本心とは真逆(まぎゃく)の言葉を表明することをアイロニー、もしくはイロニーという。裏腹(うらはら)とはよく言ったもので、まさに腹の中身を裏返して相手に伝えるわけである。レトリック(修辞)の一種で、かなり高度なものではあるが、一面、だれしもが普段の生活でけっこう使っていることでもある。
虫の好かない上司ないしお得意さんの接待をして、丸一日を棒に振ってしまった帰り際、「今日はほんとうに楽しい一日を過ごさせて頂いて」と口にするとき、あなたはアイロニーを実践している。だからアイロニーは、たんに「皮肉」と訳されたりもする。ただこのばあい、それが皮肉だと(少なくとも露骨には)受け取られぬよう、細心の注意を払わなければなるまいが。
むろん、もっと高尚なアイロニーもある。ソクラテスは「私は何も知らない。だから私に、あなたの知っていることを教えてくれ」というアイロニーを駆使して人々に対話を仕掛けた。これによって、問答の相手が「知ってるつもりでいただけで、じつは何も知らなかった。誠実に物事を考えたことがなかった」ことを暴いたのである。文書として残っている中では、これはおそらく人類史上初めての「哲学的実践」だろう。一部の人たちは感動してソクラテスを尊敬したが、もっと多くの人たちは「どんだけ嫌味なヤローだ。すっげームカつく」と怒った。結果、(まあそれだけが理由じゃないけど)ソクラテスは裁かれ、毒杯を仰ぐ羽目となった。アイロニーを使うのは時として命懸けである。
しかし人間という生きものが、自分に対しても他人に対しても社会に対しても「どこまでも誠実」であり続けることなどできない以上、アイロニーは人間の営みすべてに付いて回るともいえる。ことに文藝のような知的営為においては。そこに目を付けたフランスのジャンケレヴィッチさんって哲学者が、『イロニーの精神』(ちくま学芸文庫)という本を書いた。けだし、アイロニーは一冊の本が著せるほど深いテーマなのだ。
又吉直樹の『火花』(文春文庫)にも、アイロニーを使ったくだりがあった。苦楽を共にしてきたコンビの解散記念ライブ。「よーし、ほんなら今から、思てんのと反対のこと言うていくでー」と宣言して、相方への悪口を述べ立てていくのだ。ふつうなら照れ臭くて言えない気持を、裏返しにして伝えるのである。泣かせどころだが、あらかじめ「反対のことをいう」と断っているので、響きが薄い気もする。
ぼくが近ごろ出会った最上のアイロニーは、『おんな城主 直虎』の8月20日放送分「嫌われ政次の一生」のワンシーンだ。『おんな城主 直虎』について予備知識のない方は、当ブログ8月3日の記事「『おんな城主 直虎』がおもしろい。」をご覧ください。
いよいよ政次の処刑が決まり、ほかの僧たちと共に直虎は立ち会う。彼女は尼僧でもあるので、「引導を渡す」という名目で刑場に臨むわけである。磔刑台に括りつけられる政次。満身創痍で痛々しく、髪もざんばら。かつての切れ者「但馬守」の面影はない。直虎は目を背けることなく、彼を注視している。
執行役の兵がふたり、左右から槍を構える。テレビの前のぼくは、脚本の森下佳子さん、一体ここで直虎に何をさせるんだろうと思っていた。ただ黙って一部始終を見守っているだけでは、21世紀の大河ドラマのヒロインではない。おれだったら直虎にどんな行動を取らせるかなあ……。いやあ……ちょっと思いつかんなあ……。
じっさいの展開は、ぼくなどの思いもよらぬものだった。テレビ業界の激戦の中で日々しのぎを削る売れっ子ライターの真価を見た気がする。なんと直虎は、一躍して傍らの兵から槍をもぎ取ると、磔刑台に駆け寄り、気合一閃、自らの手で、それを政次の胸に突き立てたのである。
柴咲コウさんは目が大きい。その目をかっと見開いて、「眦(まなじり)を決する」という慣用句そのままの形相で、こう叫ぶ。
「地獄へ落ちろ、小野但馬。地獄へ……。ようも、ようもここまでわれを欺いてくれたな。遠江(とおとうみ)一、日の本一の卑怯者と、未来永劫語り伝えてやるわッ」
ここまで半死半生のていだった小野政次、さらに胸を一突きされて、絶息しても不思議はない筈のところだが、最愛の女性・直虎からの呼びかけに、逆に一瞬、生気がよみがえる。若き名優・高橋一生、これが最後の(そしてたぶん最高の)見せ場だ。よもや演技にぬかりはない。
ぐふ、ぐわあっ、と血を吐いて、
「笑止! 未来など……。もとより女(おなご)頼りの井伊に、未来などあると思うのか。生き抜けるなどと思うておるのか。家老ごときに容易く謀られるような愚かな井伊が……。やれるものならやってみよ。地獄の底から……見届け……」
ここまで述べて力尽き、首を垂れる。
直虎、槍を取り落とす。
いうまでもないことながら、政次に向けた直虎のせりふ、直虎に向けた政次のせりふ、これらはいずれもアイロニーである。そっくりそのまま裏返せば、それぞれ真の意味になる。
周りを敵の兵士に囲まれた中で、直虎が政次への心からの感謝を込めた別れの言葉を伝えるためには、政次が直虎への絶大な信頼と励ましを伝えるためには、アイロニーを使うほかなかったということだ。アイロニーは使いかた次第でここまで胸を打つものになる。
虫の好かない上司ないしお得意さんの接待をして、丸一日を棒に振ってしまった帰り際、「今日はほんとうに楽しい一日を過ごさせて頂いて」と口にするとき、あなたはアイロニーを実践している。だからアイロニーは、たんに「皮肉」と訳されたりもする。ただこのばあい、それが皮肉だと(少なくとも露骨には)受け取られぬよう、細心の注意を払わなければなるまいが。
むろん、もっと高尚なアイロニーもある。ソクラテスは「私は何も知らない。だから私に、あなたの知っていることを教えてくれ」というアイロニーを駆使して人々に対話を仕掛けた。これによって、問答の相手が「知ってるつもりでいただけで、じつは何も知らなかった。誠実に物事を考えたことがなかった」ことを暴いたのである。文書として残っている中では、これはおそらく人類史上初めての「哲学的実践」だろう。一部の人たちは感動してソクラテスを尊敬したが、もっと多くの人たちは「どんだけ嫌味なヤローだ。すっげームカつく」と怒った。結果、(まあそれだけが理由じゃないけど)ソクラテスは裁かれ、毒杯を仰ぐ羽目となった。アイロニーを使うのは時として命懸けである。
しかし人間という生きものが、自分に対しても他人に対しても社会に対しても「どこまでも誠実」であり続けることなどできない以上、アイロニーは人間の営みすべてに付いて回るともいえる。ことに文藝のような知的営為においては。そこに目を付けたフランスのジャンケレヴィッチさんって哲学者が、『イロニーの精神』(ちくま学芸文庫)という本を書いた。けだし、アイロニーは一冊の本が著せるほど深いテーマなのだ。
又吉直樹の『火花』(文春文庫)にも、アイロニーを使ったくだりがあった。苦楽を共にしてきたコンビの解散記念ライブ。「よーし、ほんなら今から、思てんのと反対のこと言うていくでー」と宣言して、相方への悪口を述べ立てていくのだ。ふつうなら照れ臭くて言えない気持を、裏返しにして伝えるのである。泣かせどころだが、あらかじめ「反対のことをいう」と断っているので、響きが薄い気もする。
ぼくが近ごろ出会った最上のアイロニーは、『おんな城主 直虎』の8月20日放送分「嫌われ政次の一生」のワンシーンだ。『おんな城主 直虎』について予備知識のない方は、当ブログ8月3日の記事「『おんな城主 直虎』がおもしろい。」をご覧ください。
いよいよ政次の処刑が決まり、ほかの僧たちと共に直虎は立ち会う。彼女は尼僧でもあるので、「引導を渡す」という名目で刑場に臨むわけである。磔刑台に括りつけられる政次。満身創痍で痛々しく、髪もざんばら。かつての切れ者「但馬守」の面影はない。直虎は目を背けることなく、彼を注視している。
執行役の兵がふたり、左右から槍を構える。テレビの前のぼくは、脚本の森下佳子さん、一体ここで直虎に何をさせるんだろうと思っていた。ただ黙って一部始終を見守っているだけでは、21世紀の大河ドラマのヒロインではない。おれだったら直虎にどんな行動を取らせるかなあ……。いやあ……ちょっと思いつかんなあ……。
じっさいの展開は、ぼくなどの思いもよらぬものだった。テレビ業界の激戦の中で日々しのぎを削る売れっ子ライターの真価を見た気がする。なんと直虎は、一躍して傍らの兵から槍をもぎ取ると、磔刑台に駆け寄り、気合一閃、自らの手で、それを政次の胸に突き立てたのである。
柴咲コウさんは目が大きい。その目をかっと見開いて、「眦(まなじり)を決する」という慣用句そのままの形相で、こう叫ぶ。
「地獄へ落ちろ、小野但馬。地獄へ……。ようも、ようもここまでわれを欺いてくれたな。遠江(とおとうみ)一、日の本一の卑怯者と、未来永劫語り伝えてやるわッ」
ここまで半死半生のていだった小野政次、さらに胸を一突きされて、絶息しても不思議はない筈のところだが、最愛の女性・直虎からの呼びかけに、逆に一瞬、生気がよみがえる。若き名優・高橋一生、これが最後の(そしてたぶん最高の)見せ場だ。よもや演技にぬかりはない。
ぐふ、ぐわあっ、と血を吐いて、
「笑止! 未来など……。もとより女(おなご)頼りの井伊に、未来などあると思うのか。生き抜けるなどと思うておるのか。家老ごときに容易く謀られるような愚かな井伊が……。やれるものならやってみよ。地獄の底から……見届け……」
ここまで述べて力尽き、首を垂れる。
直虎、槍を取り落とす。
いうまでもないことながら、政次に向けた直虎のせりふ、直虎に向けた政次のせりふ、これらはいずれもアイロニーである。そっくりそのまま裏返せば、それぞれ真の意味になる。
周りを敵の兵士に囲まれた中で、直虎が政次への心からの感謝を込めた別れの言葉を伝えるためには、政次が直虎への絶大な信頼と励ましを伝えるためには、アイロニーを使うほかなかったということだ。アイロニーは使いかた次第でここまで胸を打つものになる。