栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

きよちゃんのエッセイ (123) ””霧のサンフランシスコ(Okubo_Kiyokuni)

2020年06月28日 | 大久保(清)

 霧のサンフランシスコ

 5月の連休の直前にサンフランシスコ出張を命じられた。アメリカならでは の、陽気なお喋りを交えた入国審査を終え、空港ビルより外に出るとカリフォルニアの空はあくまで青く、太陽もサンサンと輝いている割に、肌寒く風がいやに冷たい。夏服で来たが風邪をひくかもしれない。

摩天楼に囲まれたニューヨークと違い、落ち着いた街並みが日本からのおのぼりさんにも馴染みやすい感じだ。よく見ると、サンフランシスコ大地震の爪跡らしき光景も所々に目につくが、表通りの復旧は終わっている印象を受ける。相乗りリムジンの後部座席に陣取り車窓の風景を楽しんでいるうちに、空港から順番に降りてきた乗客も二人だけになった。

『ホテル、グリフォン! グリフォン!』

運転手が後ろを向いて大声で叫んでいる。私の泊まるホテルだ。幅広のパイロットケースとジャケットバッグを提げて、狭いバス扉から歩道に降りる。黒光りのする重そうなドアを押すと、小さなダイニングとバーカウンターらしきものが目に入る。

 時差もあり、アメリカに緊張したのか眠りも浅くからだが重い。バーカウンターに用意されたコーヒーとドーナッツでアメリカ流の朝食をすませ、同宿の福沢さんとアメリカ側の幹事会社であるベクテルに向かった。

パナマ運河調査のメンバーが揃ったところで全体会議が行われたが、時差のせいだろうか、ものすごい睡魔に襲われ本場の英語も聞き取りづらく、何を議論しているのかさっぱり分からないうちに会議は終了する。それからは昼時になると上瞼が下瞼に近づく日々が続いていた。

いつものように福沢さんと一緒にホテルをでる。K銀行からの出向の福沢さんも、“第二パナマ運河計画”の共同スタッフである。事務所に向かう道すがらの会話の中でK大学出身と分かり、にわかに彼のルーツが気になり始めた。今が、聞きどきかと、前を向きながら街の騒音に紛れてさりげなく質問した。

『もしかすると、“あの福沢諭吉の家系”?』

『そうです』と軽やかな返事が戻ってきた。

ヤフーで調べてみると、福沢諭吉は万延元年(1860)遣米使節として咸臨丸でサンフランシスコに訪れている。諭吉が訪ねてから百年以上経って彼がまた海運の仕事でサンフランシスコを訪れるのは何か縁があるのだろうか。少し大げさだが、アメリカと日本の関係を知った一日である。

仕事はそれなりに進み、週末の休日、アメリカに永住されている福沢さんの親戚に招かれた。ケーブルカーを上りつめた丘の上に立つ日本とアメリカ建築の折衷のようなかなり古い家に住まわれている。太平洋戦争勃発の際に、強制収容所に連れて行かれ、かなり苦しい体験をされたらしい。抑留された日本人の話は本では読んでいたが、アメリカの土地でお手製のいなり寿司をほおばりつつ、歴史の生き証人から収容所時代のアルバムを見せられながら説明されるうちに、活字を通して知っていた歴史の風が、からだの中を通り抜けてゆくような、日本とアメリカの関係が身近なものとして迫ってきた。

 もう一つの思い出は野球観戦である。読売巨人軍で活躍していたジョンソンがサンフランシスコ・ジャイアンツの監督をしていた。何か不思議な縁で、日本とアメリカのつながりをここでも実感させられた。野球場に行く日は天気も良く、近くの公園やデパートを見て回っていた。通りを歩いていると、なにやら、無流配布をしている。仕事もほぼ終わり少し浮かれた気分で説明書も読まず、きれいな箱からキャンディーを一粒ずつ取り出してはなめていた。

試合の開始時間が近づくと、子供も大人もグローブ持参でボールパークに集まりだす。殆どの観客は防寒用の毛布も持っている。野球場はしんしんと冷えてきた。おのぼりさんは寒さ対策など、なんの用意もなく、ホット・チョコレートで懸命に寒さをしのいでいたのだが・・・・

この頃から、また瞼がくっつきはじめた。時差はこの頃は解消していたはずだが・・・、

それとは違う眠たさである。最後のキャンディーを取り出すのを隣で見ていた福沢さんが怪訝な顔で訊いてきた。

『それ、全部食べちゃったんですか?』

『全部食べちゃったけどー』

『知らなかったんですかー、それ、酔い止め薬の宣伝キャンディーですよー』、

アメリカ慣れした福沢さんの唖然とした顔が印象的。試合の経過どころの騒ぎではない、睡魔との闘いがまた始まった。酔い止め薬は眠り薬とは効能がとても近いどころか、一箱、全量呑み込めば睡眠薬そのものなのだ。

時差ボケに睡眠薬の効果が重なり、本当に=霧のサンフランシスコ=の出張であったが、いろいろ勉強もした。アメリカがより身近に感じられてきた。福沢家ゆかりの人ともお知り合いになり、一万円札の福沢諭吉さんがなんだかとても近しい人に見えてきた。

 

コメント
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