ひさびさの更新ながら、体調不良につき、ごく手短に。
金曜ロードショー。ヒュー・ジャックマン主演『グレイテスト・ショーマン』。
魔術的なまでに濃縮された小気味よい編集。それを支える堅牢な脚本と俳優の演技。主人公が大人になるまでを華麗なテンポで見せられて、「すごいな。これで始まってから1時間くらいか。」と思って時計を見たら、まだ30分も経ってなかった……。
とにもかくにも「映像で見せる(=魅せる)」。それに徹する。そのためには綺麗事もウソも荒唐無稽もお構いなし(それなりの歳月が経過しているはずなのに、あの2人の娘さんたちがいっこうに成長しないとか、南北戦争が一切閑却されているとか)。
これぞ映画、これぞエンタメ、という感じ。
「絵に画いたような」ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)映画なのだけれど、しかし「差別」というのは社会における最大のテーマの一つであり、ゆえにフィクションにとっても最大のテーマのひとつなのだから、「人種のサラダボウル」たるアメリカ産のハリウッド映画がくりかえしこれを主題にするのは当然だ。
(念のためにいうと、作中において差別されているのは「フリークス」の人たちや「有色人種」の人たちだけではない。まずバーナム自身がそうなのだ。)
Wikiをみると、アカデミー賞ではなにひとつ賞を取れなかったばかりか、多くの批評家から酷評されたとか。その理由について調べる余裕はないのだが、察するに、やはり主題の重さのわりには結末がファンタジー並みに甘すぎる……ということか。そうなると、ぼくなどはまた、『すずめの戸締まり』のことを思い浮かべたりしてしまうのだが……。
重い主題をフィクション(とりわけエンタメ)として料理するのは、難しい。遺漏なく扱いたければ、ドキュメンタリーを撮るしかないだろう。しかしそれではお客は入らない。結局は、だれの目にもふれない。ここに大きなジレンマがある。
ともあれ、このところすっかりハリウッド映画に疎くなっていた(ハリウッド映画のみならず、映画全般に疎くなっているのだが)ぼくにとっては、ひさしぶりにアメリカ映画の底力を思い知らされる作品だった。父親の隣で夢中になって「日曜洋画劇場」や「ゴールデン洋画劇場」を見ていた子どもの頃を思い出した。