パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

来年のことを言うと鬼が笑う……か

2007-07-09 14:25:52 | Weblog
 ウィンブルドン全英テニス選手権決勝、フェデラーVSナダルを見る。
 深夜放送のくせに録画。結果を知らなければ、いつ見ても同じ……というわけじゃない。「どちらが勝ったのか、実はもう決まっているんだよなあ」という思いが、しばしば脳裏をよぎる。しかし、試合内容はさすがで、堪能した。

 ところで、男子テニス界はフェデラー、ナダルの二人が傑出しているが、女子のほうは傑出した存在がいないので、群雄割拠状態で面白い……ということにはならないのが、面白い。「群雄割拠」は名ばかりで、実態は「どんぐりの背比べ」に過ぎないのである。一方、男子の方は、二人の存在が全体に緊張感を与え、実力差のある組み合わせの試合でも面白く見る事が出来る……ような気がする。

 しかし、そんな低調な女子勢の中で光っていたのが日本の女子選手だ。今大会の優勝者、ビーナスを追いつめた森上なんか代表的で、私は彼女の名前も顔も知らなかったが、BBCのカメラなんか、途中で森上の勝利濃厚と見たか、ファミリー席で観戦している彼女の父親を多く写すようになった(ような気がする)。

 もちろん、惜しいことに彼女は逆転負けを喫してしまったのだが、解説者が、彼女の敗因をアナウンサーに聞かれて、「うーん……わからない」と告白していたくらいに、内容的にはビーナスを圧倒していた。
 しかし、私は、テレビの前でこの言葉を聞いて、「わからない、じゃないだろ。敗因ははっきりしているじゃないか。執念の差だよ」と突っ込み、改めて、「勝たなければいけない試合だったんだ」と思いつつ、彼女にビーナスのような「執念」の見られなかった事について、あくまでも個人が個人の力で事態を打開して行く欧米文化と、個人ではなく集団を重んじる日本文化の差ではなかろうかとまで思ったのだが、その後、「執念の差」は、あくまでも「実力の差」であって、ビーナスの執念の壁にはじき飛ばされた森上も、それを受け入れる事で、自分の中に、「執念」を育てる事ができるだろうと思い直した。

 要するに何が言いたいのかというと、来年のウィンブルドンでは――もし、世界の女子テニスのレベルが現在のままで止まるならば――日本女子選手の中の誰かが準決勝にまで勝ち残るに違いないと思うのだ。準決勝に残れば、準決勝を勝ち抜けることも考えられるし、準決勝に勝てば、決勝に進出することができる。そして、決勝に進出すれば、優勝する可能性だってある。

 自分勝手な理屈に聞こえるかもしれないが、要するに、これまでは、日本の女子選手の「視界」の中に入っていなかった、「ウィンブルドン優勝」の文字が入ってきたのではないかと思うのだ。いわゆる、「ロック・オン」てやつだ。

 しかし、日本のマスコミは皆アホだから、そういう選手の気持ちを聞き出すつもりもないようで、日本には伝わって来ないが、選手自身、ウィンブルドンに限らず、メジャー大会のタイトル取得も今や決して夢物語ではないことを明確に意識しているにちがいない。



 安部首相、参院選挙告示を前に、「私は責任ある立場の人間として、《できること》しか言いません。(=民主党のように無責任な事は言いません)」と言い出した。《できることをやる》なんて、官僚の理屈でしかないではないか。こんな「洗脳」を受け入れるなんて、こりゃダメだ、である。