栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

きよちゃんのエッセイ (177)”八十歳”(Okubo_Kiyokuni)

2023年10月13日 | 大久保(清)

 八十歳  

強い風が吹けば飛ばされそうな華奢な体つきだが、とても明るい性格で、まるで、元気が洋服を着ているようなお婆ちゃんが教会のコーヒーショップの前に立った。今朝は、なんだか嬉しそう、でも、ちょっと恥ずかしそうな雰囲気で、こちらの反応をうかがうような目をして、そっと囁いてこられた。「わたし、今日から、八十なの、八十歳は、はじめて」どこか、あっけらかんとした、その新鮮な音の響きに、一瞬、面喰ったが、そうなんだ、八十歳はだれでも一度だけの経験、それなりの覚悟をもって臨む、未知の世界なのだ、と、その吹っ切れたような笑顔に老女の強い思いが感じとれ、八十歳という言葉をからだの芯で受けとめなおした。いつも他人事のように聞き流していたが、こちらも、いずれ八十歳になる。そろそろ人生の行き止まりがはっきりと視界に見え始めてくる年齢、世の中では死はありふれた出来事だが、自分にとって、それは初めての経験。いや、経験とは自分が認識できる出来事ゆえ経験ではなく、何なんだろうか。いつかは訪れるはずの自分とのお別れの日。まだまだと、その日を頭の隅に追いやりつつ、惰性のように、一日、一日をやり過ごしてきてきたが、八十歳はいつもの冥途への一里塚とは違い、もう少し重みのある年齢かもしれない。振り返ってみると、六十歳の還暦まではそれなりの時間がかかったように思えたが、それから古希を迎えるまでの十年が思いのほかに早かった。それは、生きてきた年数を母数として、今の一年を割り込んで見るために、年齢が増すにつれて、からだの感じる一年の経過時間が早くなるらしい。七歳の少年の一年は七分の一年、七十歳の一年は七十分の一年に過ぎない。7倍も速いのだ。なんだか、わかるような気もする。乗り物で言えば、七十歳は新幹線、十代は自転車だったのだろうか。

むかし、七十歳はかなりのお齢と認識されていたものだが、コーヒーテーブルに座るお客様を見渡すと、七十歳を通り越し、八十の大台に近い方、既に大きく回り終えた方ばかりだ。皆、健康に恵まれて、教会の教えを守り、あの世への準備も万全なのか、これほど超高齢者が集合すると、なぜか、七十代はまだ鼻たれ小僧に見えてくる不思議な世界。おそらく、八十代はリニアーカーのスピードで歳をとるかもしれない。あっという間に。百歳の計点越えを達成する仲間も出てくることだろう。

 

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