パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「持ち家政策」の破綻

2013-01-23 23:51:46 | Weblog
 教師や警官などの地方公務員の退職金が引き下げられるため、早期退職者が続出しているそうで、早期退職を申し出た本人が「退職金を住宅ローンに充てる予定だったので(早期退職を申し出た)。こんなことになるなんて、まったく思っていなかった」と言っていた。

 そう、これはある意味、いや明確に、自民党の「持ち家政策」が破綻したことを意味しているが、それを指摘する論者は、皆無だし、今後も、「皆無」だろう。

 それで、あえて書いておこうと思った次第。

 私が小学校時代、クラスの半分近くが警官の息子で、彼らは「官舎」に住んでいたが、訪ねると、びっくりするボロ家で、歩いていて、畳を床下まで踏み破ったことを覚えている。

 もちろん、地方公務員を含む公務員は「官舎=低所得者向け住宅」に住むべきだと言うつもりはない。

 いや、そう言ってもいいのかもしれない。

 何故なら、国家財政の赤字が1000兆円、地方財政の赤字が400兆円とか言われているのだから、彼らの給料が下がるのは当たり前だが、実際は下がっていない。

 国家公務員だけ、二年間の限定付きで、少しカットしたようだが、地方公務員は、公務員の猛反対でまったく実現していない。

 なんでか?

 主たる理由は、「ローンの返済に支障がある」、だろう。

 新自由主義の親玉、ミルトン・フリードマンが提唱した「定理」に「恒常所得定理」という定理があるそうで、これは、恒常的な所得は消費に向かうが、非恒常的な所得、つまりボーナスは直接消費には向かわない傾向があるという「定理」なのだそうだ。

 「定理」というと、ちょっと大げさだが、ボーナスや退職金をローン返済に充てるという人は多いだろう。

 「持ち家政策」は、要するに、借金を強要する政策だから、「破綻」はこういうかたちでやってくるのだ。

 ちなみにボーナス制度についてウィキで調べたら、欧米のボーナスは文字通りの例外的処置で、日本も戦前は似たようなものだったが、戦後、盆と正月に数ヶ月分の支給が定例になったのだそうだ。

 やはりこの制度は戦後日本の特徴で、それを高度成長期の「持ち家政策」に巧みに絡めたのだった。

 ちょっと話題が変わるが、ついでに書いておくと、マスコミ報道で、犠牲者、被害者がえらく美化されて報道されるのが非常に不思議で「社会部記者」のクセというか、そういう習慣になっているのだろうと思っていたが、労働政策の専門家、熊沢誠氏の「日本の企業は全人格評価を行う」という解説で合点がいった。

 アルジェリアで一人だけまだ行方不明の「日揮」の最高顧問を含め、全死亡者をマスコミは「素晴らしく有能な人たちだった」と、その「全人格」を賞賛するのだろうが、それは社員だった以上、人格高潔と認められていたので、死後もそういうことで通せば、自分たちの立場も守られるということで、そうしているという習慣と言えば習慣なのだろうが、なんたる習慣か!と思う。

 もしかしたら、最高顧問は赤軍派と関係があって、ゲリラを導入し、それで行方不明なのかもしれないじゃないか。

 

ローザ・ルクセンブルグの自由

2013-01-23 01:28:19 | Weblog
 前回、熊沢氏の発言に触れたのだが、もう一度「グラフィケーション」を読み直した結果、理解に大変にむずかしい話であることがわかった。で、もう一度。

 熊沢氏は、「個人主義」と「集団主義」の二様のイデオロギーを、「価値意識としての個人主義」と「価値意識としての集団主義」、「生活を守る手段としての個人主義」と「生活を守る手段としての集団主義」の四つにわけ、各国文化がどこに位置しているかで、その社会の様相を図ることができると考える。

 「価値意識としての個人主義」と「生活を守る手段としての個人主義」の二つのイデオロギーを信奉する社会は、欧米のホワイトカラー、専門職の社会で、「生活を守る手段としての集団主義」と「価値意識としての集団主義」をイデオロギーにしているのが、欧米の労働者、ブルーカラーである。日本の炭坑労働者も、戦後の一時期まで、このイデオロギーを有していた。

 また、欧米における労働者の組織は、中世のギルドを範にしているので、失業者の状態を詳細に把握しているので、失業者が出ると、自分たちの仕事を少なくして、失業者を救うワークシェアの意識が古くからあり、それが可能でもあったと熊沢氏は言っていた。

 なるほど、勉強になります。

 一方、日本のホワイトカラー、つまりサラリーマンは、「価値意識」としては集団主義を、「生活を守る手段」としては個人主義な選択を迫られていると、熊沢氏は言う。

 この組み合わせでは、「生活を守る手段としての集団主義」と「価値意識としての個人主義」のイデオロギーからなる社会は、未だ世界に存在せず、熊沢氏はこれが自分の理想だという。

 理想的社民主義というか、である。

 と熊沢氏は大きな図式を描いていたが、実際にヨーロッパに進出した日本企業の雇用実態を調査に行って、日本の会社の雇用の実態が、「全人評価」にあることがわかったという。

 「全人評価」とは、要するに「全人格」を対象とする評価で、欧米では社員に対してこういう評価はしない。

 ブルーカラーが典型だが、会社は社員に自分の仕事、例えば製品をちゃんと、いくつ、つくることがでできるか、その「実績」を求めていて、彼らの「人的能力」には無関心だという。

 だから、労働者の方でも、一時間遅刻したら、一時間分、減給されて、当たり前だと思っている。

 逆に言うと、一時間分の減給を承知で、遅刻することもある。

 これを「ローザ・ルクセンブルグの自由」と言う(のだそうだ)。

 ローザは、第一次大戦後、活躍し、当局に惨殺されたドイツの女性のコミュニストで、彼女は「別の考え方をする自由」を主張したのだが、日本の会社は(社会は、といってもいいだろう)この「ローザ・ルクセンブルグの自由」ををもっとも警戒する(と熊沢氏は言う)。

 たとえば、自己都合で残業をしない場合、残業をしないこと自体より、個人的理由で残業を断ったことが問題にされる。

 これが、日本の会社が従業員を「全人格評価」とするということで、その結果、従業員は、「価値感」まで会社に依存することになる。

 しかし、価値感を会社にあずけながら、生活を守る手段としては「個人」におまかせというやり方は、社員にとって大変に厳しいライフスタイルだが、みんなの目標が、ちょっと腕をのばせば手に届く程度の消費材が目標だったら、それも可能で、それ故に「高度成長」も可能だったが、それが高度成長期以後、「希少財」にまで広がってしまった。

 「希少財」というのは、熊沢氏曰く、「土地付きの家」が主たるもので、これを「みんなが目指した」が、そもそも「土地付き住宅」は供給が限られているので、すべての人がそれを目標にヨーイドンで挑んだら「負け組」ばかりとなってしまうと熊沢氏は言うし、実際、その通りになったわけだ。

 そしてさらに問題なのは、「負け組」もテレビはもっているし、パソコンもあるし、その意味では昔とちがうわけだけれど、しかし、昔とちがって、日本では、「負け組」の名前がいみじくも示しているように、「全人格評価」の結果としての「負け組」なので、自分がそうであることは到底耐え難いものとなる。

 これが問題なのだ。

 ではどうしたらよいか。

 それは「生活を守るための手段」を個人ではなく、集団が所有すべく、政策を変えること、具体的には「持ち家政策」から「低所得者向けの公共住宅建設政策」に変えなければならない。

 大阪市の市バスの運転手の年収は「平均」で800万円以上あるそうだが、この年収でローンを組めば、相当豪華な家が持てるし、実際に持っているが、これが「持ち家政策」の成果だというのは、運転手でも豪華な家が持てると言いたかったのだろうが、なんか変である。

 このことは、きっちり民主党時代に認識していればよかったのだが、「不勉強」がたたって、政権から転がり落ち、住宅政策といえば「持ち家政策」しか念頭にない自民党に戻ってしまった。

 しかし「持ち家政策」が、高度成長期と同じように実施できるはずがないし、そのことは、あれだけ広大な土地をもつアメリカでさえ、サブプライムローンの破綻で不可能が証明された。

 しかし日本において、まずなすべきことは、そもそも「負け組」という名称が不当であること、すなわち「全人格評価」の過酷な不当性を、「ローザ・ルクセンブルグ的自由」すなわち「別の考え方をする自由」を通じて訴えることだろう。

 あるいは、「負け組」は実際は「負け組」なんかではなく、「負け組」がなければ「勝ち組」もないことを、例えばヘーゲルの「奴隷が奴隷主に勝る」とする「奴隷の弁証法」を駆使して、主張していけば、いい。

 なんといっても数的には「負け組」が絶対に多いのだから。