パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

『時の滲む朝』を読む

2008-08-27 18:14:39 | Weblog
 話題の芥川賞受賞作、楊逸の「時の滲む朝」を読む。

 といっても、半分だけ。

 天安門事件に集約される中国の若者たちの民主化運動とその挫折までが前半で、後半は、その若者が中国から逃げ出し、日本にやってきて云々という後半はまだ読んでいない。いずれ全部読んだらご報告したいと思うが、前半までについて言うならば、驚くほどレベルが低い。

 小説としてのレベルのことを言っているのではない。思想のレベルが低いのだ。具体的に言うと、民主主義に対する理解のレベルが恐ろしく低いのだ。

 主人公たちは,デモに行くために、自分たちで案出したスロ-ガンをTシャツ屋につくらせるが、そのスローガンは、たとえば、「我愛中国」だったり、「I LOVE YOU」の下に中国の地図を配したりしたものだ。「我愛中国」は平凡だが、主人公の「I LOVE YOU」のTシャツの場合、最初は、デモのリーダー格の女性をちょっと好きになり,その気分を表したものだ。

 それで、主人公の友人が言う。「個人的な気分をスローガンにするなんて、よくない」。

 これに対し,主人公が言う。「中国を愛して、人を愛してはいけないのか?」

 というわけで、その折衷案として、「I LOVE YOU」の下に中国の地図を配したというわけだ。

 正直言って,ここらへんは小説のテーマとして面白いのだが、でも、「時の滲む朝」はそんな上等な小説ではない。

 彼らが語る「民主化」と「愛国」は同じものなのだが、その「民主化」と「愛国」の対象は漢民族だけである。漢民族しか目に入っていない。しかも、そのことを彼らはまったく自覚していない。

 この「無自覚」を、私は,「思想のレベルの低さ」だと言いたいのだ。

 もっとも、小説には「漢」という文字は出てこない。出てこないが、それ故にかえって、「漢民族の民主化」,「漢民族の愛国」しか、作者、および作者が作り出しすべての登場人物の視界にはいっていないことがあからさまにわかってしまう。ここらへんが、小説としてもレベルが低いことの証拠なんだが、重要なことは「思想」だ。(小説としてのレベルの低さは、かえって読む人に強い印象を与える場合もなくはない。正直言って,この「時の滲む朝」を芥川賞に推薦した選考委員は、そういう理由で選んだのだと思う。)

 彼らは,日本にやってきてから、香港の中国返還や北京オリンピック招致の反対運動をしたりしている。日本の印刷工場に就職した主人公は、日本人の上司に、香港返還反対への署名を依頼する。日本人の上司は、「お前は中国人だろう? なんで反対するんだ」と聞く。これに、主人公はなんと答えるか。

 「中国も民主主義になりたい」。それだけだ。

 もちろん、そんなに簡単に答えの出る問題ではないことはわかるけれど、「民主主義」がこの小説のほとんど唯一のテーマと言っていいのに、その台詞はまことにお粗末としか言いようがない。まあ,日本人もあまり偉そうなことは言えないのだが、少なくとも,民主主義というものがなかなか難しいものであることぐらいはわかっている。

 ところが楊逸という作者は、いや、中国人はすべて、それすらわかっていないようだ。

 もっとも、中国人が一度も民主主義を計経験したことがないことを考えればしょうがないのかなとも思うのだけれど,日本や他の「民主主義国」との絶対的ちがいは、彼らの「漢民族中心主義」だ。彼らの目には、最初から「漢民族」しか見えていない。そして,最後まで見ることはないだろう。チベット人や、ウィグル人を含んだ民主主義なんか、まったく想像外のことである……としか、この小説を読んで感じられないところが、思想のレベルの低さ、文学としてのレベルの低さなのだ。

 以上,私が指摘したことはこの小説には書かれていないことであって、「書いていないこと」をもって、作者を批判するのは不適切だと言う人もいるかもしれないが、しかし、「最初から意識のうちにはいっていないから触れていない」ということが明らかなのだ。この、問題があってもそれを見ようとしない奇妙な脳天気さを,私は「レベルが低い」と言うのだ。(作者はインタビューで、「中国人は無神経なところがある」と言っているが…)

 「文芸春秋」には彼女の受賞インタビューが載っているのだが、チベット、ウィグル問題について、受賞作の内容から言って当然聞くべき問題なのに、一言も聞いていないのはまったく理解しがたい。一方で,桜井女史と田久保忠衛に中国人との無用の口喧嘩をけしかけているくせに。