パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ラオコーンに萌えー

2008-08-18 21:44:07 | Weblog
 学燈社の『國文學』は毎号論文を公募しているが、今回11月号分の論題は「『萌え』の正体」だ。400字詰め20枚分、添付して送ればよろしい。さあオタク・ロリコン評論家志望の諸君、どしどし応募しよう。

…と小谷野敦先生のブログに書かれていたので、皆さんも,応募してみてください。

 私的には、最近もっとも「萌え」たのは、オリンピックのフェンシング。知らなかったが、背中を刺しても得点なんだそうで、相手の背中を狙ったり,あるいは敵の尖先をさけるために、身体が思い切り捩じれる。あの捩じれ具合に、「萌え」た。

 古代ギリシャの、海蛇にからまれて苦しむラオコーンとその子供たちの彫像のようだ。

 で、ラオコーンでよかったかなと思ってウィキペディアで調べたら、もちろんラオコーンでよかったのだけれど,ほかに意外なことがわかった。

 ラオコーンとは、トロイ戦争でギリシャ軍が置き去りにして逃げた例の「木馬」を、トロイの市民たちが分捕り品だと喜んで市内に持ち込もうとした時、「危ない」と警告したトロイに住む賢者で、これを知ったギリシャ側の軍神アテナイが怒り、海から怪物(海蛇)をしかけて子供ともども殺してしまったのである。

 「人間めが余計なことをするな!」というわけだが、これじゃあ、トロイが負けるわけだ。

 それはともかく、だとしたら、この海蛇にからまれて苦悶の表情を浮かべるラオコーンは,ギリシャ側にしてみれば、「敵」であり、その敵が苦しんで死ぬ彫像を造ったのは,「ざまあみろ」というわけで造ったのか? 

 そんなわけはない。おそらく、ギリシャの芸術家は、苦しむラオコーンに「萌え」たのだ。

 いや、これは真面目な話。

 というのは、18世紀の半ば頃、このラオコーン像の評価を巡って「ラオコーン論争」と呼ばれる論議が起きた。

 ラオコーン像は16世紀に発見され、ルネッサンス期の人々を感嘆させたが,その後、ヴィンケルマンという著述家が、これを、「偉大なる単純と静謐」とたたえる本を出版した際、レッシングという人物が、ラオコーン像の偉大さはその物語にあるのではなく、「彫像そのもの」として評価すべきであると主張した。

 それまでは、ラオコーン像なら、ラオコーンという人物の運命、すなわち、ラオコーンという神(アテナイ神)に抗した人間の偉大さ(ギリシャにしてみれば、敵なのだが…ここがギリシャ文明の偉大さなのだろう)が求められたのだ。スローガン風に言うと、「絵は詩のように」「詩は絵のように」つくられるべきであったのだ。

 この「ラオコーン論争」は、どちらが正しいかという問題ではないけれど,「彫像そのものとして理解すべき」とするレッシングの主張は、折からの時代の精神,すなわちブルジョワ市民階級の勃興を反映したものであって、実際にその後、彫刻や絵画は、文学,詩とは別のものであり、その別の基準で鑑賞されるべきものとなった。
 だそうである。なるほどね。近現代の美術のつまらなさというものは、ここからきているのか。(だとしたら、これからは、また、「絵は詩のように」「詩は絵のように」つくられるようになるのだろうか)


 それはさておき、言い出しっぺは誰だか知らないが,福田政権内部から北島康介に国民栄誉賞の話が持ち上がっているんだそうだが、いや、赤塚不二夫にあげろよという声あり。

 賛成の反対の反対の賛成なのだ。(賛成なのだ。)

 一週間ほど前、NHKで、赤塚が倒れた直後に放映されたらしい赤塚に関する番組を再放送していたが、そこに、全盛期のフジオプロを支えた人物として、長谷邦夫、とりいかずよし(「トイレット博士」のとりいもフジオプロだったんだ。知らなかった)、北見ケンイチ、古谷三敏らが紹介され、古谷を除く全員が、饒舌に赤塚不二夫の思い出を語りながら、古谷だけが、一切、現れず、当然コメントもなかった。「写真を出したいのなら出してもいいが,それ以外はお断り」だったのだろう。

 なぜなんだろう。番組では一切説明なし。古谷と赤塚の関係に触れることは、「タブー」なのだろうか? 

 謎は深まるばかり。

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