大晦日の内山高志のノックアウトはすごかった。
去年の大晦日も、内山はノックアウトで勝ったのだった。
スポーツ中継といえば、一ヶ月近く前に見た、ラグビーの天理大学対同志社だったと思うが、もすごかった。
再来年だかにラグビーのワールドカップをやるということで、相当、強化に努めているのだと思うが、体格が以前に比べて「ものすごいことになっている」感が強い。
元日には、大学選手権の準々決勝あたりで、早稲田が帝京大学とやっていたが、前半の30分あたりで、早稲田が10対0で勝っていたが、体格が帝京にまったく見劣りするので、このままではすまないだろうと思っていたら、案の定、後半になったら帝京がどんどんトライを重ね、屈辱的な敗戦を喫した。
正月はスポーツ中継しか見るものがない、と思っている人は多いと思う。
実際、20年位前までは、結構正月の特番は面白いものが多かった。
ところが、その正月特番が評判がいいもので、テレビ局はその「特番」を通常番組に持ってきてしまった。
正月特番が面白かったのは、年に一回だからなのだ。
年に一回ぐらいは、大はしゃぎしてもいいだろうが、年がら年中、お正月のように「芸人」どもが大はしゃぎすることになってしまい、正月ではない、日常を生きている当方としては大いに白けて見るしかない。
というわけで、見てないのだけれど、でも、チャンネルを変える、その瞬間的には見るわけで。
そんなわけで、スポーツ中継の他は、Eテレを中心に見ることになるが、イタリア語講座の今井翼が「かっこいい!」のは、前に書いたか。
まちがい、今井はスペイン語講座で、イタリア語は、高橋某だった。
なんというクイズ番組だったか、名前は忘れたが、唐沢俊一の「トリビアネタ」をパクったようなクイズ番組といえばおわかりだろうが、あの背の高いほうの高橋がイタリア語講座で、これが案外、かっこいい。
アシスタント的に出ている凸凹コンビのイタリア人女性も、なんだか、満更でなさそうな顔をしているような。
そのEテレで、昨日、マークサンデルの「ハーバード白熱教室」の日本版をやっていた。
サンデルが日本で、「白熱教室」をやるという趣向だが、私は最後の最後しか見ていないのだが、討論テーマが「震災復興」をめぐるものだったらしく、一人の若い日本人男性が「今の状態は、まだ春は来ていないが、でも春が近いと思わせる状況には来ているように思う」と発言していて、それをサンデルが受けて、「震災後の日本人の団結、忍耐を世界は賞賛している。日本に春は近い」みたいにまとめていた。
サンデル教授は日本のことをそんなに知らないので、正直言って社交辞令に近い「まとめ」だと思うけれど、しかし「春が近い」という感想は、意外に多くの日本人知識人が有しているみたいだ。
大江健三郎もそんなことを言っていて、「おいおい」と思ったのだが。
「意外」というのは、私はまったくそんな風には思わないからだ。
「パンドラの箱」がそうであるように、世の中のどこを見ても絶望ばかりだからこそ、自分自身の中に「希望」を見出す。
それなのに、一本だけ残った松に絶望を見ず、希望だけを見る。
そんなナルシストに未来はないと。
去年、「アート・オブ・ガマン展」というのがあった。
第二次大戦中、アメリカの荒野に収容された日系アメリカ人がつくった小間物類を「アート」とみなすという趣旨の展覧会で、アメリカで評判になったものを日本に持ってきたのだが、日本では「尊厳の芸術」と名前を変えられてしまったが、「アート・オブ・ガマン」というのは実に絶妙なネーミングであると思った。
サンデル教授が、「世界で賞賛している」と言う、震災後の日本人の団結心、忍耐心も、つまるところ、「ガマン」のココロなのだ。
それを「尊厳」と言い換えたのは、日本人特有の自己欺瞞精神(世界的に日本人の自己欺瞞は民族的特性として有名だ)を発揮して、そうしたのだ。
その実態は、サンデル教授は知らないだろうが、日本自身が「収容所」なのであって、そこで培われたのが、「ガマン」のココロなのだ。
ただし、このテーマはベネディクトが「菊と刀」で詳細に論じたところで、サンデル教授が知らないわけはないと思うのだが、やっぱり「社交辞令」だったのか。
それはともかく、日本人はみんな「ガマン、ガマン」の繰り返しで問題を先送りして耐えるが、いつか耐えられなくなったとき、爆発する。
「ガマン」を「尊厳」などと欺瞞的に言い換えている限り、それはきっと来る。
しかし「我慢」という文字をよく見ると、「我れが我れを自慢している」風にも読める。
で、三省堂の新明解国語辞典を見たら「仏教語で自慢と同じ」とあった。
いやはや、「我慢」を「尊厳」と言い換えたのは、まさに我を自慢する心が為したことであったのだ。
去年の大晦日も、内山はノックアウトで勝ったのだった。
スポーツ中継といえば、一ヶ月近く前に見た、ラグビーの天理大学対同志社だったと思うが、もすごかった。
再来年だかにラグビーのワールドカップをやるということで、相当、強化に努めているのだと思うが、体格が以前に比べて「ものすごいことになっている」感が強い。
元日には、大学選手権の準々決勝あたりで、早稲田が帝京大学とやっていたが、前半の30分あたりで、早稲田が10対0で勝っていたが、体格が帝京にまったく見劣りするので、このままではすまないだろうと思っていたら、案の定、後半になったら帝京がどんどんトライを重ね、屈辱的な敗戦を喫した。
正月はスポーツ中継しか見るものがない、と思っている人は多いと思う。
実際、20年位前までは、結構正月の特番は面白いものが多かった。
ところが、その正月特番が評判がいいもので、テレビ局はその「特番」を通常番組に持ってきてしまった。
正月特番が面白かったのは、年に一回だからなのだ。
年に一回ぐらいは、大はしゃぎしてもいいだろうが、年がら年中、お正月のように「芸人」どもが大はしゃぎすることになってしまい、正月ではない、日常を生きている当方としては大いに白けて見るしかない。
というわけで、見てないのだけれど、でも、チャンネルを変える、その瞬間的には見るわけで。
そんなわけで、スポーツ中継の他は、Eテレを中心に見ることになるが、イタリア語講座の今井翼が「かっこいい!」のは、前に書いたか。
まちがい、今井はスペイン語講座で、イタリア語は、高橋某だった。
なんというクイズ番組だったか、名前は忘れたが、唐沢俊一の「トリビアネタ」をパクったようなクイズ番組といえばおわかりだろうが、あの背の高いほうの高橋がイタリア語講座で、これが案外、かっこいい。
アシスタント的に出ている凸凹コンビのイタリア人女性も、なんだか、満更でなさそうな顔をしているような。
そのEテレで、昨日、マークサンデルの「ハーバード白熱教室」の日本版をやっていた。
サンデルが日本で、「白熱教室」をやるという趣向だが、私は最後の最後しか見ていないのだが、討論テーマが「震災復興」をめぐるものだったらしく、一人の若い日本人男性が「今の状態は、まだ春は来ていないが、でも春が近いと思わせる状況には来ているように思う」と発言していて、それをサンデルが受けて、「震災後の日本人の団結、忍耐を世界は賞賛している。日本に春は近い」みたいにまとめていた。
サンデル教授は日本のことをそんなに知らないので、正直言って社交辞令に近い「まとめ」だと思うけれど、しかし「春が近い」という感想は、意外に多くの日本人知識人が有しているみたいだ。
大江健三郎もそんなことを言っていて、「おいおい」と思ったのだが。
「意外」というのは、私はまったくそんな風には思わないからだ。
「パンドラの箱」がそうであるように、世の中のどこを見ても絶望ばかりだからこそ、自分自身の中に「希望」を見出す。
それなのに、一本だけ残った松に絶望を見ず、希望だけを見る。
そんなナルシストに未来はないと。
去年、「アート・オブ・ガマン展」というのがあった。
第二次大戦中、アメリカの荒野に収容された日系アメリカ人がつくった小間物類を「アート」とみなすという趣旨の展覧会で、アメリカで評判になったものを日本に持ってきたのだが、日本では「尊厳の芸術」と名前を変えられてしまったが、「アート・オブ・ガマン」というのは実に絶妙なネーミングであると思った。
サンデル教授が、「世界で賞賛している」と言う、震災後の日本人の団結心、忍耐心も、つまるところ、「ガマン」のココロなのだ。
それを「尊厳」と言い換えたのは、日本人特有の自己欺瞞精神(世界的に日本人の自己欺瞞は民族的特性として有名だ)を発揮して、そうしたのだ。
その実態は、サンデル教授は知らないだろうが、日本自身が「収容所」なのであって、そこで培われたのが、「ガマン」のココロなのだ。
ただし、このテーマはベネディクトが「菊と刀」で詳細に論じたところで、サンデル教授が知らないわけはないと思うのだが、やっぱり「社交辞令」だったのか。
それはともかく、日本人はみんな「ガマン、ガマン」の繰り返しで問題を先送りして耐えるが、いつか耐えられなくなったとき、爆発する。
「ガマン」を「尊厳」などと欺瞞的に言い換えている限り、それはきっと来る。
しかし「我慢」という文字をよく見ると、「我れが我れを自慢している」風にも読める。
で、三省堂の新明解国語辞典を見たら「仏教語で自慢と同じ」とあった。
いやはや、「我慢」を「尊厳」と言い換えたのは、まさに我を自慢する心が為したことであったのだ。