みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#435 神の法第三戒

2019年10月22日 | 神の法
第3戒
宣誓と権威
 
p123~
The Oath and Authority
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

神の復讐には2つの合法的形態がある。

神の絶対的かつ完全な義は、最後に完全な義をもたらす。

歴史は、キリストの勝利においてその絶頂に達し、すべての悪に対して報復が行われる。

神がお立てになった権威、両親、牧師、市民的権威などは、神の正義と報復を行なう責任がある。

彼ら自身も罪人であるため、正義を完璧に行なうことは不可能だが。

しかし、いかに不完全であっても、正義は正義。

曇りの日の昼は真夜中ではない。

たとえ不完全であったとしても、義(昼)は不義(夜)ではない。

神の人は、完璧な正義や報復を期待しない。

人間にそれを期待することはできないことが分かっているから。

聖書には、報復の例や昔の悪に対して裁きが下った事例が記されている。

しかし、ポティファルの事件について、ヨセフの身にそのようなことは起きなかった。

ヨセフは、姦淫の嫌疑をかけられて牢に入れられたが、そこから出され、大きな権力を与えられた。

パロにとって、彼の過去は些事に過ぎなかった。

ヨセフは、死ぬ日まで、「あいつは前科者だ。強姦しようとしたために牢屋にぶち込まれたのだ」と陰口を叩かれ続けたことだろう。

しかし、ヨセフは正しい統治を行った。

兄弟たちと対面した時に、彼はその権力を用いて、彼らに報復した。

それは、彼らの内面を探るためであった。

たとえ彼がポティファルやその妻を罰したとしても、何も得られなかったことだろう。

この夫婦にとって、かつて自分の奴隷であった者が、エジプトにおいてパロにつぐ権力を持っていることを知った時ほど、恐ろしい瞬間はなかったことだろう。

神がヨセフを守ってくださった。

完全な正義を達成し、嫌疑を完全に払拭し、汚名を徹底して晴らそうとする人は、僭越にも、神にのみ属する復讐の務めを奪い、悪人の一味に加担している。

このような僭越な行為は、たとえ主の御名によって行われたとしても、やはり冒涜にほかならない。

出エジプト記21:17
自分の父または母を呪うものは、必ず死ななければならない。



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