これはぼくが20代の終わりに書い(て純文芸誌の新人賞に送って落ち)た「小説」の一部です。ほかのブログにアップしてましたが、アンナ・カリーナさんの訃報に接して、こちらに転載いたします。
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「探偵」はマイクを片手に街をうろつき、誰彼かまわずインタヴューして回る。目星をつけた相手に片っ端からだ。相手が男性だろうと、女性だろうと、忙しそうだろうと短気そうだろうと関係ない。直感が、「こいつからは面白い話が聞きだせそうだぞ。」と告げればそれに従うのみ。ところで、彼の直観はまるで当てにはならない(これ探偵として大丈夫なのか?)。だからよく警察に通報されるし、時には殴られたりもする。しかし稀に、ほんとうにもう、ごくごく稀に、対話が成立することもある。これはその僥倖というべき成功例を採録したものである。前置きここまで。
◎探偵が次に選んだ相手は「日曜作家」だ。それはかつてない長尺インタヴューとなった。中身はともかく、とりあえず長さにおいては、もっともうまく運んだ対話に違いない。理由は単純。ようするに相手が暇人で、自分のこと(より正確にいえば自分の小説のこと)を語りたくて語りたくて仕方のない男だったからである。しかも探偵は、彼の難解な(より正確にいえば意味不明な)作品に事前に目を通し、面妖なことに、そこそこ感銘を受けていた(!)。だから自ずと熱も入ったわけである。インタヴューは、ある晴れた金曜日、街路に面したオープン・カフェの一隅で行われた。
――あるいはそれが戦略なのかと疑いたくなるほどの無邪気さで、あなたはご自分の作品すべてにおいてゴダールの影響を隠そうとしません。だからあなたの作品について訊くことは、とりもなおさずゴダールについてのあなたの考えを伺うことになるかと思うのですが……。
「ええ、事の起こりはゴダールでした……20歳のときに『マリア』を映画館で観て……あとにも先にも、あれに匹敵する衝撃は思い出せません。通過儀礼とでもいうべきもので……。私は成人式に行かなかったので、まあ、あれがその代わりだったのだと思います。あの時の興奮を言い表すには、以下のような、いささか≪文学的≫にすぎるレトリックを用いるほかにないでしょう。すなわち私は、革命という言葉の意味を、マルクスでもトロツキーでもゲバラでもなく、ゴダールから教えられたのだ、と。映画(作品)を創るということは、同時にそれを破壊することであるというテーゼを、スクリーンの上で披瀝することで、彼はそれを、20歳の私に開示したのです……。
日曜作家はこのあと、まさに取り憑かれたように喋りはじめた。以下の文書において探偵の発言が残っていないのは、記録を省略したのではなく、日曜作家が彼に合いの手すら挟ませぬくらい、熱心にまくしたてたからである。
「それ以来、ゴダールのことばかり考えてきました。ボルヘスも言うように、≪世界と同じ大きさの地図は役には立たない。≫のです。第一、神そのものでもないかぎり、そんなもの創れやしないでしょう。だからわれわれは、誰しもが、自分なりの小さな地図を持ち歩いているはずですが、私にとっては、ゴダールこそが模範とすべき地図の作り手と思えました。20歳の地図、というわけですかね(苦笑)……
「多くの場合ゴダールは、ひどく単純なシチュエーションを選びます。彼の映画のほとんどは、その時代のパリを舞台とする、極めて日常的な環境の中での、平準的な人物たちの相関関係を描いています。初期のジム・ジャームッシュなども真似をしていたこのやり方は、ハリウッド的な物量主義の対極にあるものです。この方法の最大の利点は……身も蓋もないことをいうならば……撮影を短い時間で安くあげられることですが……それよりも重要なのは、作り手が形式上の実験に専念できることでしょう。題材そのものが魅力的ならば、それを語ることに気を取られて、冒険ができなくなるからです……
「そう……ゴダールは最高無比の冒険者です。彼の基本姿勢は、制度的な撮影、演出、話法、編集などのノウハウを知悉したうえで、ことごとくそれらをはぐらかしていくところにあります。観客を面食らわせ、時にはすっかり困惑させてしまうような様々な仕掛けを、彼は次々に繰り出すでしょう。もとよりそれは従来の映画に対する、ひいては映画そのものに対する批評となります。まったく新しい試みが、まさにいま自らの目の前で行われつつあることを、彼の映画を観る者の多くが、感じ取らずにはいられないのです……
「だから彼の作品は、≪芸術作品≫ではなく事件そのもの、つまり観客の感性を組み替えてしまうことを意図したメタ・アートといえます。もとよりこれは、20世紀の芸術が、各々のジャンルで試みてきたことに相違ありません。ピカソ、ブランショ、ウェーベルン、ベケット……いずれもみな、彼ら自身が依拠している表現手段へのラディカルな問い直しによって創作を始めました……要するに、まあそれが、モダニズムということの真意なのですが……
「しかし、映画というジャンルでそれをやってのけたのはゴダールが空前であり……そして、あるいは絶後かもしれない。彼の作品は、そのすべてが、映画という表現手段の可能性に対する考察の記録なのです。これは、映画という芸術がすぐれて総合的なものであり、しかも一から十まで商業主義の規制のなかで作られるのを考えるなら驚くべきことです。さらに驚くべきは、彼が映画において行ったことが、絵画・文学・音楽・演劇といったジャンルでそれぞれの巨匠たちがやったことに比べて、よりいっそう緻密で、徹底しており、しかも射程が広いように見えることでしょう……
「ゴダールは、映画という表現手段を、詩ではなく、あくまでも散文と見なしています。この場合の散文とは、小説ではなくむしろ批評のことですが……。小説というものは、いかにそれがリアリスティックに書き込まれた代物でも、つまるところ叙事詩であり、そうでなければ抒情詩にすぎませんからね……。ゴダールの目的は分析であり、それは批評の仕事です。それでいながら彼の作品が、異様なまでに鮮烈で、豊麗で、瑞々しく……つまりはもう、あられもなく≪詩的≫という言葉で表現せざるをえないものへと昇華されていることこそが真の驚きなのですが……
「……話を戻しましょう。ゴダールの作品とは、映像と音声を用いた、世界~現実~社会~政治~権力~さらには認識そのもの……の分析なのです。しかも彼は、新作を撮るごとに、つねに過去の問題を発展させ、それまでの解決策をかなぐり捨てるか、あるいはいっそう複雑にします。それどころか、一本の作品それ自体の中で、そういった革新をやってのけることさえ稀ではありません。それも、つねに自身の手の内を晒しながら……。彼は現在の自分が依拠する芸術的・精神的・政治的な規範や典拠や概念、そして雑多な関心のすべてを無造作な手つきで作品の内に取り込み、そうすることでさらなる前進を図っていきます。≪永久革命≫とでも呼ぶ以外にないこの不断の弁証法が、彼の作品に野放図なまでのエネルギーを与えるのです……
「≪私はとにかく色々なものを並べるのが好きなのだ。≫とゴダールは言います。あるいは、≪映画には何でもぶちこまなければならない。≫とも。彼の映画は、秩序を持たない現代版百科全書ともいえます。……そう……異質な要素を次から次へと放り込むことで、彼は、映画という形式のもつ出来合いの統一性を壊そうとしているのです。彼の考えでは、どのような素材であれ、映画に摂取できないものはありません。むろん、監督の手による再構成を経てのことですが……。前衛演劇、ヌーヴォー・ロマン、ミュージカル、政治演説、ロック、哲学、ポップアート、詩(!)……こういった貪婪な折衷志向は素材のレベルに留まりません。文体・調性・主題・話法・形式・技法・視点……すべての位相で、彼はさまざまな要素を混淆し、共存させます。
「コラージュ? たしかにそうとも言えるでしょう。しかし、ただ色々なものを並べるだけなら誰にだってできます。問題は、ゴダールの映画を貫くスピードとリズムの見事さです。彼の映画には、テオ・アンゲロプロスのような手堅い構築性はありませんが、それでいて調和が取れ、造形的にも論理的にも(ほぼ)過不足はなく、全編くまなく緊張感がみなぎっています。さきほどの表現を繰り返すならば、それはまさに≪詩的≫としか言いようのないもので……彼の映画の難解さや独善性をあげつらう者でさえ、彼の映画が、独自の≪美≫に溢れていることは認めざるをえないでしょう。あの手捌きの鮮やかさは……やはりベンヤミンの好んだ用語を借りて、≪天使的≫とでも呼ぶほかなさそうですね。≪天才的≫というよりも、そちらのほうがゴダールにふさわしいように思えます……
「コラージュとならぶゴダール映画のもうひとつの特徴は……これはもう、何をいまさらの感もありますが……観念性です。いつだって彼は、観客の感覚や情緒に訴えるのを拒むかのように、ひたすら観念と概念化とを追求します。ふつうの監督たちが文体やテーマを介して行うことを、遥かに露骨で単純な、あるいは野蛮とも言うべき仕方でやってのけるのです。彼の作中人物たちときたら、自らが作品の内部で果たすべき役割をものともせず、またストーリー展開さえも顧みることなく、衒学的な引用に満ちたアフォリズムふうの独白、あるいは煩雑な議論や論争に耽るのが常です。実在の哲学者や作家や監督が登場してインタヴューを受けることも珍しくないし(ちょうど今の私のように、というべきでしょうか?)俳優がカメラに向かって直接セリフを述べることさえあります! また、作品のクライマックスで、愛だの永遠といった剥き出しの概念が唐突に語られ、それによって物語が呆気なく急転したり、終局してしまうこともあります。否応もなく観客たちは、ただ単にお話を享受するのではなく、従来とはまったく違った意識をもって、作品へと関わっていくことを余儀なくされるのです。
「だからといって、ゴダールが観念的な映画監督だというわけではありません。むしろその逆であるというべきでしょう。このようなゴダールの手法を見れば、彼が、通常の作家や監督と異なり、作品の中でひとつの思想を体系立てて叙述することに関心がないのは明らかでしょう。彼の映画は≪観念的≫ではありますが、彼自身は≪観念≫をまるで信じてはいません。ゴダールにおいては、観念はあくまで形式上の一要素、つまり観客の感覚と情緒とを刺激する単位にすぎないのです。それはいつでもアイロニカルな韜晦の手段……いわば観客の感情的なベクトルをはぐらかすための道具として使われるのです……
「アイロニカルな韜晦? あるいはそれは、≪ゴダール的なるもの≫を的確にあらわすキーワードかも知れません。そう……闊達な感受性の横溢する彼の作品は、いつだって軽快で、ウイットに富み、時に軽薄で、ただ単にバカバカしいだけのこともあります。まったく……バカボンパパに付き合わされるようなものです……暴露的な即興性からなるドキュメンタリーの手法、そして、それと相反する極度の様式化ないし単純化との往還が、彼の映画の遊戯性をさらに助長しています……
「彼の作品は断片の集積から成っている、と言っていいのかもしれません。プロット自体が演劇の骨法を周到に外しているため一見支離滅裂なうえ、カッティングは短すぎるし、異質なショットが並列されるし、モンタージュやフラッシュ・ショットは次々と入るし、明暗は目まぐるしく交替するし、ポスターだの絵画だのが唐突に挿入されるし、音楽は不意に始まって途中で切れるし、リアルな場面と荒唐無稽な場面とが交錯するし、映像の中に前触れもなく字幕やら黒い画面が現れるし、会話の途中に朗読が割り込んでくるし、登場人物の行為は往々にして不分明で何の帰結にも至らないし、時には会話も聴き取れないし、アクションシーンで急にインタヴューが始まってしまうし、説明過剰のナレーションが織り込まれるし、かと思うと説明が欲しいシーンで誰もなにも言わないし、ゴダール自身の感想や私的な述懐や創作上の注意書きまでが無造作に混入されるし……要するにそこでは、教科書どおりの話法を分断するあらゆる手だてが間断なく駆使されるのです。これが高じると、個々のシーンが一つの話に収斂していくのか(もちろんそれが、ふつうの映画というものですが)、ビデオクリップを垂れ流しているかのように、ただ別々のタブローを続けて見ているだけなのかさえ、観客はわからなくなってしまいます……
「ゴダールは何をしているのでしょうか? ありあまる才能を弄び、観客を煙りに巻いて喜んでいるわけではありません(そういう部分がまったくない、と言ったらたぶん嘘になるでしょうけれど。なにしろバカボンパパですからね)。彼は、≪映画≫を≪人生≫に、≪作中人物≫を≪人間≫に、ともども近づけようとしているのだと思います。それはすなわち、文学のジャンルにおいて完成された(そして、20世紀を代表する表現手段としての≪映画≫がそれを忠実に模倣してやまない)19世紀的リアリズムからの(/に対する)逃走(/闘争)にほかならないでしょう。
「そう……19世紀的リアリズムの主要な方法論は、物語の因果的連鎖と、登場人物の心理描写とによって代表されます。ゴダールは、20世紀における優れた小説家たち同様、この2つの規則を軽やかに破壊してみせたのです。ゴダールの映画にあっては、個々のショットが自立しており、他のショットとのあいだに深刻な関係を取り結びません。それは確固たる統一体ではなく、外に向かって開かれた集合体なのです。そこには本質的なものとそうでないものとを区別する絶対的、または内在的な根拠もなければ、必然的な結末というものもありません。彼の登場人物たちは往々にしてラスト・シーンで簡単に死んでしまいますが、それはたいてい偶発的で、突発的な死に方です。事件と事件とのあいだに、純粋に有機的な繋がりはない……そして、人生とはまさにそういったものではないでしょうか?
「ゴダールはまた、観客の感情移入を促すような心理描写を徹底して退けます。作中人物の内面生活が描かれることは滅多にない……観念と心理と行動とが、完全に分離されてしまっているのです……ヴァレリーのあの有名な宣言以来、心ある作家たちはみな人間を、≪作者という名の神≫の操り人形ではないものとして、すなわち、物語と心理と因果関係との奴隷ではないものとして、描こうと腐心してきたのですが、そのひとつの達成がここにあるといえるでしょう。ゴダールは人間を、≪物≫のように……そう……資本主義社会の中で疎外されている一個の物象のように撮影します。彼の映画に登場する人々は、みなどこかしらぎこちなく、不自然で、世界との違和を体現しているかに見える……そして、そのさまは異様なまでにリアルなのです。20世紀における人間とは、まさにそのようなものではないでしょうか?
「最後にどうしても述べておかねばならない要素は、ゴダール作品のもつポリフォニー性です。彼の映画には、つねに複数の声が響き渡ります。一人称の語りであるナレーションと、三人称の語りとしての作中人物の科白……そして、もちろん、これだけではありません。作品の外部にあって話法構造の全体を統一しているはずのゴダール自身が登場するなどは序の口で、テクスト内部に回収しきれない主体、すなわち先ほども述べたような実在の固有名詞がゲスト出演し、さまざまな意見を表明する。これになお字幕や引用、映像自体のシニフィエまでをも含めれば、そこにはいったい幾種類の言説が、視点が、時間が、行きかっていることでしょう。しかもそれらは互いに補い合うどころか、相反したり、時にはまるで無関係だったりするのです。そして、世界とは、まさにそういったものではないでしょうか?
「『勝手にしやがれ』からすでに顕著であったこのような方法論は、俗に「商業映画に回帰した。」といわれる80年代以降、つまり『パッション』以降、映像そのもの、音声そのもの、言語そのものに内在する政治性を問い直す形で、より洗練され、ラディカルさを加えているように思われます。五月革命当時のような大文字の≪政治≫は語られず、それに代わって撮影の現場それ自体や、ひいては日常の生活にひそむ政治的なるもの一切が、いわば微分されるようにして、暴き出されていると思えるのです。
「むろんゴダールは急進的な革新家であり闘争者ですが、個々の事例についての明確な態度決定は拒否してきました。ある特定の概念なり、物の見方にコミットすることを求められると、アイロニカルな否認で応じるのです。しかし、それを責任回避や怠惰のあらわれとするのは適切ではありません。≪ゴダール的≫と名付けるほかない内在的な統一性が、紛れもなく、この世には存在するのだから……つまり彼は、固着したイデオロギーに従属するには聡明すぎる、というだけのことです……
「結論に移りましょう。今も昔もゴダールは、自らが武器として選んだ≪映画≫という表現手段を、動的な有機体と見なしています。それはプラトン的な意味でのイデアリスティックな存在ではなく、つねに社会性・歴史性・今日性を持った事件であり、そしてまた、いずれは未来の事件によって凌駕されるべき運命にあるものだと。だからこそ彼は、自作の中にその折々の政治的な出来事を挿入したり、時にはそれを映画の枠組みとすることさえも厭わないでしょう。私が指針として学んだのは、そのような一人の映画作家なのです……」
……このあと、「日曜作家」は、「いかにして自分がゴダールの影響のもとに小説を書きあげたか。」をとうとうと語り尽くしたが、さすがにもう、ばかばかしいので以下は割愛。