Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

言葉と言葉のあいだに

2012-03-18 18:21:15 | 未分類
今日(3/11)のテレビ欄は、震災一色で30本以上の番組(週刊テレビジョン3月7日)がありますが、見ません。

震災以後のテレビ報道を見ていて、月が替わった頃から特に注意して見なくなりました。(東電の起こした福島原発事故は別です。)

これは、テレビ報道は被災者の方が話される言葉、表情を扱い、言葉と言葉の間(短い沈黙)、表情の一瞬の強張り、拒絶された視線などを「ことば」で伝える報道が皆無だからです。

被災者自ら語りえぬ事柄こそ報道で伝えるべきであり、記者、インタビュアー、評論家、コメンテーター、アンカーが饒舌に語るほど、語るべきことが拡散し、霧消することに耐えられなかったためです。

伝える側の自己存在を賭けての視点がない以上は、伝える側の饒舌は被災者の方々を毀損しているに過ぎません。

また、密かに想念している事柄は、まったく耳にしません。(後述)



『瓦礫の中から言葉を-わたしの〈死者〉へ』(辺見庸 NHK出版新書)

辺見庸はwebに書かれていたものを読んだことがあるくらいで一冊も読んでいません。

同書に『言葉と言葉のあいだに屍がある。』(堀田善衛の「橋上幻像」からのアフォリズム)と、また、『人間存在というものの根源的無責任さ』(彼固有のアフォリズム)と展開され、被災者自ら語りえぬ事柄を表象しようと悶絶(失礼)の様が、苦悶にも似た生き様が心奥深く伝わってきます。

「AC広告」、「絆」、「饒舌な報道」等により「主体喪失、集団化」に感化されていると、同書は何が書かれているのか、つまらない類と化します。

密かに想念している事柄が、明確に書かれていました。(同書179P~)

堀田善衛が東京大空襲の焼け野原を見て「上から下まで、軍から徴用工まて、天皇から二等兵まで全部が全部、難民になってしまえば。」

折口信夫は関東大震災を見て「ああ愉快と 言ってのけようか。一挙になくなっちまった。」

串田孫一は関東大震災の記憶に重ね、人間滅亡後の眺めというのは「とてもきれいな風景」で「さばさばしている」

これらのあるまじき(不謹慎と批判される)言説が、報道からまったく伝わってきませんし、誰も発語していないのでしょうか。
報道された映像には、見るに耐えない死体が写りこまない作為と同様に。

明日(3/12)のテレビ欄の震災関連はBSに1本だけあります。
この明るすぎるあるまじき報道姿勢こそ、不謹慎と批判すべきです。

(2012.03.11記)