パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「赤いモスク」事件の主役は中国だった!

2007-07-14 20:45:41 | Weblog
 さて、いよいよ参院選挙も告示されたところで、年金問題をまた取り上げようかと思ったが、いささか食傷気味と思われるので、今回は、パキスタンのモスク立て篭り事件について。

 というのは、この事件は、一体何が原因でこうなったのか、全然分からない。2chを見れば、たいていの場合は、関連ブログ、ニュースサイトなどが張り込まれているものだが、それが全くなく、イスラムはバカだとか、そんな書き込みばかり。中に一つだけ、「この事件の背景を知りたいのだが、それが全然わからないのでイライラしている」という書き込みがあったので、この事件については報道が酷く不完全だという私の印象は、必ずしも私の調査不足とか読み不足とか、そういうことではないことがわかったのだが、さて、ではどこでどう調べたらいいものかと思ったが、さっぱりわかず、とりあえず、最近、あまり面白くないので見ていなかった極東ブログを覗いたら、なんとびっくり、今回の事件は、中国との関係が極めて深いらしい。

 詳しく(といっても、ニュースソースを並べてくれているくらいだが)は極東ブログを見てもらいたいが、簡単にまとめると、パキスタンの首都、イスラマバードの中国人が経営する鍼灸院で売春が行われていることを怒った一部の神学生たちが、ここで働いている中国人7人(女性6人男性1人)とパキスタン人1人をモスクに拉致した。
 これが6月23日のことで、拉致された中国人7人は中国の抗議の結果か、即日釈放されたが、その後、7月9日に3人の中国人労働者が路上で射殺された。(この中国人が絡む二つの事件の関連性は今一つわからないが、神学生による「中国人釈放」に対する報復だったらしい)

 いずれにせよ、この後、間もなくパキスタン軍が強行突入して70人を越す死者が出たわけだが、この時にはモスクに拉致されていた中国人女性は皆釈放されていたわけだから、中国の存在はもはや関係ない……と普通に考えれば思えるのだが、実は全然そうではない。事件後、ムシャラフ首相自身が、事件と中国の関係について公式記者会見で次のように言っているのだ。

 《ムシャラフ大統領はスーツ姿で約30分にわたり演説。神学生らが6月に中国人7人を拉致した事件について「恥ずべき行為」と非難、中国の胡錦濤国家主席から中国人の身の安全を電話で要請されたことも明らかにした。》(共同通信)

 断っておくが、この会見はモスク立て篭り事件の終了後、行われたものだ。つまりムシャラフは、「中国人女性拉致事件」が事件の本質だったと明言したのだ。

 ここまでの話をまとめると次のようになる。

 6月23日、パキスタンの神学生が中国人をモスクに拉致したが、中国政府の抗議で釈放した。しかし、ムシャラフは強行突入を命じた(この間、7月9日に3人の中国人射殺事件が起きる)。事件後、ムシャラフは公式会見で、「(問題の発端となった)中国人拉致は恥ずべきことだった」と中国政府に配慮(謝罪)する発言を行った。

 実は、今回の事件報道で、立て篭った神学生たちは「無罪」を主張していると現地派遣の記者がマイクを手に言ったのを、テレビでちらりと聞いた事があるような気がするのだが、何についての「無罪」かがわからない。もしかしたら、武器を貯えていることを言っているのかもしれないなどと思ったのだが(サンケイの社説は、そんな風に書いてあった)、実は「中国人拉致事件」について「無罪」を主張していたのだ。

 だとしたら、「即日釈放」したのだから、「無罪」とまでは言えないにせよ、殺されなければならないほどのことでは、絶対になかったはずだが、ムシャラフはそれを聞き入れずに強行突入を命令した。何故? 事件後の会見を見る限り、ムシャラフは、中国人を釈放しても拉致した罪は消えないとする中国政府の意を受け入れたものと考えられる。

 もちろん、中国の狙いはパキスタンに対する影響力を強める事にある。そのためのチャンスはなんでも利用する。

 毒入り薬品、毒入り食品を世界にばらまいて多くの死者まで出していると言うのに、発展途上だからしょうがないと言わんばかりの厚顔無恥。アメリカ人の中には、いずれ市場原理が解決してくれるよと楽観している者もいるようだが、私としては、「嗚呼、禍なるかな中国人よ」と言わざるを得ない。

英米法と大陸法

2007-07-11 22:20:31 | Weblog
 法律には大きく分けて二種類あって、ひとつは英米法、もう一つはドイツ、フランスなど、ヨーロッパ大陸で普及しているもので、大陸法という。
 で、二つの特徴はというと、英米法は「やってはいけないこと」を決め、大陸法は「やってよいこと」を決める。

 ……といった風に考えていたのだが、もうちょっと正確にと思ってネットで調べたら、白田秀彰という(慶応大学の先生らしい)人のHPに次のように書かれていた。

 《英米法と大陸法では、法律のもつ重みが違う。英米法では、法律が「正しさ」に向かうための一般的なガイドラインに過ぎないのに対して、大陸法では、「正しさ」とは論理的に法律に合致していることに(ほとんど)等しい。そうすると、法律を作るときの気合の入り方・深刻さと、これを使う側である私たち下々の者たちの意識が変わってくる。/判例主義である英米法諸国において、法律が適当に作られているというつもりはまったくないけど、大陸法である日本とはかなり違った法・法律の運用がされている。/まず、判例法諸国では、法律は議会のみが作るけど、法は裁判所も作ってよいことになっている。だから、法律に規定がない事態が生じたとき、裁判所は、過去の事例を参照しながら、また、法律以外のさまざまな意見や学説を参考にしながら、目の前の問題を解決することになる。英米法諸国のほうが、たとえばインターネットの登場にともなう新しい社会問題に対応しやすいのは、この判例法システムをとっているところにある。これが大陸法諸国だと、法律に規定がないことについては、裁判所は判断してはならないのが原則になる。それゆえ、どうしても立法部の行動を待つという消極的姿勢にならざる得ない。加えて、法律の設計が決定的に重要であるため、立法部も慎重に慎重に法を作ることになる。だから、どうしても動きは遅くなる。……》

 私の、「英米法はやってはいけないことを、大陸法はやっていいことを決める」という言い方とは大分ちがうが、でも本質的にはそうちがわない。「やっていいこと」とは、要するに、「正しさとは、論理的に法律と合致している事」と同義だ。

 そのようなわけで、赤城大臣が、自分の行為は法律に反していないのだから、「正しい」と言い張って、領収書等の開示を拒んでいるのも、日本の法体系が近代以降、大陸法を採用している結果なのだ。つまり、『大陸法では、「正しさ」とは論理的に法律に合致していることに(ほとんど)等しい』ということになっているので、役人が、「大臣、ここはなんとしても頑張っていただけないと、とんでもないことになりまする~」とか、必死に説得したのだろう。

 この大陸法は、遡れば、カント哲学に行き着く。カント哲学とは、要するに、「知」は経験によって基礎付けられるのではなく、経験を基礎付けるものが「知」であるとされる。それが、有名な「先験的知」だ。これに対し、イギリス流経験主義では、「知」は「経験」から得られるとする。つまり、「知」のない奴がいくら経験を重ねても意味ないだろ、がドイツ流、「経験」から「知」は得られるのさ、がイギリス流で、この「知」を、「法」に置き換えれば、英米法と大陸法のちがいということになる。

 私は、「イギリス流」が好みというか、はっきり言って、「正しい」と思っているのだけれど、日本は、明治初年の欧米視察旅行でドイツ流の法思想を採用した結果、以後、連綿とドイツ流が続いている。赤城大臣、あるいは安部首相の、「法律に従ってやっているのだから、罷免する理由はない」という発言も、こうした日本近代の法思想が背後にあるのだが、このことにマスコミが全然言及しない、というか全然知らないから、話がえらく姑息なことになってしまっているのだ。

 ちなみに、本国の欧米諸国では、英米は大陸に近づき、大陸は英米に近づきつつあるのが現実であるという。実際の所、両者とも、デカルトを源にしているので、融合することも不思議ではない。

 そんなわけで、純粋な大陸法思想は日本のみに残存している、などと言われることもあるらしい。トホホ。

ドドーン、ドドーン

2007-07-10 20:48:37 | Weblog
 例によって、ラジカセで、「映像なし、音だけ」のNHKテレビのニュースを聞いていたら、ドドーン、ドドーンという音が聞こえてきた。重武装して、人質をとってモスクに立て篭った過激派神学生たちとパキスタン軍が大砲を使って戦っている様子を伝えているのだが、「ドドーン」という大砲の音に、ついさっき聞いた記憶がよみがえる。

 それは、チャイコフスキーの序曲「1812」という曲で、最後の方でフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の旋律と、ドドーンドドーンという大砲らしき音が重なるのだが、なんだろうと思って調べたら、序曲「1812年」とは、まさに1812年のナポレオンのロシア侵攻、敗北をテーマにした曲で、本物の大砲を使ったことで有名なのだそうだ。

 「へー、あれはやっぱり本物の大砲の音だったんだ」と思っている時、ラジカセから、同じ音が聞こえてきたのである。

 ただ、今ではあまり本物の大砲を使う事はなく、シンセだったり、大きな太鼓で代用したりしているらしいが、私の聞いたのは、あれは本物だと、ニュースの音を聞いて確信した。

 ちなみに、ロシアがソ連だった頃、国をあげて作ったボンタルチェク監督の超大作映画、『戦争と平和』では、クライマックスのナポレオン軍退却シーンなんかで、きっとこのチャイコフスキーの「1812年」が使われているのだろう……と思って調べたが、それはなさそうだった。
 なんでだろう? 「1812年」は、ナポレオン戦争(ロシア側呼称では「祖国戦争」)関連のイベントに合わせてイベント主がチャイコフスキーに発注したものだが、チャイコフスキー自身があまり気乗りせず、ずっとほっておいたら、「できたか?」と連絡が入り、あわてて一ヶ月で仕上げたという話があるくらいで、実際、フランス国歌をはじめ、いろいろなメロディーをあちこちから寄せ集めて、「お手軽」に作った印象があるけれど、今ではかえってそれが「メディアミックス」風の効果を出していて面白いのではないかと言えなくもない。

 なお、私の持っている本物の大砲入り「1812」はダイソーの100円CD。このシリーズは、残念ながら、最近、店頭で見かけない。

 ところで、チャイコフスキーと言えば、今年のチャイコフスキーコンクール、バイオリンの部の優勝者は、名前は忘れたが、日本女性だった。21歳だが、14歳ぐらいからプロとして世界的に活躍しているので、周囲の人は、「チャイコフスキーコンクールとはいえ、今さらコンクールに出る必要はない」と言って止めたが、本人はどうしても腕試しがしたいとで、反対を押し切って出場して見事、審査員、観客たちの圧倒的支持を集めて一位をしとめたらしい。近頃、若い人の言う、「脚気ー」いや、「カッケー」とはこの事であろう。

 その彼女曰く、「ロシアで、外国人がチャイコフスキーを演奏するのは、日本で言えば演歌を外国人が歌うようなものでしょうね」は、蓋し名言。本当にチャイコフスキーって、「演歌」だと思う。


 話は変わり、赤城農相、安部首相ともに依然として、「法律に違反していないから」の一点張りの姿勢を崩さず。
 私は、正直言って、赤城農相が「つけかえ」のような不正な行為を行っているとは思わない。しかし、だとしたら、なんで領収書等の開示を拒むのだろう? 
 安部首相は、「たかだか800円くらいで」と言っているが、そんな風に言われれば言われるほど、国民はこだわってしまうのではないか。「たかだか800円のことを、何故隠すのか」と。私のように、不正を疑っていない人までもイライラさせるこの対応は、最悪と言わざるを得ない。

 今のままの態度を続けていると、社保庁問題よりも、この「800円問題」が致命傷になるのではないかとすら思う。(私が思うに、安部首相の不思議な対応は、日本の「真の支配者」である高級官僚たちが、「法的根拠なしに事を行ったら、日本の秩序が根底から壊れる」とかなんとか、巧みに吹き込まれているせいではないかと考えているのだが……)

来年のことを言うと鬼が笑う……か

2007-07-09 14:25:52 | Weblog
 ウィンブルドン全英テニス選手権決勝、フェデラーVSナダルを見る。
 深夜放送のくせに録画。結果を知らなければ、いつ見ても同じ……というわけじゃない。「どちらが勝ったのか、実はもう決まっているんだよなあ」という思いが、しばしば脳裏をよぎる。しかし、試合内容はさすがで、堪能した。

 ところで、男子テニス界はフェデラー、ナダルの二人が傑出しているが、女子のほうは傑出した存在がいないので、群雄割拠状態で面白い……ということにはならないのが、面白い。「群雄割拠」は名ばかりで、実態は「どんぐりの背比べ」に過ぎないのである。一方、男子の方は、二人の存在が全体に緊張感を与え、実力差のある組み合わせの試合でも面白く見る事が出来る……ような気がする。

 しかし、そんな低調な女子勢の中で光っていたのが日本の女子選手だ。今大会の優勝者、ビーナスを追いつめた森上なんか代表的で、私は彼女の名前も顔も知らなかったが、BBCのカメラなんか、途中で森上の勝利濃厚と見たか、ファミリー席で観戦している彼女の父親を多く写すようになった(ような気がする)。

 もちろん、惜しいことに彼女は逆転負けを喫してしまったのだが、解説者が、彼女の敗因をアナウンサーに聞かれて、「うーん……わからない」と告白していたくらいに、内容的にはビーナスを圧倒していた。
 しかし、私は、テレビの前でこの言葉を聞いて、「わからない、じゃないだろ。敗因ははっきりしているじゃないか。執念の差だよ」と突っ込み、改めて、「勝たなければいけない試合だったんだ」と思いつつ、彼女にビーナスのような「執念」の見られなかった事について、あくまでも個人が個人の力で事態を打開して行く欧米文化と、個人ではなく集団を重んじる日本文化の差ではなかろうかとまで思ったのだが、その後、「執念の差」は、あくまでも「実力の差」であって、ビーナスの執念の壁にはじき飛ばされた森上も、それを受け入れる事で、自分の中に、「執念」を育てる事ができるだろうと思い直した。

 要するに何が言いたいのかというと、来年のウィンブルドンでは――もし、世界の女子テニスのレベルが現在のままで止まるならば――日本女子選手の中の誰かが準決勝にまで勝ち残るに違いないと思うのだ。準決勝に残れば、準決勝を勝ち抜けることも考えられるし、準決勝に勝てば、決勝に進出することができる。そして、決勝に進出すれば、優勝する可能性だってある。

 自分勝手な理屈に聞こえるかもしれないが、要するに、これまでは、日本の女子選手の「視界」の中に入っていなかった、「ウィンブルドン優勝」の文字が入ってきたのではないかと思うのだ。いわゆる、「ロック・オン」てやつだ。

 しかし、日本のマスコミは皆アホだから、そういう選手の気持ちを聞き出すつもりもないようで、日本には伝わって来ないが、選手自身、ウィンブルドンに限らず、メジャー大会のタイトル取得も今や決して夢物語ではないことを明確に意識しているにちがいない。



 安部首相、参院選挙告示を前に、「私は責任ある立場の人間として、《できること》しか言いません。(=民主党のように無責任な事は言いません)」と言い出した。《できることをやる》なんて、官僚の理屈でしかないではないか。こんな「洗脳」を受け入れるなんて、こりゃダメだ、である。

しょうがないはしょうがないがしょうがない?

2007-07-06 22:43:29 | Weblog
 《日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。
 幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。
 米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った。》

 これは、御存じ、久間前防衛大臣の「しょうがない」発言だが……正直言って、よく考えられた発言のように思えるけどなあ……。

 もちろん、言っている事は、アメリカ側の論理なのだが、終戦後間もなく米ソ冷戦が始まり、日本はアメリカ側につくことに決め、講和会議も全面講和ではなく、共産圏を除いた西側諸国との「部分講和」に踏み切ったという歴史の経緯を考えれば、日本がアメリカの論理を採用することも、「しょうがない」のか……と。

 しかし、「しょうがない」と言うと、どうしても、いい加減な言い方に聞こえて、「しょうがなくないだろ!」とか、しょうもない反論をしたりするわけで、「しょうがない」を使わず、「あれで戦争が終わったんだ、と頭の整理をしている」と言っていたらどうなっただろう?……

 ところで、久間発言がバッシングされる一方で、もう大分前のことになるが、本島某という、元長崎市長がアメリカの原爆投下について、「しょうがない」どころか、「軍国主義だったから当然」と発言して物議を醸したのだが、今、久間発言をバッシングしている被爆者団体は、この本島市長に一言も抗議をしなかった。
 ところが、今回は、何故かサンケイ新聞でさえ、この本島発言をスルーしていて、不思議だったのだが、通りすがりの「不条理日記」というブログがこの問題について、本島市長発言と久間発言を比較し、本島発言は「因果応報」論だが、久間発言はそうではない、と書いてあった。

 読んでなるほどと思ったのだが、では、このブログでは久間が是で、本島が非と主張しているのかというとまったく逆で、本島市長の、日本軍国主義に原爆投下の原因を見る、「因果応報論」が正しく、原爆投下の原因である日本軍国主義の悪業に目を向けぬ久間発言は批判されなければならないというのだ。

 「因果応報」が正しいなんて、気味が悪いとしか言い様がないが、ここは一つ、「因果応報」という「論理」の詭弁性を簡単に批判しておくと、たとえば、本島市長の「因果応報論」は、日本軍国主義を「絶対悪」としなければ成り立たない。もちろん、戦中の日本軍人はあまり誉められてものではないかもしれないが、「絶対悪」というまでのことはないだろう。しかし、このような「現実的見方」はしりぞけ、「絶対悪」なる観念的な決めつけを前提(原因)にしなければ、原爆投下を肯定するまでの因果応報論は成り立たない。これが詭弁性の第1であるが、これを言い換えれば、「因果関係」を強調しながら、実際には「因」と「果」が、いわば卍関係になってどちらがどうとも言えなくなる。これが、因果応報論の詭弁性の2である。

 そもそも、「因果関係」という考え方自体、17世紀あたりにベーコンとかヒュームといったイギリスの経験主義哲学者が徹底的に否定してしまった。何しろヒュームによると、今日、太陽が東から昇ったとしても、明日、同じように東から昇ると思うのは、ただ経験的にそうなると信じているだけで、実際はそうとは限らないんだそうである。(屁理屈以前という感じがするが、物理学的には、これが「正しい見方」であって、この「正しさ」に徹底的にこだわった結果が、現代物理学なのだそうである)

 わけのわからない話になったので、この辺で。

お代り!

2007-07-05 22:49:21 | Weblog
 近くのインドカレーのお店で食事をしていたら、となりの席に、髭の濃い、みかけは中年ぽいが、多分まだ30代そこそこと思われる男性がやってきて、腰掛けるなり、インド人の店員に「大盛りで!」と言い、続いて「大盛りでもお代りできる?」と言った。
 そのお店は「お代り自由」のお店なのだが、大盛りを注文して、なおかつ、その大盛りライスが出て来る前に、お代りすることになるが、大丈夫かと、念を押すお客さんは珍しいらしく、インド人店員はちょっとびっくりした顔で、とまどいながら、「ダ、ダイジョウブデス」と答えていた。

 その男性は、期待(?)に違わず、お皿からこぼれるほどに山盛りに盛り付けられた、あの独特のマッ黄色のライスをあっという間に平らげると、勢い良く、「お代り!」と叫んで、空のお皿を差し出していた。

 まあ、私も「ナン」をお代りしたのだけど。

 ところで、昨日のブログを読み返してみたが、長くて、しかもわかりづらいような気がしたので、もう一度簡単に。

 スエーデンの年金制度は「所得比例方式」と呼ばれ、各人の所得に応じて(所得の18.5%)積み立てたお金を、その各人が老後に受け取るというもので、その限りでは、明らかに「積み立て方式」だが、実際には、「積み立て」は、政府の年金管理事務所の帳面に、該当者の年金支給時の金額の計算の「もと」となる数字として記録されるだけで、そのほとんどは「現在」の年金支給の財源として使われる。つまり、建前は「積み立て式」、実態は「賦課式」というのがスエーデンの「所得比例方式」の特徴である。

 この「所得比例方式」による給付金額の算出方法は以下の通りである。
 たとえば、ある人が、60歳の支給年齢までに4000万円の積立金を積み立てたとする。先に書いたように、実際には「賦課金」として使われているのだが、帳面には、その人の持つ数字としてカウントされているわけで、この数字を本に、その人が、60歳以降生きるであろう時間を平均寿命から割り出す。
 たとえば、その時の平均寿命が80歳だとしたら、その人は、今後「20年間」生きるであろうとみなされ、その人の持っている帳簿上の金額、すなわち4000万円を20で割った200万円が一年あたりの年金として支給される。つまり、80歳以下で死んだら、「損」、それ以上生きたら「得」という計算になる。(これは、すべての年金制度において同じ)
 
 ただし、この「所得比例方式」の対象は所得によって限られていて、年所得390万円以上、6000万円以下が対象となる。そしてこれは、純粋に「所得」に基づいて計算されるので、年金資格を得るための「最低加入期間」というようなものはない。

 では、390万円以下の低所得者(無収入のものを含む)はどうなるかというと、所得比例方式で算出された金額を超えぬよう、整合性を保つように工夫された「保証年金」をもらう。財源は「税」で、給付資格はスエーデン居住3年以上、40年で満額となる。(年所得6000万円以上の高額所得者は年金は不要とみなされ、支給されないのだと思うが、詳しくはわからない)
 
 自費出版(最近は、共同出版と言っているらしいが)で稼いでいる出版社が「詐欺だ!」と訴えられた。こ、これは大いに興味のある話だが、時間がないので、また明日。

年金教室・スエーデン方式の巻

2007-07-04 15:27:43 | Weblog
 昨日、ブログの更新にとりかかったところに、千駄木のMさん(前回書いた「漢字肝心帳」のM瀬さんではない)がやってきて、Mさん本人の履歴を書いたメモを渡され、パソコンでこれを印刷して欲しい、と言ってきた。先方にデータを渡すのなら、たったこれだけの分量で大袈裟だけど、MOに記録しましょうかと聞くと、その必要はない、自分の字が汚くて読みにくいからお願いしているだけだという。つまり、印字した紙をそのまま先方に持って行って、先方はそれを見て、改めて入力するのだ。

 ……トホホだが、これでもMさんは、いろいろ話する限り、M瀬さんに比べれば、パソコンがいかなるシステムであるか、少しは理解している風なのだが……やっぱり、こういう年輩者がいまだに多いのだろうなあ……。

 それはさておき、昨日、ブログに書くつもりだったのは、一昨日、TBSのニュース23で紹介されていた、スエーデンの年金システムについてで、ネットでいろいろ情報を集めていたところだったのだが、Mさん訪問で中断、今朝、改めて調べた結果、概略、以下のことがわかった。

 まず、保険料率だが、所得の18.5%である。これは、おそらくは、毎年の確定申告時に前年の所得を報告する際に計算して納めるのだろう。自営業者も同様である。そして、この所得の多寡に応じて年金支給額が決まるので、「所得比例方式」と言われる。

 ただし、「所得比例方式」の対象となる人の所得は、月収入が日本円に直して、大体26万円から500万円までの人が対象となる。つまり月収500万円以上の金持ちは年金の必要性はなしとされるのだろう。
 一方、月収26万円以下の人はどうなるかというと、税でまかなわれる「保証年金」を受け取ることになる。これは、スエーデンに3年以上居住すればすべてもらうことができるが、40年居住で「満額」、3年の場合は、40分の3だけもらえる。(「保証年金」の支給額は算定方法がかなり複雑だったので割愛)

 要するに、生っ粋のスエーデン生まれのスエーデン人は満額、移民等の途中参加者はそれなりに、ということだ。

 この「保証年金」をまかなうのが25%という高率の消費税ということになるが(だと思うのだが、説明はなかったので、私の推測)、年金掛け金の支払いがゼロでも給付されるからといって、必ずしも「ただ乗り」というわけではない。何故なら、スエーデンに居住するすべての人が消費税を払っているからだ。したがって、心理的負い目なしに、基本年金を受け取る事ができる。「消費税」がある意味で、非常に公平な税制だというのは、こういうことなのである。

 それはさておき、スエーデン方式の核と言われる、「所得比例システム」の話に戻る。

 「所得比例方式」の年金保険金料率18.5%のうち、2.5%分は、納めた人本人が運用する建て前となっており、そのための口座も国が用意している。この口座に溜められた金は、本人が自由に運用する事ができる。例えば月収百万円だったら25000円を、民間の投資信託に預けてもどうしても自由であるが、国が運用する「デフォルト」が用意されているので、事実上、納付者の95%は国に任せているらしい。

 さて、問題は残りの16%だが、これはそっくり「賦課方式」として、老人への年金の支払いに充てられるが、ここが漢字肝心帳なのだが、実質は、老人に支給されていても、「概念」としては、本人名義の積立金として勘定されるのである。

 「概念」なんて、哲学的言葉が出てきて、ちょっと難しくなるが、以下の通り、掛け金を支払った人が、将来受け取る年金額で説明するとわかりやすいと思う。

 スエーデンでは年金支給の開始年齢は、現在60歳(保証年金は65歳)だが、その60歳までに積み立てた年金掛け金の総額を、その時の平均寿命まで割る。つまり、もし国の統計が平均寿命80歳と数字を出していたら、80歳-60歳=20年間となるので、掛け金総額を20で割る。たとえば、掛け金総額が4000万円だったら、1年に、4000万円÷20=200万円を、死ぬまで受け取る事ができる。(もちろん、これに2.5%の自己運用分も加算されるのだろう。)

 つまり、所得の16%分は、実質的には「賦課金」としてリタイヤ世代への支払いに充てられるのだが、帳簿上は、支払い者の名前で積み立てられ、給付の際の計算根拠となるのである。これが「概念上」という意味だ。

 以上が、「スエーデン方式」の肝で、最近では知っている人も多くなってきたのではないかと思うが、ほとんどのサイトに説明がなかったのが、「最低加入期間」が「なし(ゼロ)」ということだ。

 ということは、たとえば、ある自営業者が、ある年に大儲けして、5000万円の純所得を得たとすると、5000万円の18%、900万円を保険料として納める事になるが、翌年には一転、収入がガタ減りして、月収26万円以下となってしまった。26万円に達しなければ、年金保険加入資格がない。そしてそのまま、60歳になったとすると、その人は、一年あたり、900万円÷20=45万円にプラスして「保証年金」を受け取る事ができる。言い換えると、「最低加入期間」がないということは、1年の加入でもOKということで、実質上、「任意加入」と同じことになるはずである。(ただし、以上は、私の推測である。)

 一方、日本の場合、最低加入期間が25年と諸外国に比べて3~5倍とやたらに長い。そのため、厚生年金にしろ国民年金にしろ、途中で力つきてしまうといったケースが、最低加入期間の短い諸外国に比べ、きっと格段に多いと思うのだが、その場合、たとえば20年間だけ払ったとしたら、その掛け金総額(360万円)は国に没収されてしまうわけだ。

 いや、待てよ……このような「未納者」の発生する事は、25年間という超長期を設定した時に当然、予想されるはずである。予想しない方がおかしい。だとしたら、最初の「制度設計」の時点から、「没収」は「計算済み」だったということになる……ふざけやがって、ふざけやって……コノヤロー!と植木等みたいに怒鳴りたくなるが、冷静に考えると、もし、そうだったら、社保庁は、何故「未納者」の「摘発」に必死になるのだろう。「未納者」は年金を貰えないのだから、それでいいじゃないの。しかも、その「未納者」の多くは、多分(私みたいに)、少しは納めているのだ。もってけドロボーで、国だが社保庁だかわからねーが、くれてやるから、犯罪者扱いは、もうよしこさんと、三平師匠まで出てきちゃうぞ。

社保庁のレガシー

2007-07-02 21:44:20 | Weblog
 ……というと、やたらロマンチックだが、「社保庁の今回の混乱の根本原因は、社保庁のレガシーシステムにある」とかなんとかしきりに耳にする、このレガシーシステムっていったい何?と思ってネットで調べたら、「旧世代のシステム」という意味だそうである。旧世代……なるほど、ちょっと耳たぶがこそばい。
 以下はネットにおける「レガシーシステム」の解説。

 「レガシー・システム」とは、メインフレーム(汎用機などとも呼ばれる大型コンピュータ)を使った旧式の大規模システムを意味します。一般的に見て、レガシー・システムは信頼性/安定性に優れ、メーカーの手厚いサポートが受けられるなどの利点があり、政府/地方自治体の基幹システムにおいて数多く採用されてきました。
 しかし、OS(基本ソフト)がメーカーの独自製品であるため、多くのメーカーが共用しているWindowsやLinuxなどを使用した「オープン・システム」に比べてコストが高いという欠点もあります。また、レガシー・システムは中身を詳しく知っている開発元のメーカーしか扱えないために、システム開発を受注したメーカーが稼働後の保守やプログラム変更も長期間に渡って独占的に請け負うケースが多いのです。その際に、随意契約(入札を行わず、政府/地方自治体の担当者が任意に選定したメーカーと締結する契約)という契約形態がとられ、競争原理が十分働かない点も問題として指摘されています。

 なるほど。やっぱり、南原企画が以前使っていたキャノンのDTPシステムは、まさにこのレガシーシステムだったのだ。分かりやすい説明だ。
 実際、是非、キャノンのセールスに、是非メンテナンス契約を結んで下さい、お得ですとしきりに頼まれたが、断った。メンテナンス契約を結べば「安心」なことは確かだが、メンテナンス料が、計算すると一月に一回故障しなければ割にあわないくらいで、どう考えても高過ぎる。第一、新品で買っておいてそんなに頻繁に故障するとなんて考えにくい。天下のキャノン製品だ、少なくとも、二、三年は故障はないだろう。十年、二十年となったらわからないが……ケインズのいう通り、「そんな長期展望は意味がない」のだ。

 でも、役人は「長期の安心」が大好きだから、レガシーシステムのセールスエンジニアにとっては、飛んで火にいる夏の虫というか、なんでもいう事を聞いてくれてウハウハだったことだろう。

 社保庁の電算システムが時代遅れで、しかも社保庁の人間はその時代遅れのシステムすら、まったく理解していなかったという話を聞いて、M瀬(以下、M)さんのことを思い出した。一度書いた事があるのだが、もう一度書く事にしよう。

 多分、十数年前のことになると思うが、Mさんがある編集プロダクションから、稿料五十万円で漢字に関する原稿を書くように頼まれたが、そのプロダクションは、経費削減のため、ワープロ原稿で入稿して欲しいと言ってきた。今なら、パソコンデータをメールで送れ、ということになるのだが、当時はMさんですら所有しているほど、原稿書きにはワープロが主流だった。

 ひさしぶりの仕事にMさんは大いに頑張って原稿を仕上げたが、プロダクションのところに持って行く前に、私の所に持ってきて、大丈夫だろうかと聞いてきた。
 Mさんの持ってきたワープロの印字原稿を見ると、普通の原稿ではなく、新漢字と旧漢字を対照させるなど、一種の「表組原稿」に近かった。え、これはもしかしたらやばいのじゃないのと、思いながらMさんのワープロデータが私のパソコン(Mac)で開けるのか疑問に思いながらやってみたら、意外に開く事が出来た。しかし、画面を見て仰天した。「文章」になっていないのだ。「文章になっていない」を例にするなら、「い文/ない/にって/な章」といった感じに、文章がバラバラになってしまっているのだ。

 私はこれを見て、なるほど、ワープロのソフトというのはこうなっているのかと合点したのだが、いずれにせよ、これをそのままクライアントの所に持っていくわけにはいきませんよと、Mさんに画面を見せながら言ったのだが、Mさんは、意外な事に、「ワープロでいいと確かに言われたので、このまま持って行く」と言い張る。

 私は、意味不明の文字が並ぶ画面を指差して、「そんなことを言っても、これを見て下さい。入力し直さなければダメに決まってるじゃないですか」と強く言った。そして、当時、Mさんに十万円近く貸していて、まだ返してもらっていなかったので、「私が入力し直しますから、その入力代金として十万円を、Mさんがもらう五十万円の原稿料から下さいよ」と言った。
 これはグッドアイデアだと今でも思っているのだけれど、Mさんは、手取りが減るのが嫌なのか、「ワープロでお願いしますと言われたから」の一点張り。もしダメだったら、それは「いい」と言ったプロダクションのほうが悪いと言い張り、そのままそのワープロ原稿の入ったフロッピーを持ち去った。

 その後しばらく連絡がなかったが、半年か一年後くらいに会う機会があり、原稿料が入っただろうから、貸した十万円返してくれと言うと、「南原さんの言う通り、全然使えないから外注に出して全部打ち直します、と言われ、その代金として25万円を原稿から引かれてしまったので、申し訳ないが、払えない」と言われた。

 Mさんに貸したお金はどうなったかというと、『月光』で「漢字肝心帳」という連載を設け、その原稿料と引き換えとするということにしたのだが、原稿を貰うたび、「あれだけ言ったのにッ」と、ムカムカと腹が立ち、結構面白い連載だったと思うのだが、ネタ切れの印象が強くなった事もあって、「貸したお金分の原稿はいただいたので」と、打ち切りにしてしまった。

 そんな「裏話」もあるのだが、その後調べたところ、カタログ等には書かれていないが、ワープロには大きく分けてパソコンソフトを流用したものと独自に設計したものの二種類あり、Mさんに仕事を持ち込んできた編集プロダクションは、多分、パソコンソフトを流用したワープロ機種を使っていたので、Mさんに「ワープロで入力したフロッピーをそのまま渡して下さい、それで大丈夫です」と言ったのだろう。

 このMさんの話を今回の社保庁問題に当てはめると、Mさんが社保庁幹部、編集プロダクションが社保庁の現場職員、Mさんが、現場に「大丈夫か?」と聞くと、現場職員が、「大丈夫です」と答えたが、現場職員は、ワープロに二種類ある事を知らなかった……。

 といったところではないだろうか。しかし、文字組がバラバラになった画面を見せても、「大丈夫と言われたから」と、私の忠告を無視したのは、原稿料をせめて一晩でも、できれば二晩、せめて三晩、懐に納めて、ほくほく暖まりながらぐっすり寝たいという、貧乏人特有の心理要因を除けば、要するに、パソコンに対する知識が根本的に欠けていたため、コンピュータの専門家ならどこかの段階で魔術的な操作を施せばバラバラのデータも元通りにつなぎ合わせられるだろう、と考えたのだろう。

 アベちゃんの、「一年以内にデータを元通りに戻します」というのも、同じだったりして……。
 
 最後に一つ付け加えると、レガシーシステムには、昨今話題のウィニーソフト等によるデータの流失や、ハッカーによる侵入がほとんどあり得ないという利点もあるので、年金管理などにはむしろ、レガシーシステムの方が向いていると言えなくもない。

 問題は、社保庁の場合、その維持に年間1千億円以上、今まででの総額で言うと、一兆数千億円もかかっているということだ。いくら「オリジナルOSに加え、メンテナンス契約等を含むレガシーシステムには、お金がかかるのが普通」であるにしても、法外だろう。実際現在では、レガシーシステムに匹敵するくらい、外部からの侵入に対する防御を充分に施した、たとえば大銀行のコンピュータシステムでも、維持費は社保庁のそれの七分の一くらいだそうだ。これは奇しくも、イギリスの基礎年金の掛け金(1700円)と日本のそれ(13300円)との比率に近い。

 関係ない……ことはないだろう、たぶん。