ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

右か左か、左か右か。

2016-09-10 | 戦後民主主義/新自由主義
 前回の記事「戦後民主主義。」およびその「補足」で書いたことを踏まえ、さてそれでは、ぼく自身の「立場」はどうなのか?というと、つらつら考えるに、驚くべきことに(でもないか)、どうも、「左」よりむしろ「右」に近いようなのである。
 しかし、この話を進める前に、その「左」とか「右」とかってそもそも何よ、という件をはっきりさせておかねばなるまい。
 前回は、「このニッポンにおいて、《左翼》とは厳密には(本来は)マルクス主義者のことだ。」という言い方をした。
 このように定義しておくのが、いちばん紛れがない。ただ、1991年のソビエト連邦解体によって、真正のマルクス主義者は世界規模で激減したはずであり、それはこの日本でも例外ではない。
 この時代、よもや「革命」だの「プロレタリアート独裁」だのといった教条を大真面目に信じてる人はほとんどいまい。絶滅危惧種、といったところではなかろうか。
 もし居たら、ほんとにかなりびっくりなのだが、「世に倦む日日」は、記事を読んでるかぎりは何だかそんな感じがするので、いやこの人、本気でこれを言ってるんだろうか……と、いつもちょっぴり心配になる。もはや「信仰」みたいなものなんだろうか……。
 そういえば、RADWIMPSの最新ヒット「前前前世」には、
「君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ その騒がしい声と涙を目がけ やってきたんだよ /
そんな革命前夜の僕らを誰が止めるというんだろう もう迷わない 君のハートに旗を立てるよ」
という一節がある。「旗を立てる」ってのは、世界史の図録なんかに必ず載ってる「民衆を導く自由の女神」のイメージだろう。フランス革命である。
 かつて60年代ごろには、この国でもまだ魔性の響きを帯びていた「革命」という単語は、今やこうして、ポップスの味付けとして消費されるのだ。
(RADWIMPSはいいバンドで、べつに彼らの悪口を言ってるわけではないので誤解なきよう。)
 かくてマルクス主義の権威は地に落ちた。だが……、
 「マルクス主義を原理とする国家は必ず独裁に陥り、国民を不幸にする。それは20世紀後半の歴史によって証明された。しかし、マルクスの考え自体は間違ってはいないし、この21世紀においても、いや、むしろこの21世紀においてこそ、改めて検証されなくてはならない。」
 という意見は根強く残っている。佐藤優さんはことあるごとにこれを述べるし、かく申すぼく自身も、じつはそう考えている。
 マルクスの思想から、「革命」だの「プロレタリアート独裁」だのといった「イデオロギー」を取り除き、あくまでもひとつの経済理論として、すなわち、この「資本主義社会」の原理ないし構造を解明するためのツールとして、使おうという発想である。
 これはしごく真っ当であるどころか、今ものすごく重要なことだと思う。
 いま世界および日本の経済の基調となっているのは「新自由主義」の潮流だけれど、これがほんとうに正しいのか、ほんとうに人々を幸せにするのかどうか、きっちり検証するためには、マルクスの理論がもっとも有効だからだ。
 しかしもちろん、このようなことを考えているからといって、ぼくはマルクス主義者ではない。もともとの「マルクス主義者」という概念からは、もはやすっかり遠くなっている。だいいち、マルクスがどうこう以前に、これはもう「主義」ではない。たんにツールとして使おうというだけなのだから。
 佐藤優さんもそうではない……と思うが、あのひとにとってのマルクスの思想は、どうやらキリスト教の「千年王国」の近代/現代版として捉えられてるようなので、じつのところはよくわからない。キリスト教は深すぎて、ぼくにはなかなかわからない。
 いずれにせよ、ソ連邦解体による「マルクス主義者」の激減によって、「左翼」の定義もずいぶんと変質したわけだけれど、それでももちろん、「左」とか「サヨク」とかいった言葉は残っていて、ネットの上で目にしない日はない(まあ、なにも毎日ネットを見てるわけではないが)。
 いまいちど冒頭の設問にもどろう。「左」とか「右」って、そもそも何なのか。
 これについては、浅羽通明『右翼と左翼』という新書が幻冬舎から出ており、初版から十年たった今でも版を重ねている。けだし、このシンプルで初歩的な疑問につき、多くの人が頭をひねっている証であろう。
 俗に、「左」は進歩的、「右」は保守的、と言われる。しかし、とくにこの戦後ニッポンにあっては、この定義にはいささか難がある。「左」の代表のはずの共産党が「護憲」をとなえ、「右」の代表である自由民主党が「改憲」をもくろむ。
 現状をかえるのが「進歩」で、現状を維持するのが「保守」であるなら、この事態はあきらかに転倒である。ぼくなども、中学生くらいまで、このことが不思議でならなかった。
 それは日本の戦後の「ねじれ」そのものを表しているのだけれど、どちらにしても、「進歩」の行きつく果てにあったはずの「理想の社会」が幻想と潰えた現在、もう「進歩」「保守」という区分では、うまく説明できないのは事実であろう。
 前述の浅羽さんの本などを参照しつつ、ぼく自身が下した定義はこうである。
 ≪日本≫という共同体(すなわち国家)の≪力≫を強め、その共同体の成員(すなわち国民)の「自由度」を減らすのが「右」で、
 ≪日本≫という共同体(すなわち国家)の≪力≫を弱め、その共同体の成員(すなわち国民)の「自由度」を増やすのが「左」。
 そういうことだ。これがいちばん明快で、射程が広い。
 このあいだから持ち越している「戦争」を例にとっていうならば、
 「戦時」において、兵隊(つまり徴集された国民)は、牛馬はおろか、弾薬にも等しい、あるいはそれ以下の「消耗品」として扱われる。先の大戦でも、二等兵が上官から「貴様らなどより、砲弾一発のほうが遥かに大事なのだッ。」とよく叱責されたという。
 また、「銃後」をまもる国民(一般市民=非戦闘員)ですら、焼夷弾やミサイルによって、木っ端のように焼き殺された。
 このような扱いを受け、「命を奪われる」のは、「自由度」という尺度をあえて使うなら、「自由度ゼロ」もしくは「マイナス」であろう。
 だから、国家が行う戦争において、共同体の成員(すなわち国民)の「自由度」は、極限まで減少する、といえる。そう。戦争は、まさしく究極の「右」の所業だ。
 しかし、これはさすがに例として極端かもしれない。それに、日本人に向かって焼夷弾やミサイルを投下したのは、日本という国家ではなく、いうまでもなくアメリカである。だから、ていねいに考えていくと、話がいささか錯綜する。
 もう少し日常に即した案件で考えてみよう。「税金」はどうであろうか。
 税金が上がると、われわれの可処分所得は減り、「自由度」は減る。だから増税は本来、「右」の政策であるはずだ。
 ただ、昨今では、「左」を標榜する論客でも、「消費税アップ」をうたう人が多い。なんだかよくわからぬのだけれど、どうも、増税分を「福祉」に回して、国民の福利厚生に資するのだから、消費税を上げよ、という論法らしい。
 このように、ほかのファクターを加えるだけで、いくらでも結論は操作される(文字どおり、「左右される」というべきか……)。「理屈と公約、いや膏薬はどこにでも付く。」というやつである。
 「人権」はどうであろうか。
 「人権派」は、それこそ「左」のひとの代名詞みたいなものだろう。もともと、「人権」とは「個人(国民)」が「国家」に対して主張すべき概念である。少なくとも、ほとんどの法曹家の理念においてはそうであるはずだ。
 個人の「権利」がたくさん認められるほど、その分だけ確かに、国家からの「自由度」は増す。ゆえに「左」のひとの多くは「人権派」となる。
 しかし、「個人」と「個人」との利害が行き違ったばあい、一方の「人権」を声高に主張することは、もう一方の人権を制限することになってしまう。この際には、とりあえず「国家」は、じかに特定の「個人」と対立するものではなく、「裁定者」の位置づけにすぎない。
 「国家」と「個人」との関係が、いわば棚上げにされたところで、「人権」の概念だけが空回りしている、ともとれる。
 たとえば犯罪被害者の遺族にとり、容疑者の側に過剰に肩入れする「人権派」の弁護士が「敵」のような立場になってしまうのは、このようなメカニズムによるものだ。こうなると、遺族の方には、「左」ってものがさぞ腹立たしく映ることだろう。
 どうにも難しいことである。
 はてさて。
 冒頭において、ぼく自身の「立場」は、「左」よりむしろ「右」に近い、と述べた。
 それはじっさいそうなのだけれど、ただ、これにはひとつ注釈をつけておかねばならない。
 先の定義を再掲しよう。
 ≪日本≫という共同体(すなわち国家)の≪力≫を強め、その共同体の成員(すなわち国民)の「自由度」を減らすのが「右」で、
 ≪日本≫という共同体(すなわち国家)の≪力≫を弱め、その共同体の成員(すなわち国民)の「自由度」を増やすのが「左」。
 ポイントは、この「≪日本≫という共同体(すなわち国家)」というところである。
 この島国の一角に住み、国籍をもち、日本語を話し、日本国憲法その他の法律に守られ(たぶん間接的には自衛隊にも護られ)、YENによって経済活動を営む、という点において、たしかに「≪日本≫という共同体」は「すなわち国家」に違いないのだが、けれど、仔細に見ていけば、やっぱり異なるところもある。
 ≪日本≫という共同体、イコール国家、とは、軽々しく言いきれぬところがあるのだ。
 「国家」と「郷土」とは違う、という言い方はよく聞く。「愛国心」といわれるとつい警戒してしまうけれど、「郷土愛」ならば、さほどの抵抗はない。
 「国家」とは、政治機構であり、統治のための権力の総体である。
 えらくカタい言い方になったが、こればっかりは、カタい言い方でないと表現できないから仕方がない。
 ともあれ、そういうものであるからして、往々にして、時の「政府」が「国家」と同一視されてしまう。建前からいけば、政府なんてのは、国民から一時的に「権力」を付与されているにすぎないはずだが……。
 いっぽう、「郷土」というと、懐かしの山河と、そこで静かに日々の暮らしを営むひとびと、というイメージがある。
 「この国の風土が育んできた豊かな伝統」というイメージもある。
 うるさくいえば、これともまた少し違うんだけど、ぼくが自分のことを「右」だと見なすのは、おおむねそういう点においてである。
 上の定義を言い換えるなら、おおよそこんな具合になろうか。
 「≪日本≫という共同体(それは国家とかなりの部分かぶってはいるが、もう少し柔らかく、かつ包括的に、風土や生活や精神や伝統といったものを含む)の力をできうるかぎり≪強く≫したい。なぜならば、そうすることが結局のところ≪日本≫という共同体で暮らす成員(すなわち国民)ひとりひとりの幸せにつながるはずだから……。そのためには、プロセスとして、共同体で暮らす成員(すなわち国民)の「自由度」があるていど制限されるのもやむを得ない。」
 だいたいにおいてそういったところで、そのような定義に立って、ぼくは自分を「右」ではないかと思っているわけだ。
 とはいえ、やっぱり話はそれほど単純ではなくて、これほど長文を費やしても、まだ言い足りぬことはいっぱいあるが、いくらなんでも長すぎる。続きはまた、別の機会にいたしましょう。

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