季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

日本語のために 2

2014年02月17日 | 
「日本のために」を書いてから誰もが忘れたころに「2」がやってくる。僕のスローペースぶりは18世紀並だね。ベートーヴェンが「先日はお手紙ありがとう」なんて一年近く経ってから返事をしているでしょう、たしか。ああいうペースがいいね。金婚式過ぎてから「結婚しました」なんて通知がいったら面白かろう。生まれる前に性別が分かってしまう忙しい時代に逆行しているようだな。

大風呂敷を広げたところで。忘れてしまった方はどうぞ遡ってお読みください。いつ書いたか本人は忘れているが。

と書いて、いくらなんでも不親切だと思い直して自分で探してみた。2008年7月14日「丸谷才一 日本語のために」という記事。(クリックすればそれが開くようにできるのは承知している。その方法を教えてもらった。ただ忘れてしまった。道具というものは使い続けて初めて道具になると痛感する)
注)最近また知ったからリンクするようにしてある。人間、進歩するものだ。

テクニックを用いずに早速引用する。丸谷さんは旧仮名で書いていて、その通りに書き写したいのだが、それ用のソフトは(手許に)無い。現代仮名にせざるを得ない。


 わたしの見たところでは、教科書にぜったい選ばれない二種類の詩がある。一つは言葉遊びの詩で、これは堀口大學の「数えうた」や岩田宏の諸作品はあるにせよ、一体に明治以後の詩人が不得手なものだから仕方がないかもしれぬ。しかし、教科書に決して載らないもう一つの詩、恋愛詩となると話は違う。恋を歌わなかった詩人は、蚤取りまなこで探しても見つからないくらいではないか。

丸谷さんがこの本を書いてからいったい何十年経つのか。上記のうち言葉遊びの方はかなり取り入れられた。かっぱかっぱらった、かっぱらっぱかっぱらった、とってちってた、なんて谷川俊太郎の作品を知っている人は多い。

しかし恋愛詩に関しては未だに変わっていないようだ。なにをびくびくするのだろう。万葉集などを挙げるまでもない、現在生きている中学生、高校生(いや、小学生だって)もいちばん身近に知っている、切実な感情のひとつではないか。

音楽の教科書にも通じる臆病さだ。例えばシューベルトを紹介する。まぁ良い。その是非は他のところで存分にしたい。

今の教科書には「魔王」が載っているのが多いようだ。昔は「野ばら」だった。

これらが悪いとは思わない。それどころか、僕は大変に好きである。だが、これらは直感的に掴むことが容易な曲だろうか?「野ばら」の詩はゲーテ作だが、これは簡単な詩だろうか。

詩にしても曲にしても、一見余りに平易である。退屈する生徒が殆んどではないだろうか?あるいはありきたりの「安全な」感想でも書いてお終いだ。まるで予定調和だけが学校の狙いであるかのようだ。

とは言うものの「糸を紡ぐグレートヒェン」などが教科書に載ることは天地が逆さまになってもあり得ないだろう。

でもなぜ?という問いかけには殆んどの人が「だってネェ」と頷きあうだけだろう。答えは簡単さ。クライマックスの「そしてあの方のキス!」というのが躊躇いの一番大きな原因だ。

確かにこの箇所の激しさは並外れている。憧れ、不安、官能が捩り合いながら達する頂点。

安心してもらいたい。僕はこの曲を鑑賞曲に、と主張するわけではない。僕を知る人は皆知るように、僕は至って穏健な人間だ。

だが、何かの拍子にこの曲を中高生が知ったら、普段取り澄まして、教養の代表のように思っている「クラシック」が、実は驚くほど激しいものだと知って、他の曲にも関心を持つようになるかも知れない。

ここからもうひとつ、丸谷さんの文章で大切だと思われることに触れて行きたいのだが、余りに長くなるからその3に譲る。ということは10年後かい?いやいや、僕の身体がもたぬ。なるべく早めに書こう。









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