ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

20.11.10 akiさんのコメントと、ぼくからのご返事。「親しみ。」

2020-11-10 | 哲学/思想/社会学

akiさんのコメント
2020.11.08
「お返事」


 こんばんは。akiでございます。


 改めて見てみたら、11月5日にはほぼ一日で(と言っても日はまたいでますが)3本もコメントを投稿させていただいてましたね。さすがにこれはやりすぎだぞ、返事が空いたと思ったら立て続けに投稿したり、ちと極端すぎるぞと反省いたしました。まあ1日1本、ないしは2~3日に1本くらいが、ご負担を掛けることも少なく、じっくり考えを練ることもできていいかなと思いますので、その辺りで行きたいと思います。(^^)


 ・・・で、前回のコメントでは、かなり(というか完全に)批判的な内容になってしまいましたので、ご気分を害することがなかったかと心配しておりましたが・・・おそらくこらえて下さっているのだろうとは思いますが、その中でもご返事をくださりありがとうございます。


 それで、今回のご返事の中では、


>吉本さんは、《非―信》の側にいるんです。ぼくももちろんそうです。でも、《信》の側に心惹かれてもいるわけです。


 この表現に、「なるほど」と得心するところが多くありました。この文脈で見るならば、猫町さんの


「極端にいえば、不-〈信〉と〈信〉の境界がなくなるということです」という文言も、


「親鸞の教えは、非信・不信の者をも惹きつける魅力を持っている」


 と換言すれば、得心できるものでもあります。(まあこれは断章主義による曲解でしょうけど)




 eminusさんは非信の人の立場として、同じく非信の立場から「親鸞の教え」に惹かれた吉本隆明さんの見解に、惹かれるものを感じられた、ということですね。了解いたしました。
 そのこと自体は良いことだと(上から目線でスミマセン。いい言い方が浮かばない・・・)私も思います。




 ただ、そこで止まってしまっては、実にもったいない。親鸞聖人の教えは、全人類にとって最終的な大問題である「死の問題」に完全解決をもたらす力を持っているのです。折角親鸞聖人とよい縁を持たれたのですから、ぜひ、その教えの真の姿を知ってもらいたい。そう私は感じます。


 まああんまりこっちからがっつきすぎるのも異様ですので、この辺で収めておきます。




 ただ、今回テキストとして提出いたしました『歎異抄をひらく』の著者、高森顕徹先生については、私自身の立場を明らかにするうえでも少しご説明いたしたいと思います。




 調べられた結果でもお分かりかと思いますが、高森先生は若い頃は本願寺教団の中から真宗を変革しようとされていましたが、それを断念して「浄土真宗親鸞会」という新たな団体を立ち上げられました。本願寺とは、親鸞聖人の教義について様々な論争を行ったため、本願寺の人の中には忌み嫌う人もいますが、また逆に「高森さんは正しいよ」と共感する人もいます。(まあこの辺りの毀誉褒貶は、目立つ人にはありがちなことだと思います)


 私自身は学生の頃に高森先生の説法に出会い、以降ずっと聞法をしてきています。ただし、私は聞法者としては雑念が多すぎて落第者だと思っています。教義については、聞法を重ねてきた結果多少知ってはいますが、親鸞聖人の教えられた他力信心をまだ得てはいません。蓮如上人が言われた「不信心の輩」あるいは「未信の徒」です。
 従って、「私の話を聞け」と言うつもりはさらさらありません。私にできるのはせいぜい「紹介すること」だけです。




 歎異抄第9章については先のコメントで述べましたので、後述べなければならないのは「歎異抄第2章」についてと「一切皆空」についての二点ですね。
 「歎異抄第2章」については、猫町さんの解釈にはやはり致命的な間違いがあります。その説明をするためにはそれ相応の字数が必要ですので、これは次回のコメントで述べさせていただきます。
 「一切皆空」については、私も正しく理解しているかどうかは怪しいです(笑) ただ、先のコメントの書き方では誤解を生じる部分もあったと思いますので、そこを丁寧に説明し、「判らんところは判らん」で丸投げする感じですかねw




 で、最後にこれが本題かもしれません(笑)


 私の拙い言葉を読まれるより、実際に『歎異抄をひらく』を手に取られて読まれることをお奨めします。高森先生の著書で市販されているものには他に『なぜ生きる』などのシリーズもありますので、それらを通読されれば、ある程度の「教えの姿かたち」が見えてくるのではなかろうかと。




 はい、以上です。今回はつらつらと所感をまとまりなく書き連ねた感じですね。次回からが本論ですか。また、よろしくお願いします。<(_ _)>




☆☆☆☆☆☆☆




ぼくからのご返事
2020.11.10
「親しみ。」




 2~3日に1本くらいのペースというのは手ごろですね。
 akiさんからのコメントで気分を害するってことはほんとにないです。いつも心待ちにしてるし、よい刺激を受けてます。ちょうど講談社……じゃないな、高段者と将棋を指してる時の感じですね。これはべつだん勝ち負けを競ってるって含みではありません。おわかり頂けてるとは思いますが、あくまで「ほどよい緊張感があって楽しい。」ってことです。
 ただ、前にも述べたとおりコピペさせて頂いた文章の責はわたくしことeminusにあります。猫町さんにしても、ご自分のレビューが与り知らぬ所で云々されるのはけして面白くないでしょうから、たとえば今回いただいたコメントの文中において、


 「歎異抄第2章」については、猫町さんの解釈にはやはり致命的な間違いがあります。その説明をするためにはそれ相応の字数が必要ですので、これは次回のコメントで述べさせていただきます。


 とあるのは、ご遠慮なく、


 「歎異抄第2章」については、eminusさんの解釈にはやはり致命的な間違いがあります。その説明をするためにはそれ相応の字数が必要ですので……(後略)


 と書いていただいて構いませんし、次回以降もその塩梅でやって頂ければと思います。また、この記事を読まれる他の皆様についても、そのつもりでお読み頂ければ幸いです。
 ところで、「気分を害する」というならば、むしろこちらのほうがその懸念をもっていますね。これは信仰ではないですが、ぼくは若い頃からニーチェについてわりと真面目に向き合ってきました。そういう人間からすると、白取春彦さんの『超訳 ニーチェの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)はとても不愉快です。ましてや適菜収さんの『キリスト教は邪教です!現代語訳『アンチクリスト』』(講談社+α新書)に至っては、「なめとんのかコラ。」という感じですね。
 つまり、人類史レベルの巨大な思想家をダシにして、専門の研究者でもない人っていうか、当の思想家と全身全霊を賭けて取り組んだこともないような人たちが、チャラい自己啓発本だの、粗悪な入門書(?)を書いて、ふだん本を読まない一般ピープルをころころと転がして小銭を(でもないかな。大金ですね)稼ぐっていう安いビジネスモデルですね。これは正直アタマにくるぜって話です。
 元の思想家の考えが捻じ曲がって広まるという点からいえば、それこそ禁書扱いにしたいくらいの気分ですけども、けど、それでもまあ、そうやってニーチェにふれた読者の中には、「じゃあきちんとニーチェを読んでみよう。」ってんで、ちくま学芸文庫版の全集に手を伸ばす人が数%はいるかも知れぬし、そういった機縁になるのなら、これはこれでアリなのかなあ、と自分を宥めてみたりもするんですが。
 つまらぬ例を出してしまいましたけれども、ニーチェですらそうなんだから、「信仰」の対象である親鸞さんと真摯に向き合っている方々からすれば、《非―信》の側から親鸞について聞いたふうなことをいうこと自体がもう僭越じゃないかとは恐れてます。むろん吉本さんとか、三木清とか、そういった人たちとぼくなんかとではレベルがぜんぜん違うわけだけど、それでも、《非―信》の側にいるってことは確かですから。
 ただ、そういった凡夫凡婦をも峻拒せず、やわらかく包摂してくれるのが親鸞さんじゃないのかなって親しみは前々から持っていて、その感じは、ぼくが読んだかぎりでは、古今東西の宗教者のなかでたしかに親鸞さんだけですね。だから、これはほんとに「気分を害する」ことになるのではないかと恐れるんですが、もし《信徒》と《それ以外の者たち》とのあいだに垣根を立てて、前者のほうにだけ語りかけるというのであれば、少なくともぼくにとっては、親鸞さんはむろん偉大な宗教者だけれど、それでも、ほかの偉大な宗教者の方々と同じということになります。あくまで垣根のこちら側、つまり《非―信》のサイドから、畏敬の念をもって仰ぎ見るだけ……ということになってしまうわけです。


 ところで、親鸞さんのこととはまた別に、ひとつ切り離して取り上げさせて頂きたいのですが、このたびのコメントのなかの「全人類にとって最終的な大問題である「死の問題」」というフレーズについて、ぼくはすこし引っ掛かりました。これはあるいはバナナフィッシュの話の時からずっと底に流れつづけているテーマじゃないかと思うんですけども、「全人類にとって最終的な大問題」というものがもし在るとするならば、それは「死」ではなくて「生」ではないでしょうか。「いかに生きるか。」ということです。むろんこれは、akiさんには言わずもがなのことであろうし、だからこそ信頼できる先達を介して親鸞と向き合っておられるのだとも思うのですが、すこし「死」が前面に出ているように感じたんですよね……。
 もちろん、


人は死から目を背けているうちは、自己の存在に気を遣(つか)えない。
死というものを自覚できるかどうかが、自分の可能性を見つめて生きる生き方につながる。


 というハイデガー(1889 明治22~ 1976 昭和51。ナチスに加担したとして戦後ドイツでは一時忌避されたが、それでもおそらく20世紀最大の哲学者で、今もなお世界の哲学者たちに影響を与え続けている)のことばもありますし、そのつもりで言っておられるのだとは思うんですけども。



 それにしても、「私は聞法者としては雑念が多すぎて落第者だと思っています。教義については、聞法を重ねてきた結果多少知ってはいますが、親鸞聖人の教えられた他力信心をまだ得てはいません。蓮如上人が言われた「不信心の輩」あるいは「未信の徒」です。」というくだりについては、何ていうか、ほっとしましたよ。だって、そうでなければ、ぼくみたいな凡俗とはたぶん対話が成立しないと思うので。「雑念が多すぎる」からこそアニメもご覧になるんだろうし(ここにいらしたきっかけは『宇宙よりも遠い場所』でしたよね)、ぼくなんかとも話を続けてくださってるんだと思います。それはたいへんありがたいことです。



 それで、「歎異抄第2章」と、「一切皆空」についてですが、上ではあのように述べましたけども、《信》ということはひとまず措いて、文献学的といいますか、解釈学的といいますか、記された文言をあくまでも「テクスト」と見て、それを解釈するってことにかけては私も多少の経験がありますので、あくまで《非―信》の立場からですが、ひきつづきご意見をうかがって、それについてのご返事を述べさせて頂きたく思います。こちらこそよろしくお願いします。それから、米大統領選はもちろん、「指し掛け」になっている「中国」の話や「軍事」の話など、このたびの件が一段落したら、また色々とこのような形でお話が続けられたら幸いです。それでは。




この記事の続き。
20.11.16 akiさんからのコメントと、ぼくからのご返事「司馬さんとミシマの威を借りて」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/0422f9a8d7c631d86cef4b3b0a7d1e74










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