栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

きよちゃんのエッセイ (30) ”札幌の下宿屋” (Okubo_kiyokuni)

2015年05月29日 | 大久保(清)

札幌の下宿屋

 大学生活の四年間を札幌で過ごした。北十六条西0丁目、市電通りに近く、大学まで歩いていける便利な場所にその下宿屋はあった。少し煤けた木造モルタル作りの二階建ての屋根には、まだ雪が積もり、早春の東京から来た新参者を少し戸惑わせた。 

 教養課程の体育ではスキーが必修科目である。生まれて始めてスキーの板を履くが、クラーク像の横の緩いスロープも滑れない。転ばないと止まらない。一人発奮して、直滑降で止められる技を磨くべく荒井山というただの山で黙々と練習した。少し自信がついた週末、藻岩山にいっぱしの顔で乗り込んだが、春山でぬかっていた傾斜地に突っ込み、踝を骨折したらしい。見る見るうちに膨れ上がり、友達の肩を借りて北大病院に転げ込む。

 研修医の実験台と言う裏技で殆ど治療費を請求されずに、ギブスで固定され松葉杖を突きながら下宿にたどり着いた。ここからが大変だったが、大変なのは下宿屋の家族なのだ。女主人は、やり手のおばさんそのものであったが、娘達は父親に似たのか優しく、可愛い顔立ちをしていた。長女はー京マチ子のまち子、次女はー山本富士子の富士子、三女はー香川京子の京子と、両親の期待を背負った末恐ろしい名前ばかりである。彼女らは親のしつけも宜しく、毎朝、オマルをとりにくる。和式トイレは当分無理なのだ。

 今振り返ってみると、長女は小学校5-6年生、三女は幼稚園ぐらいであったろう。よくやってくれたとつくづく思い返す。夕張の田舎から出てきて、札幌の都会で下宿屋を始め、北海道の人たちの懐の深さを感じる思い出でもある。

 下宿屋の顔ぶれは面白かった。隣は、女子大生二人で、四畳半に住み、その隣は精神科医のインターン、その隣はめっぽう綺麗な女性で、00に鶴とみんなで言い合っていた。二階に上がると、ダンプの運転手が記憶に残る。札幌の冬はダンスパーティーが盛んであった時代、夕食後、彼の部屋はダンス教室に変身する。キャバレーで仕込んだYMCAでは味わえないプロのステップを特訓してくれる。夜の下宿は、大学生、銀行員、医者の卵、教員などさまざまな人生の出会いの場でもあった。 

 卒業から三十年が過ぎ、札幌を訪れる機会があった。下宿屋の引き戸を開けると、玄関いっぱいに靴が散らかり、昔のままだ。-―ごめん下さいー、と呼んでみるが、返事はない。

 山本富士子でも、香川京子でも出てこないかなーとドキドキしながら待っていた。返事がなく静かである。夢は夢で楽しむものだと、少しがっかりしつつも、夢が破れないうちに、ソット戸を締めて通りに戻った。

コメント
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