわけだが、いずれにせよここまで常識を超えたことならば、小出しにするよりいっそこのほうが良かったろうね。
ひかる、及び、えれな、まどか両先輩も覚悟のうえで巻き添えを食った格好だけど、このあとに訪れる友愛ムードが、下らぬ懸念を吹き飛ばす。2年3組、まことに良い子が揃っている。校舎全体の窓ガラスのうち半分強が割れっぱなしだったぼくの母校とは大違いである。
プリキュア勢が一戦交えて敵を退け、校庭が夕日に染まるなか、目覚めた冬貴はララに詰め寄る。そこに、2年3組のクラスメートが一丸となってララの弁護に回るのだ。
「ララさんは異星人などではありません。私たちのクラスメートです!」
理屈をいえば、「たとえ異星人であっても」というのが正しい論法なんだろうけど、これは冬貴が「異星人=まるで言葉の通じない、排除すべき他者」と決め込んでいるから、こんな言い方になるわけである。
さらに、娘のまどかが眦(まなじり)を決して、「皆さんの言うとおりです。ララは、わたくしたちの友人です!」と真っ向から対峙する。「あっ」と息を呑み、「まどか……」と絶句したところから、冬貴の受けたショックが伺える。彼にとってはこれが、娘からの初めての反抗なのだろう。
ここでいったんシーンが切れて、わずかに時間が跳ぶ。どうやら冬貴はすごすご退散したらしい。エンディングは、夕日の中でのララとクラスのみんなとの麗しき和解のシーンである。
この前段としてはもちろん、クラスメートたちが猜疑心に捕らわれてララを疎外するシークエンスがあったわけだが、陰影を強調したライティングや、ララの孤独を際立たせるロングショットなどにより、かなり緊迫感のある画面に仕上がっていた。悲しみに沈んだララがひとり図書館で(地球に来た頃、彼女にとって本はアナログ媒体でしかなかったが、ひかるの影響もあって、今は読書好きになっている)涙をこぼし、そこにやってきたひかるが、やはり涙をこぼしながら、「違うよ……異星人とか、地球人とか、関係ないよ……だって、ララは……ララだもん……」と言いながら後ろからララを抱きしめる、というシークエンスもあり(ララは照れて「苦しいルン」といい、真に受けたひかるはすぐに離れてしまうが)、「ひかララ」の結びつきの強さを再認させて、「みらリコ」を思い起こした視聴者も多かったのではないか。
年端もいかぬ子供さんたちがそんなところにまで追い込まれたのは、冬貴氏がララを名指しで「あの子が学校に来るようになってから、なにかおかしなことはなかったか?」と聞いて回ったからである。それはいくらなんでも配慮を欠いたやり方じゃないかという意見もあろうし、いくら思い当たる節があったにせよ、それまでの親密さからいきなり手のひらを返す2年3組の皆さんもどうよ?という声も一部には上がっていたようだけど、これは以前に述べた「メロドラマ」の法則どおりなのだ。つまり、
(2)すべての人物が、つねに劇的な、誇張された行動をとる。
(5)日常生活のなかで起きるドラマを美学化する。どんな出来事も、さまざまな手法を駆使して「崇高」なものに仕立てる。
といった定跡に則っているわけだ。
だから級友たちは、それまでの親密さからいきなり猜疑/不信へと至り、ララの真情にふれることによって今度は一挙に「親密」を超えて「友愛」の域にまで至る。このジェットコースターのような振幅の激しさこそが「メロドラマ」であり、そこが視聴者の感動を呼ぶ。いってみれば冬貴は、そのシチュエーションを準備せんがため、軽率な振る舞いをするよう脚本家によって強いられたわけである。
これはけっして貶めてるんじゃなくて、べつに児童向けファンタジーアニメならずとも、創作物には付いて回ることである。つまり、お話の都合のためにワリを食うキャラクターというのは必ずいて、今作においてはまさに冬貴氏がそれなのだ。
「ララ回」である40話は、とうぜんそのまま「まどか回」としての41話へと接続する。夕日で終わった40話が、まどかのシンボルである「月」を浮かべた41話の夜のシーンへと繋がるところが心憎い。こういった濃やかな演出が、プリキュアシリーズを、ただの児童向けアニメを超えて大人の鑑賞に堪えうるものへと昇華しているわけだが。
それはそれとして、冬貴パパの株は引き続き下がりっぱなしである。双方にとってショッキングだったあの一件のあと、父娘が交わす会話はこうだ。
「なぜですか。なぜ……何もおっしゃらないのですか。」
「羽衣ララ君のことか。もういい。調査の結果、異星人だという確たる証拠は出なかった。宇宙開発特別捜査局。そこで成果を上げ、中央に返り咲こうとしたが、裏目に出た。調査の権限も失った。もはや異星人のことはいい。
上から調査しろと言われていたからしたまでだ。異星人を排除しろとといわれればそうするし、友好関係を築けといわれれば友となる。言われたとおり動く。私は香久矢のためにずっとそうしてきた。おまえを導いてきた判断は誤りではないと確信している。
もうすぐロンドンへ留学だ。彼女たちとも、それで終いだ。すべて、私に任せればいい。」
(このやり取りはここではなく、月明かりに照らされた応接室で行われるのだが、画像がないので代わりにこれを貼っておく)
おいおい、という感じである。ここで説明くさい長台詞を吐かされるところが既にして苦しいのだが、その内容がまたひどい。「宇宙開発特別捜査局局長」の地位は要職どころか閑職だった。それでもまだ信念をもって働いていたのなら立派だけども、「上から調査しろと言われていたからしたまで」「言われたとおり動く」とは一体どういうことであろうか。これではただの事なかれ主義ではないですか。あとに残るのはただ、「香久矢(家)のため」という一事のみである。
ぼくは最初、「まどかがララと深い親交を結んでいるのがわかったから、娘を守るため上には虚偽の報告をしたのか……」とも推測したのだが、しかし考えてみるとそれはそれで大事(おおごと)であり、たんなる職務怠慢どころか虚偽報告で罪にさえ問われかねない。といって、もし本当に「なんかややこしくなってきたからもういいや。」とばかりに当面の職を投げ出したのなら、これもまた無責任な話である。
同じ地球の中でさえ、他の国に移動する時はパスポートがいるし、滞在するにはビザがいる。検疫だって通らなければならないのだ。友好だ敵対だのという以前に、もし仮に異星人が身近に居たら、とりあえず然るべき筋に報告するのは、これはもう義務というべきものだろう。いかにも自由人といった趣のひかるの父ならまだいいが(ほんとはよくないんだろうけど)、どのような理由があれ、国家公務員がそこを疎かにするのは無理がある。
というわけで、ここにきて、社会人としての冬貴氏はずいぶんと矮小化されてしまった(いつの間にやら部下もいなくなり、ずっと一人で動いてるし)。すべては、冬貴を「社会(的規範)」の代表たる「父」として描いてはならぬ故である。つまり、この連載の02「父との葛藤」で述べたとおり、ファンタジーたるプリキュアシリーズにおいて(ここではもう児童向けかどうかは関係がない)、「社会」を導入するのはご法度なのだ。世界が崩壊しちまうのである。だから冬貴の格をぐっと下げざるを得なかった。
本作における冬貴の役割は、ぼくが当初予期したような「社会(的規範)」の代表ではなく、「代々続いた家格を守るべく、組織の歯車となって自らを滅して生きる」勤め人のモデルでしかなかった。今作のテーマに即していえば、それは「なりたい自分」を想定できる「イマジネーション」を欠いた存在だ。まどかはキュアセレーネに変身し、敵陣の猛者・魁偉な青鬼の姿をもつ巨漢ガルオウガとの死闘を繰り広げる中で、そんな父の姿と、「悪の帝王に身を捧げて自分を滅した」ガルオウガの姿とを二重写しに見て、「トゥインクル・イマジネーション」を獲得し、ガルオウガを打ち破る。それは同時に父からの自立でもあった。
バトルパートと日常パートとの熱い共鳴はプリキュアシリーズの醍醐味で、だから41話も40話に引き続き名編に仕上がってはいたが、いずれにしてもプリキュアたちの真の敵はいつだってファンタジー世界にしか居ないのである。つまりは観念の領域にしか居ない。「地球人とわかりあえる」と信じるララには、かつて移民との水争いによって故郷を追われたカッパードが「なにを甘ったれたことを言っている。」と立ちはだかるし、笑顔こそが最高のコミュニケーション・ツールと信じるえれなに対しては、「笑顔なんてぜんぶ虚飾よ。」と憎々しげにテンジョウが吐き捨てる。
まどかもまた、「内閣府宇宙開発特別捜査局局長」という社会的規範としての父に抗ったわけではない。家を守るため「ただの組織の歯車」に成り下がった父親の像を、さらにまたガルオウガに投影し、それに打ち勝ったのだった。
プリキュアシリーズは素晴らしい。そして、その素晴らしさゆえに、ファンタジーの限界をくっきりと浮き彫りにして見せてくれもする。
プリキュアシリーズは素晴らしい。そして、その素晴らしさゆえに、ファンタジーの限界をくっきりと浮き彫りにして見せてくれもする。