パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

やっちゃった……(泣)

2006-04-05 14:39:21 | Weblog
 極貧の私に金を借りにくる、極々貧のMさんは、現在、校正の仕事で暮らしているのだが、ちょっと前、こんなことを言っていた。
 「昔だったら、校正刷りでチェックするところは、その前に赤を入れたところ、つまりチェックした箇所だけを確認すれば良かったが、最近はほとんどが電子組版になったので、校正の影響がとんでもないところで出てくる可能性があり、チェックしたところだけでなく全体を再度チェックしなければならないので気が休まらず、しんどいです」と。
 そうなんだよ、Mさん、これまで私が散々言ってきたことはそれなんだよ、昔風の校正の意識では対処できないんだよ、やっとわかってくれたみたいで嬉しー、と思った矢先、私がやってしまった。

 それは大宮のリベラル右翼で、テコンドー協会理事のSさんの仕事なのだが、出来上がった紙面をプリントしてSさんにファックスををしてOKをもらった。ところが、その後、写真の位置がちょっとずれていたので、わずかに修正したら、コンマ数ミリ程度なのだが、その結果、隣接していた「やったのは違反建築の黙認だけ」という大見出しのテキストボックスに影響が出てしまい、「やったのは……黙認だけ」の最後の「け」がボックスの外に追いやられ、「やったのは……黙認だ」になってしまったのだ。「黙認だけ」と「黙認だ」では、意味そのものにはそれほど違いはないように思うが、ニュアンスがかなり異なる。
 Sさんから連絡があった時は、印刷屋にデータを渡した際に、ちょっとしたソフトのバージョンの違いか、あるいはフォントの違いか何かで文字欠けしたのを、印刷屋が見落としたのではないかと思って、「印刷屋に責任があるのではないか」と言ったのだが、実際はそうではなく、こっちに責任があることがわかった。とほほ、しょうがない、こちらの負担で刷り直しするしかない。全部数を刷り直するわけじゃないけど、デジタル印刷の場合はアナログ印刷のように「使い回し」がほとんどきかないので、値段はあんまり変わらない。ぢっぐじょう~ぅ~ぅ~ぅ~ぅ~。

ウィニ-使ってネタ探し

2006-04-04 13:47:26 | Weblog
 今日のサンケイ新聞、「断」というコラムに、『パソコンソフト「ウィニ-」を介して感染するコンピューターウィルスによる機密情報漏洩事件をリードしているのは一貫して毎日新聞であるが、その報道内容からすると、毎日新聞自身がウィニーを使って漏洩情報を探し、そのネタを漏洩元にぶつけて記事化しているとしか思えない。』とあった。えええ? いや、びっくりだ。

 コラムの著者は佐々木俊尚という「ジャーナリスト」だが、彼によると、ウィニーのデータは、ウィニーを使う無数の個人ユーザーのパソコン上に散らばっているが、その情報は、参照するユーザーがいる限りは残り続けるが、「参照者がいなくなると数週間でネットワーク上から消える」のだそうだ。もちろん、匿名掲示板、たとえば2chなどに情報がいったん掲載された場合は、インターネット上に残り続けることになるだろうが、多くは、人知れず漏洩して、誰にも知られぬまま消えていくはずで、――きわめて微妙な問題ではあるが――それらをわざわざ報道するのは「寝た子を起こす」行為と言えなくもない、と書いている。

 なるほどね。情報が漏れたということは、誰かがその情報をキャッチしたはずだが、そのキャッチした人がそれを使って何かをしようとした形跡は(ニュースを読む限り)どこにもないので、非常に不思議だと思っていたのだが、そういうことだったのか! 
 たしかに「極めて微妙な問題」だが、毎日新聞は、これを「事件化」すべきではなく、「問題提起」として報道すべきだっただろう。

 あえて言うのだけれど、これは、姉歯の妻の自殺という悲劇まで生んだ、「マンション強度偽造事件」にも言えるのではないか。ヒュ-ザ-の社長は、「地震が起きて死者が出たら対処すればいいじゃないか」といったらしいが、「実際問題」としては、それも「あり」ではある。
 もちろん、姉歯事件の場合は、建築基準法の違反という、れっきとした「犯罪」でもあるのだけれど、だとしたら、それはそれで処理すればいい問題で、マスコミは、建築基準法の「基準」は安全値を数倍に見込んでいるから、違反したからすぐ壊れるわけじゃない、ということを、事件の一面として報道すべきだろう。そのためにも、「姉歯物件」がこれまでどのくらいの地震に見舞われてきたかを実地検証すべきだと前から言っているのだが、マスコミのバカは、大学の研究室で模型を揺らして見せたりするだけ。まるでバラエティー番組の「乗り」だ。そして、その結果、まさに「寝た子は起こさない」態度で処理しようとしているのがみえみえだが、姉歯の妻の自殺という悲劇を引き起こしてしまった。
 え? そんなことはない、って……? だったら聞くが、マンション模型の破壊「実験」で、模型が壊れなかったら報道しただろうか? しないに決まっている。

派遣さん、いらっしゃ~い

2006-04-03 14:20:25 | Weblog
 読者、約一名来社。「久し振りですねえ、もう30になりましたか?」といったら、「もう、30半ばです」と。年寄りの発言だなあ。でも、若く見えますよ、実際。その後、派遣会社社員をしているということで、その話などでだらだら盛り上がる。
 ちょうど、その前の日に「朝生」の「格差社会」のテーマで派遣社員の待遇が話題になっていたわけだが、彼女の話を聞くと、月収20万後半は堅い感じで、年収百万にもみたないといった、「朝生」で話されていたほど酷いことはないようだ。その「月収20万後半」は「手取り」で、派遣会社が手数料として三割近く取っているそうだ。派遣先からの入金伝票がまちがって彼女のところに届いてしまったのでわかったそうだが、ちょっと取り過ぎではないか。
 いずれにせよ、派遣先会社が派遣社員を求める目的は、「簡単にクビにできる」など、管理上のメリットが主で、金銭的には正社員に近い対価を払っているのかもしれない。これからますます派遣業は盛んになるだろう。「入社後3年間は、簡単にクビにできる」という法律をめぐってゼネスト状態だというフランスも、「派遣社員」方式にすればいいのにと思う。
 ただ、問題は、日本の場合、「会社」がコミュニティーの代わりになっているところがあるので、「派遣さん」がそのコミュニティーの一員になるのが難しいとしたら、彼、彼女たちは自分たちのコミュニティーをどこに求めたらいいかという問題があるかもしれない。
 しかし、派遣会社の取り分が三割近いという数字はどこから出ているのだろう。書籍販売における書店の取り分がちょうどそれくらいなので、単に日本社会の「商慣行」ということかもしれない。そういうところがある、この日本は。

 テレビで見た「ロード・オブ・ザ・リング」について、これが「指輪物語」であることを確認。そうじゃないかと思っていたのだ(笑)。もっとも、半分くらい見て、やめてしまった。ストーリーを追うのが面倒臭かったからだが、そのあらましを彼女から聞いて、納得。「ロード・オブ・ザ・リング」を楽しく見るには、「指輪物語」を知らなければ、無理だ。じゃあ、指輪物語マニアにとっては、名作かというと、そうでもないだろう。

 翌々日、「チャーリーズ・エンジェル」を、これまたテレビで見る。どうせ「CGだらけのアクション映画」だろうと思っていたのだが、CGは必要なところのみに限っていたし、案外面白かった。最初のうち、なんとなく「ハリウッド」に対するオマージュ映画のような感じがしたのだが、実際、ラストシーンはハリウッドのアカデミー会場が舞台だったし、豪華な映画館のステージで最後の格闘が演じられるし(「最後の」、ではなかったかな?)。
 要するに、「チャーリーズ・エンジェル」のメッセージは「映画を楽しみましょう」であって、一方、「ロード・オブ・ザ・リング」のメッセージは「『指輪物語』を楽しみましょう」なのだ。
 ちなみに、見ていて、萬田久子をどこかで見たかった感じがした。でも、エンジェルをやらせるにはちょっと歳くっているし(若ければ、ばっちりだろう)、敵役の元チャーリーズ・エンジェルには冷徹さが足りなさそうだし、結局、「脇で笑いを取る」といったところか。

 本棚を整理していて、吉本隆明の『私の戦争論』を見つけ、ぱらぱらと読んだが、改めてびっくり。和歌山の毒入りカレー事件を、フェミニズム犯罪だとか言っている。反論すれば、吉本は、「原理的にはそうなのです」とか答えるのだろう。しかし、この吉本流「原理主義」も、4、5年前までは納得する人もそれなりにいたかも知れないが、今はもう無理だろう。
 そもそも吉本は、オウム事件を「戦後最大の事件」と位置付けている。しかし、私には松本も上祐もコメディアンにしか見えず、吉本の評価がわからなかったのだが、今回の流し読みでなんとなくわかった。つまり、「権力奪取」という左翼としてのアイデンティティに関わる問題をすっかり忘れ去っていた戦後左翼を、オウムは実際に実行に移す(サリンの散布)ことで乗り越えてしまった。それなのに、左翼は「乗り越えられた」ことにも気づいていない、といった理屈らしい。あれれ?……ということは、オウム事件は、「左翼の没落を決定づけた」という意味で、「戦後最大の事件」だと、彼は言っているのか? だとしたら、私には関係ないことだし、「わからなかった」のも当たり前ということになる。
 いずれにせよ、吉本はかつて新左翼の理論を支える思想家だったが、その後、一見消費社会万歳的言動で、あたかも「転向」したかごとき印象だったが、実際は全然そうではなく、極めてラジカル(原理的)な左翼としての立場を模索しているのだ(今さら言うまでもないことだが)。
 まあ、それはそれで構わないのだけれど、北朝鮮からミサイルが日本本土に飛んできたら、まず、「誤まって飛ばしたのか、それとも本気か?」と北朝鮮当局に確かめろてのはあんまりじゃないの?(笑) まあ、実際にテポドンミサイルが日本上空を通過した際、朝日新聞が「一発だけなら誤射の可能性もあるから反応は慎重に」と社説に書いて、未だに一部(2ch)で語り草になっているわけだが、あれは、吉本先生のパクリだったのかも。
 それから、吉本ではないけれど、中国の老子の反文明的ユートピアを是とする新左翼の論客がいたり。老子は聖、知、仁、義といった人間の徳目とされる事柄も、それ故に争いが生じるのだとして排し、「鶏犬の声が相聞こえる」ような村落共同体のなかで各々、「見ざ、言わざる、聞かざる」状態のまま、「老死にいたるまで相往来せず」が良いのだと言ったのだが、吉本は、戦後復員した時、「国家なんかなくてもみんな何とか生きていけるんだと思った」ことを自分の思想活動の原点としてしきりに強調しているから、つまるところ、この老子の思想に帰着するのかもしれない。
 実際のところ、「発展は不必要、現状を維持できれば良い」というこの思想は、社会主義者の中に牢固として潜んでいるように思う。たとえば、「西側が競争をしかけなければ、ソ連も生き残ることが出来たはず」という社会主義者は今でも多いが、それをつきつめれば、「発展、進歩」が何故必要なのかという根本的疑問に突き当たり、とどのつまりは老子のユートピアに行き着きそうだ。現に、小田実なんか、その方向だし。でも、ソ連が滅んだのは、チェルノブイリの原発事故が原因だし(ゴルバチョフが明言していた)、その後、原発だけでなく、社会主義各国の「公害」のさんたんたる状態が暴かれた。公害の解決は社会主義体制下でなければできない、資本主義体制では無理、と3、40年前、彼らが盛んに言っていたことなのだが。
 ……皆さん、興味のなさそうな話ですんません。

「朝生」を見て

2006-04-01 16:05:21 | Weblog
 久し振りに「朝生」を見る。テーマは「格差社会」だったが、結構おもしろかった。特に、途中で「経済論争」になったあたり。森永卓郎と宮崎哲哉がインフレターゲット派で、それ以外が反インフレターゲット派だ。
 一般向けには、景気が回復したのは小泉改革の成果であるということになっていて、その「成果」のマイナス部分が「格差社会の出現」であり、それをテーマに討論しようというのだから、「そうじゃない、景気が回復したのはインフレターゲット的政策のおかげなんだ」と主張する森永、宮崎の出現に、田原が相も変らぬ調子で、「インフレターゲットって何?」とか「知らぬふり」で割って入ったのは、司会者として問題をそらす必要が生じたからであろう。そして、その挙げ句、「なるほど、経済成長率の目標を2、3%あたりに置くわけね」とつぶやいていたが、おいおい、そうじゃないよ。「知らぬふり」じゃなく、本当に「知らない」んだな、この老人は。
 「経済成長率」じゃなく、「物価上昇の目標値をおいて、それ人為的に起こす」のがインフレターゲットであり、その目標数値が2、3パーセントくらいということだ。

 田原の無知はともかく、わざわざインフレを起こすなんてとんでもないことだと思われるかも知れないが、「ゆるやかなインフレ状態」、言い換えれば、「少しずつ成長すること」が、経済活動を健全に保つためには必要であるというのがインフレターゲット論者の主張だ。いや、そうじゃない、すべての経済学者が、「ゆるやかなインフレは必要である」と考えているが、そのためには、貨幣を大量に提供することが有効である、これがインフレターゲット論者の主張であり、かつマネタリストのやり方でもあって、日銀は、伝統的に反マネタリスト、反インフレターゲットが主だったが、背に腹は代えられないということで、実質インフレターゲット論者の意向に沿ったような政策を続けることで景気回復を果たしたのだが、目標を達成したとたん、それを捨てるなんて、「別れろ切れろは芸者のうちにいう台詞」というか、なんというか、なんてつれない仕打ちなんだ、と一月程前に書いたのは私なんだが、昨日の「朝生」では、それに似たような話が中途で飛び出したので、「面白かった」のだ。

 ところで、もっと面白かったのは、そんな宮崎哲哉に対し、金子勝が「あんた、言ってることが以前と違うね」と突っ込み、それに宮崎が「二年前から、意見変えた」と答えていたことだ。いや、宮崎君、私と同じだね。私も二年前から意見を変えたのだ。

 宮崎は、二度も「二年前から」と言っていたが、「何故二年前からなのか」ということは言わなかった。それで、私の場合を言えば、二年ちょっと前あたりから、日本の為政者の態度が、「世論の動向」を無視し得ないことを自覚し出したように、私の眼にうつるようになった。それで、全体的には、徐々に良い方向に向かっていると思ったのだが、宮崎も多分、同じような印象をもっているのではないか。(「悲観的な方向」に意見が変ったとするなら、その時点ではっきり言わないと、言論人としてはまずいわけで、したがって、それを言わなかったということは、「楽観的な方向」に変わったのだと推測できる……かもしれない)

 宮崎のことはともかく、たとえば、成田空港問題にしても――もちろん、過激派を支持するのではないが――、「世論の動向」に敏感であれば、半世紀近くもすったもんだすることもなかっただろう。そして、日本の為政者は、多分、そのことを学んだのだと思う。その結果が、たとえば、米軍の再編に伴う沖縄の基地移転問題だ。この問題に対する当局の態度は、どんなに少数派であろうと、それを強制的に実力排除すると、結局、問題解決がひどく困難になるというもので、アメリカにもそう言っているらしいが、これは成田問題から学んだのだろう。
 あるいは、狂牛病問題にしても、安部官房長官は記者会見等で「消費者の安全と安心に留意」と言っているが、これは、現在の世論の動向を見る限り、「安全」だけでなく、「安心」の二字も無視できないと見極めているからと思われる。もちろん「安心」なんか、保証できるはずもない代物なのだが、そう言わないと世論が離れ、問題解決が遠のく危険性があると政府当局は見ているのにちがいない。ということは、安部官房長官の談話から「安心」の二字が消えた時、アメリカからの牛肉輸入が再開されることになるのだろう。もちろん、「何故、《安心》を言わないのか」と記者から突っ込まれるだろうが、「安全であることを確認できたということは、《安心》も確認できたということなのであります」とかなんとか答えるのだろうと、先回りして想像したりして。

 というわけで、もちろん、国民年金問題をはじめとして問題は山積しているものの、日本の政府・与党は、「二年程前」から、積年のこだわりだか何だか知らないが、ともかく何かを吹っ切ったように安定し、熟成の道を辿ろうとしているように私の眼には見えるのだが、宮崎哲哉の「二年程前」はどんなことがあったのだろう。