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ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

佐藤優『功利主義者の読書術』/情報の集積体としての小説

2016-06-25 | 哲学/思想/社会学
初出 2013年06月


 佐藤優という人の根底には神学がある。それはプロテスタント神学を基盤としているが、むろん、裏打ちとしてキリスト教の全史にわたる該博な知識がある。日本の著述家としては稀有なことだ。カトリックの信仰をもつ小説家はけっこう多いし、キリスト教とふかく交わっているモノカキは、小説家以外にもきっと少なくないはずだが、しかし佐藤氏ほどに「神学」の厚みを前面に出して思索を織り成している評論家/批評家はいない。宗教業界で仕事をしている方々は別だ。あくまでも一般の読書人に向けて文章を発表している人の話である。

 ぼくが初めて氏の著作を読んだのは新潮文庫の『自壊する帝国』であったが、この本を店頭でぱらぱらとめくってすぐにレジへと持っていったのも、ロシアに興味があったからではなく(佐藤氏はいわゆるムネオ疑惑に連座して逮捕されるまでは外務省の分析官で、ソ連を担当していた。ここでの「帝国」とはソビエト連邦のことである)、この書物に充溢している「神学」の空気に強く惹かれたからだった。ぼくはニーチェが好きで昔から読んでいるけれど、読めば読むほど自分にキリスト教の素養が欠落しているのを感じて参っていた。キリスト教の凄さを知らずして、「神は死んだ。」の真価が分かろうはずもない。かと言って、神学に特化した専門書は取っ付きにくい。だから佐藤氏の本は、自分の弱点を補うのにうってつけだと思えたのだ。

 『自壊する帝国』の面白さが予想を上回っていたため、続いて『私のマルクス』『甦るロシア帝国』(ともに文春文庫)も、文庫になるなり飛びついて買った。『私のマルクス』は若き日の佐藤氏の思想形成を描く自叙伝ともいうべきもので、より突っ込んだスタイルで神学のことが語られている。氏は1960年生まれで同志社大学の出身だが、神学をまなんでいたために、構造主義やポスト構造主義のような「現代思想」から隔たった場所で思想の礎をつくった。ゆえにポストモダンとも脱構築とも縁がない。どこまでも「近代」のひとである。だからたとえば東浩紀のような人と佐藤優とを比べて(この二人は一回り近く齢が違うが)、どちらが優秀であるかと問われると答に窮するが、少なくとも今のぼくにとっては、佐藤氏のほうが桁外れに重要であるのは間違いない。

 それにしても、神学の徒がマルクスについて熱心に語るというのは奇異なことのように思われるかも知れない。じつは佐藤氏はマルクスを、唯物論者どころか「ユダヤ教とプロテスタンティズムを根源にもつユートピア思想/千年王国思想の受肉体」として読んでいる。このような読みはもちろん佐藤氏のオリジナルではなくて、概説としてはわりと目にするものだ。とはいえ今の日本の著述家の中で、その見解を自己のものとして全身で抱えこんでいる人は佐藤氏しかいないのではないか。

 『功利主義者の読書術』は、ぼくにとって四冊目の佐藤優である。あとがきによれば、「2007年から2009年まで小説新潮に連載されたものを基本に、その他の雑誌に寄稿した論考をいくつか併せて成った一冊」だという。いろいろなことが書かれているが、大きな支柱というべきものは「新自由主義(市場原理主義)批判」である。先述のとおり、佐藤氏は外交官としてソビエト帝国、じゃなかった連邦共和国の末期に立ち会い、共産主義の恐ろしさや愚かしさを厭というほど目の当たりにした。しかしその一方、マルクスを読み込み、資本主義社会に対する根本的な懐疑の念をもずっと抱き続けてきた。どちらに対しても批判的なスタンスを保っている。健全なスタンスを保っている、といっていいだろう。

 これはぼくの要約だが、共産主義社会が「平等」(の幻想)に偏するあまり異常を来たした社会だとすれば、新自由主義(市場原理主義)社会は「自由」に偏するあまり異常を来たした社会である。資本主義というシステム自体にその傾向は内包されているのだが、それでもたとえばケインズ主義のような政策によって、行き過ぎた「競争」にブレーキを掛けることはできた。
 ところがここ十数年来、市場はその歯止めさえ失って、明らかに暴走を続けている。日本のばあい、中韓などの台頭による構造的な不況のゆえに皆がヒステリックになっており、不況から脱却するための改革などと称してさらに新自由主義の方へと傾き、中間層を破壊し貧困層を増大させて、よりいっそう景気を悪化させるというダウンワード・スパイラルに陥っている。そんな危機感を一般ピープルが肌で感じ取ったからこその民主党の政権奪取であったはずなのだが、これが一夜の夢と消え去った今、事態はいよいよ厄介になった。
 アベノミクスが壮大なる茶番であるのは言うまでもない。投機熱ばかり煽っていてもしょうがない。偏在する富をうまく再分配し循環させて、生産と消費を担う中間層を復興させる以外に日本を立て直す手段はない(改めて繰り返すけれど、このパラグラフで述べたのはぼく個人の見解だ。『功利主義者の読書術』の元となる原稿が連載されていた頃、民主党はまだ政権を取ってはいない)。

 『功利主義者の読書術』は、「資本主義の本質とは何か」「大不況時代を生き抜く智慧」「日本の閉塞状況を打破するための視点」という三つの章で新自由主義(市場原理主義)批判を行っている。
 第1章に当る「資本主義の本質とは何か」では、ずばりマルクスその人の主著『資本論』の第一巻と、日本人学者・宇野弘蔵の『資本論に学ぶ』が主に取り上げられる。宇野弘蔵は、マルクスの過剰なイデオロギー部分を廃し、科学的な側面だけを理論化したとされる人だ。第5章「大不況時代を生き抜く智慧」では、再びその宇野弘蔵の『恐慌論』と、マルクスよりももっと前のドイツの経済学者フリードリッヒ・リストの『経済学の国民的体系』が主に取り上げられる(この選択ひとつ見ても、佐藤氏の良い意味での鈍重さが分かる。リストなどという古めかしい経済学者をわざわざ持ち出す人なんて、いまどき滅多にいないだろう)。
 そして最終章「日本の閉塞状況を打破するための視点」では、現代ドイツのおそらくはもっとも有能な社会批評家・ユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』が主に紹介される。

 このハーバーマスは、じつはぼくが卒論に選んだ思想家なのだ。80年代中庸、ちょうどそのころ岩波から出た『近代の哲学的ディスクルス』という本に魅了され、そこで論じられているニーチェの像について考察したのがすなわちぼくの卒論であった。読んで下さった指導教官に(日本でも指折りのニーチェの権威)「君はほんとにニーチェが好きなの?」と問い返されたのが今も記憶に新しい。ニーチェではなく、本当はハーバーマスのほうが好きなんじゃないのかという含意であったろう。それは確かに図星であった。ニーチェは凄い思想家だけど、彼の本を読んでそのままダイレクトかつアクチュアルに現代社会に関わっていくことはできない。どうしても媒介者が要る。むろん相手がニーチェなのだから媒介者もまた超一流でなきゃならないが、それはハーバーマスをおいてほかになかった。ドゥルーズもフーコーもデリダもまたニーチェから多大な影響を受けているけれど、その頃のぼくには、彼らはしっくりこなかった。

 ハーバーマスに濃厚にあって、ドゥルーズやフーコーやデリダに希薄なものはマルクスに対する顧慮だろう。後者の三人にとってのマルクスはニーチェと並ぶ巨大な先行者のひとりでしかないが、ハーバーマスは、マルクス主義の系譜に連なるフランクフルト学派の若い俊英としてキャリアを始めた。だから彼の著作は哲学よりも社会学のほうに近いと言っていいかもしれない。ここで佐藤優が取り上げた『公共性の構造転換』はまさに、日本をも含めた現代社会の病理を抉る社会学の新しい古典というべき一冊だ(原典は1962年刊。翻訳は未来社から第2版が1994年に刊行)。

 『公共性の構造転換』は、タイトルのとおり現代社会における「公共性」について精密に分析した書物だが、この著作を語るためには新たな記事が必要だし、そもそもぼくはまだ読んでいない(高いから)。ここでは佐藤氏の文章を引用させて頂くことで、紹介に代えさせてもらおう。

…………大衆民主主義は事実上、為政者とマスコミによって操作される衆愚政治のようになっている。しかし、市民の側に、自由な討論に基づく公共圏を回復することで、国家の横暴を規制するという気構えが残っている限り、大衆民主主義は、他の政治体制と比較してよりましな制度なのである。/筆者の経験でも、ドイツ、チェコ、イギリス、ロシアの知識人は基本的にテレビを見ない。日本でもテレビのスイッチを切り、活字を読む習慣をもつ人々が増え、その人々が、喫茶店でも、居酒屋でも、井戸端会議でもよいから、自由な討論を深めることによって、日本の民主主義も少しはマシになるのだ。/ハーバーマスが、現代人が公共圏を回復すること心底信じているのかどうか、正直に言って、筆者にはわからない。しかし、公共圏を放り出してしまうと、そこに残るのは金儲けしか考えない市場と、暴力を背景に収奪することしか考えない国家(官僚)による地獄絵しか浮かび上がらないので、最後の望みとしてハーバーマスは公共圏の回復に賭けているのだと筆者は解釈している。

 そういった意味で、ほんとならネットこそが新時代の「公共圏」になるべきなんだろうけど、現実はむしろその期待に逆行しているようだ。今回は新自由主義批判という側面に焦点を絞ったが、『功利主義者の読書術』にはほかにも様々な要素があり、ぼくはもうひとつ大きなアイデアをもらった。それについては次回書きたい。



情報の集積体としての小説

初出 2013年06月



 前回は、佐藤優の『功利主義者の読書術』(新潮文庫)を取り上げ、この本の大きな支柱である「新自由主義(市場原理主義)批判」について述べた。ニッポンの評論家には稀なことながら、佐藤氏の基底にはプロテスタント神学が厳然として存するゆえに、けして軸足がブレることがない。いわゆる脱構築派というか、ポストモダンの若手論客(いちいち名前は挙げない)のように、状況の推移を見てとって、新自由主義だのリバタリアニズムだのに軽々しく与することがないのである。そこのところが好もしく、信頼がおけるとぼくは見ている。

 『功利主義者の読書術』には、沖縄のこととかロシアのこととか、ほかにも色々なことが書かれているが、より本質的なところでぼくが「これは参考にすべきだ」と感じ入ったのは、「情報の集積として小説を読む」ということであった。『坂の上の雲』のような歴史小説や、城山三郎(……はたとえとしてもちょっと古いか。今だったら誰だろう? 池井戸潤あたりか?)のような経済小説を情報源として読むのは自然なことだが、世にいう「純文学」もまた、「情報の集積」として読み解けるし、読み解くべきだ、とぼくは『功利主義者の読書術』を読んで痛感したわけだ。

 ぼくのばあい、自分が純文学にこだわっていることもあり、小説というものをどうしても純化して考えてしまう。そして、純化をぎりぎりと極限に近いところまで絞り上げていけば、はっきり言ってあとにはもう、言語そのものしか残らない。ストーリーやらキャラ造型なんてのは、結局のところ構造化すれば限られたパターンに収斂してしまうのである。これは二十歳の時に観てショックを受けたJ・L・ゴダールや、作家でいえばモーリス・ブランショあたりの影響だと思うが、とにかくわりあい若い頃から自分にはそういう傾向があった。これが高じればどうなるかというと、小説はどんどん散文詩に近づくわけである。

 その結果として、「小説とは、言語を使って何ができるかの実験場なり。」という定義を以前ブログに書いたりもしたわけだが、そんな信条で30年近くやってきたあげく未だ新人賞ひとつ取れないところを見ると、この方針はあまり人にはお勧めできない気がする。やはり小説は散文詩とは別物であって、扱う素材も重要なのだ。素材というのはいわば言語と社会とが出会う時に発するノイズ(夾雑物)なのであり、やすやすとは構造化されないノイズこそが小説の生命線(のひとつ)なのかも知れない。最近になってようやくそのような認識に至った。まあ一周か、下手すると二、三周くらいして当たり前の地点に帰ってきた感もあるが。

 『功利主義者の読書術』で扱われる本は、お堅い資料ももちろんあるが、文芸評論や軽いエッセイ、告白本やマンガなども含まれている。フィクションも多くて、はっきりと小説に分類されるものだけでも、綿矢りさ『夢を与える』(資本主義の本質とは何か)、チャペック『山椒魚戦争』(論戦に勝つテクニック)、五味川純平『孤独の賭け』/高橋和巳『我が心は石にあらず』(実践的恋愛術を伝授してくれる本)、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』/大城立裕『カクテル・パーティー』(「交渉の達人」になるための参考書)、小林多喜二『蟹工船』(大不況時代を生き抜く智慧)、高橋和巳『邪宗門』(「世直しの罠」に嵌らないために)、チャンドラー『長いお別れ』(清水俊二訳)『ロング・グッドバイ』(村上春樹訳)(人間の本性を見抜くテクニック)、池上永一『テンペスト』(「沖縄問題」の本質を知るための参考書)、ソルジェニーツィン『イワン・デニソーヴィッチの一日』(再び超大国化を目論むロシアの行方)……といった具合だ。よく言えば多彩、悪く言えば取りとめがなく、プロの文芸批評家だったらなかなかこういう選択はできない。そこがまた貴重なのでもある。

 論戦に勝つとか交渉の達人になるとか、はては実践的恋愛術の指南とか、これはほんとに著者本人が付けたのだろうか、編集者の差し金じゃないのかと勘ぐりたくもなるが、こういったハウツー本っぽいサブタイトルはあまり本編と関係がない。良かれ悪しかれ、どの章にも明日使える知識ではなく、より深いレベルで思索を促す論考が詰まっていることをこの本の名誉のために書き添えておく。それはともかく、これらの小説に付された佐藤氏の解説を読んで、小説というのはフィクションでありながら、いや、むしろフィクションであるからこそ、読み手の力量如何によってずいぶんと「役に立つ」ものだとつくづく思った。

 べたべたのリアリズムで書かれたものにかぎらず、仮に幻想小説、実験小説の類いであっても、小説というものは書かれた時代の空気を濃密に写す。社会、政治、風景、世相、風俗、職場、家庭、そこに暮らす人々の交わり、さまざまな心情や会話、また毎日の雑多な思い、感情のもつれ……。同時代の小説ばかり目にしているとつい忘れてしまいがちだが、古い作品や遠く離れた異国の作品などを読むとき、あらためて、新鮮な感じでそのことに気づく。小説ってのはやっぱり凄いメディアだぞと思う。また、たとえ文学史的には価値が低いとして忘却された作品であっても、一つの時代の資料として、証言として、何度でも召喚されるべきだとも思う。

 ぼくが『功利主義者の読書術』から学んだ二つ目のこととは以上のとおりだが、講談社文芸文庫の『戦後短編小説再発見』シリーズ全18巻に収められた短編群を、いずれそのような視点から読み解いてみたいと考えている。



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