布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

流山の義賊金市と閻魔堂

2007-12-27 | 歴史
1月16日は、7月16日と並んで、閻魔大王の地獄の釜の蓋をあける日だといいます。つまり、年2回の休息日ということらしいのです。だからと言って、悪業をして良いわけではありませんが、この日に閻魔参りすると良いことがあるのでしょうかね。昔から、これらの日に、特に参詣者が多かったといわれています。
そして、この閻魔堂が流山にあるのをご存知でしょうか。
総武流山電鉄流山駅から徒歩6分のところに写真のような看板が出ている閻魔堂があります。この看板は、見る者に自らの普段の行状を見返えさせる強いインパクトを与えます。狭い道路沿いにお墓と一緒にお堂があり、そのお堂の中に強面の座像の閻魔大王が安置されておりました。ここの閻魔様は、江戸時代のもので、200年以上経ているそうです。閻魔大王は地獄にあって死人の生前の罪状をあばき、様々な責苦にあわせる大王といわれ、子供の頃は、大人たちに嘘を付くと舌を抜かれるぞと良く脅かされものです。
この閻魔堂と向かい合って金子市之丞なるものの墓が碑とともにあります。私は、この人がどういう人か知りませんでしたので、ちょいとどんな人か調べてみました。
そしたら、義賊と言われた盗人の墓らしい。明和6年(1769)流山の酒造家金子屋の一人息子として生まれたのが金子市之丞だそうです。この人は、幼くして父親を亡し、母との貧しい生活に耐えられず、盗賊にまで身を落としたそうです。ところが、盗みに入るのは金持ちの屋敷ばかりで、しかも盗んだ金を貧しい家にばらまいて歩き、天明の大飢饉にはその金で飢えた人々を救ったともいわれています。
そんな市之丞を、地元の人々はいつしか、「ビン小僧の金市」と呼ぶようになったとか。そう義賊ねずみ小僧の流山版ですかね。
しかし、悪事はいつまで続かず、やがて金市は捕らえられ、処刑されてしまいます。そこで、金市を慕う人々は、その亡骸をこっそり引き取り、彼の義行を偲んでふるさと流山のこの墓地に手厚く葬ったということらしいのです。
しかも尾ひれがついて、市之蒸の隣にある墓は、市之蒸と恋仲だったといわれる遊女三千歳の墓といわれ、「離れていてはさびしかろう」と明治に入ってから地元の人々によって建てられたものといわれています。一方で、いやそうではなく、三千歳は腹違いの妹だという人もいるが、いずれも定かではありません。そして、この金子市之蒸が、天保六花撰で義賊と言われる金子市之丞なのですが、先に述べたように本当に義賊であったかは疑わしいですね。それにしても、住宅街のど真ん中に「閻魔堂」の看板には、どきもを抜かされ、悪行をせぬよう戒めを胸にきちんとたたみ込みました。念のため、このお墓の駅よりの方面に、近藤勇が本陣をおいたという長岡屋があります。距離は100メートルくらいでしょうかね。鬼の近藤と強面の閻魔様、2つ並んで、結構、マッチしている感じですね?
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