パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

第十七捕虜収容所

2013-01-13 22:55:01 | Weblog
 単行本「写真私史――徐々に無限に向かって」(仮題)の原稿を試読してもらおうと思って、数人の方に送ったのだが、何しろ分厚くて、25万字以上あるから、簡単に読めるわけはないし、内容的にも、かなり小難しく、まあともかく「何かやろうとしているな」と知っていただくくらいでいいとは思っているのだが、でも、期待するところもないではないのだ。

 そんなことを思っていたら、電話がかかってきて、「今、つきました」という声が。

 「勝手なことをしてすみませんでした。何しろ分厚いし、読むのが大変だとは思いますが、いかがでしたでしょうか」と言うと、「あ、ちょっと待ってください、今見ますから……」

 という声とともに、郵便(ヤマトのメール便だが)の袋を破いているような、ガソゴソ音がする。

 借金の申し込みとか、そういう内容だったら、別だが、そういうものではないし、「かなり小難しいことも書いてあるので、今すぐのご返事は結構ですので、一部でも読んでいただいて、後で感想をいただければ……」と言ったが、先方は、電話から耳を放してしまっているらしく、シーンとしたままである。

 電話口に戻ってきたら、先ほどのことを改めて言おうと思いながら、待っていたが、無音のままである。

 あれ? おかしいな?

 と思っていたら、自分が布団のなかにいることを発見した。

 「夢」だったのだ。

 自分が「布団の中にいる」ことは、はじめからわかっていたが、わかっていながら、電話は現実にかかってきたので、夢ではないと布団の中で思っていた。

 ここら辺が夢の不思議なところだと思うが、しかし、「声」だけの夢ははじめてだ。

 でもそのリアルさは、「見る夢」とまったく変わりがない、というか、それ以上だった。

 MXテレビで、「第十七捕虜収容所」を見る。

 ストーリー的には、収容所にスパイとして潜り込んだドイツ人をどうやって見つけるかというミステリーと言ってもいいもので、最後に、そのスパイの正体が発覚し、脱走者として警備兵に射殺されるように企む最後は、今見るともう少し工夫があってもいいのではないかと思ったが、でも欧米における社会のあり方が如実に現れているようで、また娯楽映画としても大変に面白いものだったが、何よりも、スタージェスの「大脱走」が(マックィーンの「大脱走」とは決して言わないぞ、マックィーンはかっこよかったけど、あれはスタージェスの映画だ)「第十七捕虜収容所」をベースにした作品であることがはっきりわかることに驚くとともに、思った。

 「映画」って、メタ的なものなんだな、と。

あれもこれも

2013-01-11 18:05:03 | Weblog
 ここに来て急激に寒い。

 石油ストーブが禁止で、エアコンなのだが、エアコンは部屋が乾燥してしまうのであまり好きでない。

 ガスストーブがいいのだが、ガスは風呂限定のようで、部屋にコンセントがない。

 しょうがないので、受験生が使っているような、小さい電気ストーブをつけた上で、エアコンを動かしているのだが、石油ストーブがやっぱり一番いい。

 あの灯油の臭いが好きで、当初、こっそり家主に隠れて使っていたら、ある日、突然訪ねてきた大家に、その「臭い」で見つかってしまい「契約違反だ。出ていけ!」と怒鳴られてしまった。

 抗弁できないので、平謝りに謝り、追い出されることだけは勘弁してもらったが、以来、不自由な日々だ。

 部屋の蛍光灯も、リングが二つついているのだが、その大きい方がつかない。

 それで蛍光灯を買ってつけたが、点灯しない。

 それで、これはスタートランプが切れたのだろうと思って、それも新しいのを買ったが、それでも点灯しない。

 考えられる限り、いろいろやってみたが、ダメなので、照明装置全体を買い替えるしかないと思ったが、全部取っ替えても、依然ダメという状況をになりそうで、手元が暗いのを我慢している。

 大体、照明器具の不具合は、大家にねじ込めば大家が処置してくれそうに思うのだが、あの嫌みな大家と交渉するのかと思うと、気持ちがなえる。

 そんな嫌な気持ちを味わうくらいなら、最近話題の低消費ランプに買い替えてしまおうかとも考える。

 多分電気代はせいぜい数百円円ぐらいしか安くならないだろうが、そもそも、どれくらい明るいのか、それもわからないし、と、ためらいつつ、一年。

 その他、IH調理器具も調子が悪いし、フライパンも、すぐに焦げ付くので、通販番組でやっているようなのが欲しいと思うが、あれも司会者はうまく使っているが、いざ実際に買ったらとたんにダメになりそうな予感がして、ためらわれる。

 いきなり話が変わるが、自民の二階が調子に乗って、紀伊半島を一周する高速道路計画を叫んでいる。

 大昔、高校の卒業記念に友達と紀伊半島を一周したことを思い出す。

 白浜温泉が、関西では東京における箱根、熱海なみに有名なことを知ったとか、那智の滝が、水不足で一滴も落ちてこなかったとか、そんなことを思い出すが、あそこを一周というのは、伊豆半島一周の倍くらいのスケールと考えていいのだろうか。

 いずれにせよ、高速道路をつくり、新幹線を張り巡らしたが、それで地方が豊かになったのか。

 いや、地方はある程度豊かなのだが、しかし次につながる豊かさとはほど遠いように思う。

 地方に残っているじいさんばあさんの住んでいる家は「なんでも鑑定団」で見る限り、概して立派だ。

 でも、それあ、そんなにいいことではないだろう。

 なぜなら、その「立派さ」は結局、中央政府の補助金が主な財源だろうし、そのことは、その家の子供たちが地元で仕事が見つからず、家を離れて都会に行き、家に住んでいるのは老人ばかり、ということで明らかだ。

 私は東京生まれで、両親も東京生まれだから、田舎の実情というものをまったく知らないのだけれど、今、ニュースステーションで古賀氏が言っていたが、中央政府が金をくれると言うからには、もらっておかないと損だ、選挙にも通らない、ということでまたぞろの無駄な公共事業が復活しかねない。

 二階が執念を燃やしていると言う、紀伊半島一周高速道路も、期待を込めて「ぜひ!」と言っていたのは地元の温泉旅館の女将だった。

 つくりたければつくればいいのだが、それは地元自治体が自分たちの責任でやるべきだろう。

 今の雰囲気では明らかにそうではなく、補助金が出るのなら、もらいたいという姿勢が明白だ。

 やはり、地方分権がカギだ。

 中央官僚は、地方分権を実施すると格差が生じるという理由で猛反対する。

 いや、あんなのは結局、自分たちの力が殺がれることを恐れているのだ、と考える人もいるだろうが、私はそうは思わない。

 かれらは「格差」はよくないとまじめに考えて、そう言っているのだが、私はそれが間違えていると言いたい。

 地方で格差が生じるのは、人間の間に格差が生じるのと同じで、やむをえないというか、当たり前なのだ。

 何も、県同士で日本一を競えというのではなく、それこそ「あの花もこの花もそれぞれきれいだね」でいいではないか。

 ちょっと昔、高速バスを」ハイジャックした高校生がナイフで人を殺したことがあったが、あの事件のバスの運転手の福岡の自宅がテレビに映っていて、それが実に立派な、社長クラスの家だったのでびっくりしたことがある。

 実はあれが、戦後高度成長を支えた自民党の「持ち家政策」の成果なのだが、見て、なんか変だと思った。

 運転手風情が、なんて言うと物議をかもすかもしれないが、バスの運ちゃんは、低所得者向けのアパートで、貧しく、正しく、生きるのがいいのだ。

 ところが日本には、その低所得者向け住宅というのが、「持ち家政策」の結果、実質的に存在しない。

 あの西鉄バスの運ちゃんのように働けば皆、豪華な総二階建ての高級住宅に住めるようになる、というのが持ち家政策だったが、それは、実は根本的に間違えていると私は言いたいのだ。

 なんだか、結局、またここに話が落ちてきた。

 「貧乏は、正しい」と。

 正しく生きようと思ったら、貧乏でなければならないのだ。
 

何か忘れていませんか

2013-01-07 02:29:24 | Weblog
 和食を「世界文化遺産」に登録するよう、国連に積極的に働きかけるそうだが、本気か?

 「食」というのは、人間が生きていくためにはどうしても不可欠なものだが、それはあらゆる生物がそうだという意味でそうなので、「文化」としてありうるものかどうか、それすら疑問だ。

 テレビを見ると毎日毎日、食ってばかり。

 人が大口開けて食っているところは、決して美しいものではない。

 というか、「醜い」もの。

 日本映画、は食ってばかりだ、とは、日本映画、ドラマに対する批判の決まり文句だったのだが、そんな批判にさらされていることはどこ吹く風で、「世界遺産」申請にまで行ってしまった、というか、来てしまったというか。

 ちょっと前、一年くらい前だったが、水産省だか総務省だかが、「和食パトロール隊」をつくって、世界の和食レストランを検査すると言い出して、世界から失笑されて立ち消えになったと思ったが、どっこいそれがエスカレートして、「世界遺産申請」になったわけだ。

 ちょっと前、若い男性がお茶漬けか何かを、むしゃむしゃ音が出るように食べるCMがあって、「あれがいい」「きらいだ」という二派にわかれたことがあったが、当然私は否定派で、あれを「いい」という人がいることが信じられなかったが、本当に世の中、気に食わぬ方向に進むばかりだ。

 Eテレで、「日本人が考えてきたこと」とか、そういうタイトルの番組があって、結構面白いのだが、それに河上肇と、そのライバルで、福田某とかいう経済学者がいたんだそうだ。

 河上肇は、共産党に憧れていたが、思想的にはそこまでついていけず、結局、今の社民党、あるいは民主党も含めていいのかもしれないが、その元祖みたいな存在で、一方の福田は、自由派で、たとえば関税にしても、河上肇は国内の農家を含む生産者を守るために必要という立場で、一方の福田は「関税は物価を上げるのだから、消費者のためにならない」ので原則廃止、という立場だったらしい。

 実はこの番組は再放送で、前の放送も少し見たのだが、今回は見逃したところを見れたかたちになって、そこで、福田がヨーロッパに留学した際、ブレンターノに教わっていたことを知った。

 ブレンターノというのは、哲学者嫌いでしられるフロイトが唯一私淑していたことで有名だが、現代思想の源流の一人で、フッサールに学んだ日本人は多いが、ブレンターノに学んだという人はあまり聞かないので、「つごい」と感心したのだが、番組は、ブレンターノに言及することなく、ひたすら河上肇のライバルで通した。

 河上肇の「貧乏物語」は、私も古本屋のワゴンセールで買い、読んだことはあるが、「資本主義が勃興して以来、社会の富は増大したはずなのに、貧乏人が多数現出したのはなぜか」という冒頭の文句はよく覚えていて、「なるほど」と思ったのだが、それ以外は、特に印象に残るような箇所はなかった。

 要するに思想家として、「これは!」と思わせるような鋭さはなと思ったが、福田某はそれがありそうだったが、その思想は結局、日の目を見ることなかったということなのだろう。

 テレビでは、東京オリンピック招致の話題を取り上げ、「鍵は、東京都民が支持するかどうかです」とニュースで言っていたが、どう考えても鍵は原発だと思うが。

 大会期間中に地震がないとはいえない。

 というか、政府の発表では、70パーセント以上の確率で大地震があるのだが、それにどう対処するのか、いや、その前に、事故処理が現在どうなっているのか、放射能はどうなのか、オリンピックを開催するとしたら、どんな対策を用意しているのか、招致委員会では要求されると思うが、対策はあるのだろうか。

 それを含めての「原発招致」…じゃなかった「五輪招致」だと思うのだが。

 安全に自信があるのなら、そうはっきり言えばいいし、多分外国では言うのだろうが、日本では反発されるので言わないし、報道も控えるのだろう。

 奇妙だ。

我慢と自慢

2013-01-03 14:36:01 | Weblog
 大晦日の内山高志のノックアウトはすごかった。

 去年の大晦日も、内山はノックアウトで勝ったのだった。

 スポーツ中継といえば、一ヶ月近く前に見た、ラグビーの天理大学対同志社だったと思うが、もすごかった。

 再来年だかにラグビーのワールドカップをやるということで、相当、強化に努めているのだと思うが、体格が以前に比べて「ものすごいことになっている」感が強い。

 元日には、大学選手権の準々決勝あたりで、早稲田が帝京大学とやっていたが、前半の30分あたりで、早稲田が10対0で勝っていたが、体格が帝京にまったく見劣りするので、このままではすまないだろうと思っていたら、案の定、後半になったら帝京がどんどんトライを重ね、屈辱的な敗戦を喫した。

 正月はスポーツ中継しか見るものがない、と思っている人は多いと思う。

 実際、20年位前までは、結構正月の特番は面白いものが多かった。

 ところが、その正月特番が評判がいいもので、テレビ局はその「特番」を通常番組に持ってきてしまった。

 正月特番が面白かったのは、年に一回だからなのだ。

 年に一回ぐらいは、大はしゃぎしてもいいだろうが、年がら年中、お正月のように「芸人」どもが大はしゃぎすることになってしまい、正月ではない、日常を生きている当方としては大いに白けて見るしかない。

 というわけで、見てないのだけれど、でも、チャンネルを変える、その瞬間的には見るわけで。

 そんなわけで、スポーツ中継の他は、Eテレを中心に見ることになるが、イタリア語講座の今井翼が「かっこいい!」のは、前に書いたか。

 まちがい、今井はスペイン語講座で、イタリア語は、高橋某だった。

 なんというクイズ番組だったか、名前は忘れたが、唐沢俊一の「トリビアネタ」をパクったようなクイズ番組といえばおわかりだろうが、あの背の高いほうの高橋がイタリア語講座で、これが案外、かっこいい。

 アシスタント的に出ている凸凹コンビのイタリア人女性も、なんだか、満更でなさそうな顔をしているような。

 そのEテレで、昨日、マークサンデルの「ハーバード白熱教室」の日本版をやっていた。

 サンデルが日本で、「白熱教室」をやるという趣向だが、私は最後の最後しか見ていないのだが、討論テーマが「震災復興」をめぐるものだったらしく、一人の若い日本人男性が「今の状態は、まだ春は来ていないが、でも春が近いと思わせる状況には来ているように思う」と発言していて、それをサンデルが受けて、「震災後の日本人の団結、忍耐を世界は賞賛している。日本に春は近い」みたいにまとめていた。

 サンデル教授は日本のことをそんなに知らないので、正直言って社交辞令に近い「まとめ」だと思うけれど、しかし「春が近い」という感想は、意外に多くの日本人知識人が有しているみたいだ。

 大江健三郎もそんなことを言っていて、「おいおい」と思ったのだが。

 「意外」というのは、私はまったくそんな風には思わないからだ。

 「パンドラの箱」がそうであるように、世の中のどこを見ても絶望ばかりだからこそ、自分自身の中に「希望」を見出す。

 それなのに、一本だけ残った松に絶望を見ず、希望だけを見る。

 そんなナルシストに未来はないと。

 去年、「アート・オブ・ガマン展」というのがあった。

 第二次大戦中、アメリカの荒野に収容された日系アメリカ人がつくった小間物類を「アート」とみなすという趣旨の展覧会で、アメリカで評判になったものを日本に持ってきたのだが、日本では「尊厳の芸術」と名前を変えられてしまったが、「アート・オブ・ガマン」というのは実に絶妙なネーミングであると思った。

 サンデル教授が、「世界で賞賛している」と言う、震災後の日本人の団結心、忍耐心も、つまるところ、「ガマン」のココロなのだ。

 それを「尊厳」と言い換えたのは、日本人特有の自己欺瞞精神(世界的に日本人の自己欺瞞は民族的特性として有名だ)を発揮して、そうしたのだ。

 その実態は、サンデル教授は知らないだろうが、日本自身が「収容所」なのであって、そこで培われたのが、「ガマン」のココロなのだ。

 ただし、このテーマはベネディクトが「菊と刀」で詳細に論じたところで、サンデル教授が知らないわけはないと思うのだが、やっぱり「社交辞令」だったのか。

 それはともかく、日本人はみんな「ガマン、ガマン」の繰り返しで問題を先送りして耐えるが、いつか耐えられなくなったとき、爆発する。

 「ガマン」を「尊厳」などと欺瞞的に言い換えている限り、それはきっと来る。

 しかし「我慢」という文字をよく見ると、「我れが我れを自慢している」風にも読める。
 
 で、三省堂の新明解国語辞典を見たら「仏教語で自慢と同じ」とあった。

 いやはや、「我慢」を「尊厳」と言い換えたのは、まさに我を自慢する心が為したことであったのだ。

2013年の責任

2013-01-02 01:23:13 | Weblog
 大晦日の「朝生」は、近来になく面白かった。

 シュンペーターの名前もちらりと出てきたし。

 ただシュンペーターが「デフレが構造改革を進めると」いう論陣を張ったことまでは言及しなかったが、でも話は結局その方向に進んだ。

 うさん臭い雰囲気の、「経済コラムマガジン」というブログがあって、うさん臭いが、時々なるほどと思わせることが書いてある。

 数日前にも「構造改革」について、こんなことを書いていた。

 話は明治維新直後のいわゆる「松方デフレ」で、西南戦争で官軍、反乱軍双方が政府紙幣や藩札を刷ったため、戦後、市場が混乱したのを松方が整理したところが、整理しすぎてデフレが起き、没落した地方の自営農家の子弟が都市に出て労働者になったことを「構造改革」の成果だと、構造改革主義派の歴史学者は言ったんだそうだ。

 なるほど。

 だとしたら、松方デフレこそ、今日の日本の原型なのかもしれない。

 自営農家が没落して、その子弟たちは都会に出て労働者になる一方、居残った自営農家はより大規模な少数の自営農家(地主)と、それに雇われる小作農家に分離した。

 それが太平洋戦争で進駐してきた占領軍は、大規模な自営農家の所有する農地を取り上げ、小作農家に分け与えた。

 しかし小作農家は資金がなかったので、農協が設立され、盛んに融資を行い、技術発展もあいまって、生産高はめざましく上昇したが、そうするとどうしても単価が下がるので、減反を実施して米価の下落を防ぐとともに、減反に協力した農家には協力金が配布された。

 もちろんこんなことを続けていたら米農家に未来はないのだけれど、手付かずのまま30年経過し、今回、TPPが押し寄せたわけだが、田原によると、農協は表向き猛反対しているが、実際は、政府の補助金が引き上げられればTPPはぜんぜんOKなんだそうだ。

 なるほど、それはそうにちがいない。

 自民党が「聖域なき自由化=関税ゼロ」を交渉参加の条件である限り、TPPへの交渉参加はしないと言っているが、すべてが関税ゼロとするのでは、どの国も交渉に足踏みするだろうし、聖域は「あり」に決まっている。

 とするならば、米が真っ先に「聖域」とみなされるだろうことを、農協は確信しているだろう。

 もし、聖域がないとわかれば、交渉はしないわけで、TPPなんか、農協はぜんぜん怖くないわけだ。

 私は最近、米をぜんぜん食ってないので、いや、昼飯でタツヤの牛丼弁当を食べているが、家ではぜんぜん食べてないので、あまり関係ないのだが、国には「国家的トラウマ」というのがあるそう。

 それは、国として絶対に再び経験したくない傷のことで、アメリカは、「真珠湾の悲劇」なのだそうだ。

 貿易センタービルにテロが突っ込んだときも、真っ先に思ったのは「第2の真珠湾か!」だそうで、それでブッシュはイラク戦争に突入した。

 ドイツの場合は、第一次大戦後のインフレだそうで、あれでナチスが台頭したと信じて疑わない。

 イギリスの場合もインフレらしい。

 肝心なのは日本だが、日本の国家的トラウマはなんだろう?

 アメリカの国家的トラウマが真珠湾だというのは、十数年前に雑誌「諸君」で、かなり有名な歴史学者の座談会で話題になったのだが、そのときも、肝心の日本のトラウマに話が及ばなかった。

 なんでだろうと思うが、しょうがないので、独断で言うことにする。

 それは、娘たちの身売りが相次いだ昭和初期のデフレにおける、地方農家、特に東北地方の農家の貧窮化ではないか。

 東北地方の貧窮化だけは、ぜったいに二度と見たくないという思いがあり、それを克服できないまま、大震災がやってきてしまった。

 たまたまある大学院生の研究論文をちょっと目にしたことがあるのだけれど、それによると、戦前の東北地方、特に米作農家は、第二の朝鮮という扱いだったらしい。

 要するに差別されていた。

 近畿以南の人々の感覚はよくわからないが、小林信彦が、東北弁を売りにしていた喜劇人、伴淳が、「なぜか関西喜劇人協会の会長になっている」と書いているように、関西人は東北弁に対するアレルギーのようなものはないのだろうが、その代わりに、朝鮮やに対する差別意識が抜きがたくあるような気がする。

 朝鮮人や民対するそういう感覚は、東京人にはない代わり、すぐ隣に接している「東北人」に対しては、そういう気持ちが微妙に残っているような気がする。

 今の震災報道なんか、そういう気持ちが負い目になって、「奇跡の一本松」だのを「東北の希望」などと持ち上げるが、東北人で実際にあれを見て勇気付けられている人がいるかどうか、聞いてみたいものだ。

 なんだか話がすっかりそれてしまったが(毎度だが)、私が書きたかったのは、「朝生」で、反リフレ派の研究者が出ていて、その彼に、竹中が「あなたはデフレを本当に脱却すべきだと思っているのか、正直な気持ちを聞きたい」と問い詰めたのだ。

 その研究者は即答できず、言葉を選んで「デフレがすべて悪いというわけではない」と白状した。

 はっきり言って、今、インフレ目標に反対している人は、今のままデフレが続いていてぜんぜんかまわない人たちで、だったら、このままでいい、構造改革なんかも必要ないと言い切るかと思うと、そういう人に限って「構造改革は絶対に必要」と言ったりする。

 別にそんなに深い意味があって言っているわけではないと思うけれど。

 後、もうひとつ、竹中が原発に関して、何より大事なのは自由化なのだが、自民党は、選挙公約に自由化を掲げていない。理由は何か、と出席していた自民党の議員(片山某)に聞いたら、「微妙な問題でお答えできない」と答えていた。

 ということは「自由化はやらない」ということだが、今の体制を維持しなければならない理由は何なんだろう。

 森永一郎が、「政府が核兵器を作る道を確保しておきたいからだ」と言っていたが、その可能性もある。

 しかし、森永が「だって石原は核シミュレーションをしよう、なんて言っているんですよ」と言っていたが、核シミュレーションなんか、防衛省でとっくにやっているだろう。

 むしろ、そのことを隠したままでいるのが一番よくない。

 その意味で言うと、反原発派が、電気会社が事故が起きた場合のシミュレーションをつくることを、「原発が危険だと開発側が認めている証拠だ」と言ってつぶしてしまったのが、今回の事故の主要原因だとすら、私は思う。

 少なくとも広瀬隆は、そう言っていた。

 それで、電力会社がシミュレーションを控えたのだとしたら、それもまた変な話だが、ともかく、反原発派が正しかったという、普遍的に見られる報道姿勢は、まったくよくない。

 反原発派にも責任はあるのだ。