文学とは、個たる人間の根源においてその社会・世界・宇宙とのつながりを全体的に把握しながら、人間であることの意味を認識してゆこうとする言葉の作業である。
岩波書店『ゲド戦記』第1巻「影との戦い」のあとがきで、訳者の清水真砂子が書いている言葉。清水さんはこの一文に続いて「……といわれます。」と、あたかも引用のように記してらっしゃるけれど、とくに出典があるわけではないようだ。ご自身がふだんの読書と思索から導き出されたもので、この方のオリジナルといっていいと思う。
見事な定義だが、「社会」のまえにまず身近にいる個々の相手とのつながりが生じるはずだし、「全体的」だけだと何だか『戦争と平和』クラスの大長編を思い浮かべてしまう。梶井基次郎のあの散文詩みたいな美しい掌編なんかが零れてしまう気もする。
こうしてみたらどうだろう。
文学とは、個たる人間の根源において、他者および社会・世界・宇宙とのつながりを、全体的に、かつミクロ的にも把握しながら、人間であることの意味を認識してゆこうとする言葉の作業である。
☆☆☆☆
ガルシア=マルケスと並び称されるラテンアメリカ文学の大物で、ノーベル賞も取ったバルガス・リョサさんの文章で、こんなのもあった。
小説を書くということは、現実に対する、神に対する、神が創造された現実に対する、叛逆行為に他ならない。それは真の現実を修正、変更、あるいは廃棄することであり、それに変えて小説家が創造した虚構の現実をそこに置こうとする試みに他ならない。小説家とは異議申し立て者であり、あるがままの(もしくは彼ないし彼女がそうだと信じる)生と現実を受け入れ難いと考えるが故に、架空の生と言葉による世界を創造するのである。人がなぜ小説を書くのかといえば、それは自分の生に満足できないからである。小説とは一作、一作が秘めやかな神殺し、現実を象徴的なかたちで暗殺する行為に他ならない。
何しろ言ってる当人が超弩級の作家なんだから、たんなる現実逃避とか、願望充足のための手慰みみたいなことではない。ラストの一行がおそろしく利いている。仮にもキリスト教圏のひとが「神殺し」なんてセリフを口走るのは、よっぽどの覚悟がある時だけなのだ。
岩波書店『ゲド戦記』第1巻「影との戦い」のあとがきで、訳者の清水真砂子が書いている言葉。清水さんはこの一文に続いて「……といわれます。」と、あたかも引用のように記してらっしゃるけれど、とくに出典があるわけではないようだ。ご自身がふだんの読書と思索から導き出されたもので、この方のオリジナルといっていいと思う。
見事な定義だが、「社会」のまえにまず身近にいる個々の相手とのつながりが生じるはずだし、「全体的」だけだと何だか『戦争と平和』クラスの大長編を思い浮かべてしまう。梶井基次郎のあの散文詩みたいな美しい掌編なんかが零れてしまう気もする。
こうしてみたらどうだろう。
文学とは、個たる人間の根源において、他者および社会・世界・宇宙とのつながりを、全体的に、かつミクロ的にも把握しながら、人間であることの意味を認識してゆこうとする言葉の作業である。
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ガルシア=マルケスと並び称されるラテンアメリカ文学の大物で、ノーベル賞も取ったバルガス・リョサさんの文章で、こんなのもあった。
小説を書くということは、現実に対する、神に対する、神が創造された現実に対する、叛逆行為に他ならない。それは真の現実を修正、変更、あるいは廃棄することであり、それに変えて小説家が創造した虚構の現実をそこに置こうとする試みに他ならない。小説家とは異議申し立て者であり、あるがままの(もしくは彼ないし彼女がそうだと信じる)生と現実を受け入れ難いと考えるが故に、架空の生と言葉による世界を創造するのである。人がなぜ小説を書くのかといえば、それは自分の生に満足できないからである。小説とは一作、一作が秘めやかな神殺し、現実を象徴的なかたちで暗殺する行為に他ならない。
何しろ言ってる当人が超弩級の作家なんだから、たんなる現実逃避とか、願望充足のための手慰みみたいなことではない。ラストの一行がおそろしく利いている。仮にもキリスト教圏のひとが「神殺し」なんてセリフを口走るのは、よっぽどの覚悟がある時だけなのだ。