パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

富久町の家

2006-04-19 20:19:41 | Weblog


 写真は、幅が2メートルにも満たない小さな家が二軒並んでいるところ。このように、極端に間口の狭い、いったいどうなっちゃってるのという家は、富久町には非常に多い。身体の大きな外人さんが見たら、小人の家ではないかと思うだろう。でも、チャーミングだと思う。玄関の柱の上に草花が飾ってある

 ところで、デジカメをつかっていて、奇妙なことに気がついた。
 それは、液晶画面の「見え」のことで、対象が、広い公園か何かの「全体」を写そうと思っている時はなんでもないが、その公園の中に人を立たせ、その人を撮ろうとすると、画面の位置調整に苦労するのだ。
 たとえば、その人が、液晶画面の右隅に映ったとする。そこで、その人を中央において撮ろうとした場合、当然、カメラを「さらに右」に振らなければならないが、右隅にいる人を中央に置きたいのだから、頭の中では、その人を「左」に動かせばよいと考えてしまう。三脚などでカメラを固定した場合、写そうとしている相手が右に寄っていたら、「右すぎるぞ、もっと左に寄って!」などと声をかけるが、それと同じ心理が働いて、つい、カメラを左に振ってしまう。というか、「自分の《左に寄って》という言葉につられて」というか。すると、液晶画面上の人は、右隅からさらに右に動くことになって、画面から消えてしまうのだ。わかるかな~、わっかんね~だろ~な~。でも、デジカメを持っている人なら、実際にやってみればすぐわかる。
 しかし、本当に奇妙なことは、この現象が、何か「特定のもの」を選んで写そうとした場合に起こり、そうでなければ――たとえば、公園の全体であるとか、展望台から見た風景といった、「ある全体」を写そうとするときには起こらないということだ。ところが、全体の中のある「部分」に注目して、それを写そうとすると、撮影対象(客観)と、撮影している人(主観)との関係が「相対的」な関係となって、右が左に、左が右に……。わかるかな~、ますますわっかんね~だろ~な~。私も、よくわかっているわけではない。
 ところが、普通のカメラのファインダーの場合は、そんなことは起こらない。これが「不思議」の二つめだが、理由は、要するに、カメラと人間が一体化しているためだ。だから、私は普通の光学ファインダーのついた中古機種を買ったのだ。もっとも買った時はそんな理屈は考えず、ただ、ファインダーの方がなんとなく撮りやすいと思っただけだが。

 今のコンパクトデジカメはほとんど、液晶画面だけしか装備していない。光学ファインダーをつけるとコストが嵩むからだろうが、しかし、どちらを選ぶかとしたら、光学ファインダーのほうがいいと思うが……あ、そうじゃないんだ。液晶画面は、撮影後に確認するためなんだ。

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