みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#436 神の法第三戒

2019年10月23日 | 神の法
第3戒
神の御名
 
p124~
The Name of God
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

1968年7月、メリーランド州ウェストミンスターにおいて、一人の男が公的な場所において、主の御名をみだりに唱え、神を冒涜したことにより、有罪の判決を受けた。

彼は繁華街で喧嘩をし、逮捕しようとした警察に抵抗した。

有罪判決の理由が問題の本質を明らかにしている。

最高裁の法解釈の下で、法律は着実に捻じ曲げられ、日常の事件における告発がますます困難になっている。

コメント:
やや難しい文脈。
繁華街で喧嘩をして警察に抵抗した犯罪者に対する告発理由が、「公的な場所において、主の御名をみだりに唱え、神を冒涜した」という理由にすり替えられたということ。
この程度の犯罪は罪には当たらないという(最高裁による)法解釈があったのか。或いは、下の記述を読むと、意図的に悪を擁護するような法体系があった可能性がある。

微罪裁判官チャールズ・J・シンプソンが1723年に制定された古い法律を適用したのは、「このような無名の法律でしか、この類の問題を扱うことができない」からだった。

この裁判官のジレンマは、格別驚くべきことではない。

平等に関する新しい教えの影響下で、犯罪は善と平等に扱われてきた。

しかも、優位な立場を与えられることすらある。

多くの人々からアメリカ最大の詩人と賞賛されているウォールト・ウィットマンは、この平等の原理を次のように直截に述べている。

善と呼ばれているものは完璧であり、悪と呼ばれているものも同じくらい完璧である。

善にも悪にも平等の価値が与えられるならば、法律の空文化は避けられない。

しかし、平等を否定するだけでは不十分。

平等を前提とした法律が認められるならば、エリートによる専制的支配を避けることはできない。

真正なる法は、唯一まことの絶対者なる神に依拠しなければならない。