パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

社会が悪い

2013-01-22 01:11:46 | Weblog
 桜宮高校の生徒がテレビカメラの前で話をしていたが、首から上はカット。

 顔を出して話さなければ何を言ってもダメだ。 

 顔を出したくない人は、発言権はない、とはっきりさせなければならない。

 それがイロハのイだと思う。

 個人情報保護法かなにかと関係しているのだろうか。

 誰も何も言わないのは異常だ。

 「顔を出したくない」のなら、出してもいい、という人を選んで取材すればいいではないか。

 それはさて、先日の広末保先生の発言は、「(今の江戸ブームは)石川淳的な抵抗がない。何に抵抗しようとして、近世をもう一度発掘しようとしているのか、それが見えない」という内容だった。

 なるほど、日本人が江戸を関わろうとするならば、外国人が江戸を鑑賞するようなエキゾチズムに堕してしまってはいけない、というわけだ。

 さすが、広末サン、深い。

 ところで、その「グラフィケーション」に、熊沢誠という社会学者が、対談だけれど、「なるほど」と思わせる発言をしていたので、紹介したい。

 日本人は集団主義と言われながら、生活を守る手段としての個人主義的傾向が深まるばかりで、「生活を守る」ことにみんなの合意がさっぱり成立しない。例えば(不況になった会社で)人員整理されずに残った者がサービス残業をしたりする。欧米ではこういう状況になったら、逆に残業をやめて、仲間の生活を守るために合意する。

 この発言は1990年頃、つまりバブルがはじけた頃で、今も事態はまったく変わっていないわけだが、変わっていないのは、デフレから脱却できないということももちろんなるけれど、特に大津波以降、「仲間」とか「絆」とか言いながら、実際は、個人の生活を守ることが最優先で、汚染処理さえできない有様だ。

 もちろん、熊沢先生が言われるように、欧米の労働者たちが、自主的にワークシェアを実施しているわけではないだろうが、でも労働者たちがそういう精神を共有していることは事実ではないかと思う。

 そういう精神をもっているのが「労働者」とい存在であるというか。

 だから、熊沢氏は、対談相手から、それは労働者であることを肯定し、満足してしまうのではないかみたいに突っ込まれ、自身も、「ジレンマであるのだけれど」と言い訳をしていたが、私は、言い訳を言う必要はないと思う。

 労働者は、ぶっちゃけて言えば「奴隷」であり、奴隷としての自覚があればこそ、自分たちの生きる権利を主張できるし、団結もできるのだと思うから。

 それはともかく、日本人が悪い意味で利己主義的、個人主義的であることは否めない事実なのだが、それは日本人が悪いのではない。

 日本の社会が悪い。

 というのは、最近、ブラック企業の告発者として有名になってきた今野晴貴氏に昨年末にインタビューしたのだが、そのとき今野氏が言うには、自分たちがやっているNPO法人が東北の被災地でも救援活動を行っているが、寄付金がなかなか集まらず、困っているが、何故か、海外の日本人からお金が寄せられるという。

 それで「日系人からですかか?」と聞いたらそうではなく、海外で働いている日本人だそうで、今野氏はとても不思議な顔をしていたが、私が思うに、「寄付をして仲間を助ける」という精神が、海外で暮らしていると自然に醸成されるのだろう。

 逆に言うと、日本は、「仲間を助ける」ことが、正面切ってはできない、そんな社会になってしまっていることになる。

 というわけで、もう一度言いたい。

 日本の社会が悪い。